◆第43話「風が運ぶ悲鳴」
それは、十一月初旬。秋ジャガイモの収穫が始まる直前のことだった。王都近郊では、八月に植え付けられた秋作のジャガイモが、まさに収穫期を迎えようとしていた。農民たちは豊作を期待し、倉庫の準備を進める時期である。
王立魔道士アカデミーの敷地内でも、一際異彩を放つ場所がある。第四研究室、通称「ジャングル」。石造りの無機質な壁は、這い回る蔦と巨大な葉に覆われ、本来なら研究機材が並ぶべき棚には、見たこともない色の苔や、脈打つように呼吸するキノコが鎮座している。床は見えず、黒々とした腐葉土が敷き詰められ、湿った空気には土と緑の濃厚な匂いが充満していた。
魔道士アカデミー最高の土魔法使いであるテオドールは、いつものように植物たちと対話した後、食事を摂るために研究室に戻った。泥だらけの白衣を脱ぎもせず、彼は机の上の冷めたサンドイッチに手を伸ばす。そのとき彼は、窓の外から流れ込む風に違和感を感じ、不審げにつぶやいた。
「……おかしい」
テオドールはサンドイッチを置き、分厚い瓶底眼鏡の位置を直した。彼は立ち上がり、蔦に埋もれた窓枠に手をかける。外は季節外れの冷たい雨が降り続いていた。空は鉛色の雲に低く垂れ込められ、アカデミーの尖塔も霞んで見える。だが、彼が感じ取ったのは視覚的な異変ではない。もっと根源的な、大地の震えだ。
十月下旬から続いた異常な長雨と、例年より早く訪れた冷え込みが、見えない悪魔を呼び寄せていたのだった――
「土の匂いが変わっている。……何かが腐る臭いと、ジャガイモの悲鳴を感じる」
彼は鼻をひくつかせた。雨の湿気の中に、微かだが確実に混じる異臭。それは、魚が腐ったような、甘ったるく鼻腔を刺す不快な臭いだった。
「ただの腐敗じゃない。これは……『死』が風に乗って運ばれてきている。まさか、ジャガイモを疫病が襲っているのか!」
◆
同じ頃、王都近郊の農村地帯。連日の長雨により、街道は泥沼と化していた。農夫のハンスは、泥に足を取られながら自分の畑へと向かっていた。
「まったく、いつまで降るんだ。これじゃあ芋が水っぽくなっちまうぞ」
彼は蓑を被り、雨除けの布をかけた畑を点検して回っていた。今年の春作は豊作だった。この秋作も順調にいけば、冬の間も家族に腹いっぱい食わせてやれる。イモ工場の藤村様が教えてくれた通り、土寄せもしたし、肥料もやった。
だが、畑に近づくにつれ、ハンスの足取りは重くなった。臭うのだ。堆肥の臭いではない。もっと胸が悪くなるような、ドロドロとした腐敗臭が漂っている。
「……なんだ?」
ハンスは、畑の隅にあるジャガイモの畝に駆け寄った。そして、絶句した。
昨日まで青々と茂っていた葉が、無残な姿に変わり果てていた。葉には墨汁を垂らしたような黒い斑点が浮かび、縁から溶けるように枯れている。茎は黒く変色し、雨に打たれて力なく地面に横たわっていた。「おい……嘘だろ……」ハンスは震える手で鍬を握り、土を掘り返した。ゴロリと出てきたのは、ジャガイモだ。だが、それは彼が知っている黄金色の作物ではなかった。皮の一部が赤黒く変色し、指で触れると、ブヨブヨと崩れた。中からは鼻を突く悪臭を放つ茶色い汁が滲み出てくる。
「ああ……ああっ!!」
ハンスは膝から崩れ落ちた。泥水が膝に染みるのも構わず、彼は腐った芋をかき集めようとした。だが、掘れば掘るほど、溶けた芋が出てくる。「全部だ……全部やられた……!」隣の畝も、その隣も。見渡す限り、畑は黒い斑点に覆い尽くされていた。
風が吹く。湿った風が、胞子を含んだ見えない霧を運び、隣の家の畑へ、さらにその向こうの村へと流れていく。それは、疫病。かつて異世界のアイルランドを地獄に変えたカビの一種。王国の豊かな実りを支えていたジャガイモ畑は、一夜にして死の沼地へと変わろうとしていた。
雨音に混じって、農民たちの慟哭が響き渡る。「冬が来るのに……俺たちは何を食えばいいんだ!」その悲鳴は、やがてパニックとなって王都へとなだれ込むことになる。




