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◆第42話「板塀の隙間と、喉につかえるパンの味」

 王都の空は、鉛色の雲に覆われていた。時折混じる冷たい雨が、いずれくる冬の到来と、これから訪れる不穏な未来を告げているようだった。


 正午の鐘が鳴り響く。藤村蓮の食品加工工場では、昼休憩の合図とともに、製造ラインが一時停止した。

「うおー! 飯だ飯だ!」

「今日の社食はなんだ?」

「新作の『バター入り卵イモラーメン』らしいぞ!」


 食堂からは、湯気とともに食欲をそそる濃厚な香りが漂ってくる。暖房の効いた室内で、従業員たちは配給された温かい食事を囲み、談笑していた。彼らの頬は血色が良く、その表情には労働の疲れこそあれ、悲壮感はない。


 だが、風魔法担当の「排気主任」カイは、なんとなく食堂の熱気が少し息苦しくなり、食べかけのパンと椀を持って工場の裏手へと足を運んだ。


「……ふぅ。外はやっぱり寒いな」


 工場の裏手には、資材置き場がある。その先には高さ3メートルほどの頑丈な板塀が続いており、隣接する「ファビアン商会」の敷地とを隔てていた。カイは適当な木箱に腰を下ろし、パンをかじった。工場の余熱で少し温かい壁にもたれかかり、ぼんやりと空を見上げる。


 ここ(蓮の工場)は、天国だ。カイは最近、そう思うようになっていた。定時になれば帰れる。残業代は出る。飯は美味いし、ボス(蓮)は話を聞いてくれる。アカデミーを追い出された頃の絶望が嘘のようだ。


(……でも)


 カイの耳に、板塀の向こう側から、不快な音が届く。ガシャン、ガシャン、というけたたましい織機の音。そして――。


「こら! 手が止まってるぞ! サボるな!」

「す、すみません……!」

「遅い! 昼飯抜きにするぞ!」


 怒号と、何かが叩かれる音。そして、押し殺したような子供の嗚咽。最近、隣の工場から聞こえてくるのは、そんな音ばかりだ。


「……飯抜き、かよ」


 カイは手元のパンを見た。ふっくらと焼かれた白パン。中には乾燥肉とチーズが練り込まれている。自分はこれを「腹一杯だから」と残そうとしていた。その時だった。


 ガサッ。


 背後の板塀から、微かな音がした。カイが振り返ると、古くなった板塀の一箇所、ちょうど腰のあたりの節穴が抜け落ちており、そこに「目」があった。泥と油で汚れた、落ち窪んだ目。それが、じっとカイの手元――パンを見つめていた。


「……!」


 カイは息を呑んだ。塀の向こうに、誰かいる。背丈からして、子供だ。その視線は、強烈な飢餓感を放っていた。挨拶も、敵意もない。ただ純粋に「カロリー」を渇望する、野生動物のような目。


 カイは無意識に、持っていたパンを差し出した。「……食うか?」


 一瞬の躊躇。だが、生存本能が勝ったのだろう。隙間から、枯れ枝のように細く、傷だらけの指が伸びてきた。パンをひったくるように掴むと、すぐに引っ込んだ。ムシャムシャ、と獣が獲物を貪るような音が聞こえる。咀嚼する時間さえ惜しいと言わんばかりの勢いだ。


「……おい。向こうじゃ、飯は出ないのか?」


 カイが塀越しに話しかけると、咀嚼音が止まった。しばらくして、かすれた少年の声が返ってきた。

「……朝のスープだけ。薄いやつ」

「昼は?」

「ノルマが終わらないと、出ない。……僕、糸繋ぎが下手だから。昨日も食べてない」


 カイの背筋が凍った。昨日から食べていない? 成長期の子供が? しかも、あの重労働の中で?


「……ひでぇな」

 カイが呟くと、後ろから足音がした。

「カイ君? こんなところで何を……」


 現れたのは、アンナと、火魔法担当のガントだった。

「あ、アンナさん。ガントの旦那」

 カイは口元に人差し指を当て、「シッ」と合図をしてから、塀の隙間を指差した。アンナたちは状況を察し、表情を硬くした。ガントが低い声で唸る。

「……噂には聞いていたが。まさか、ここまでとはな」


 アンナは何も言わず、エプロンのポケットから「乾燥サツマイモ」の小袋を取り出した。そして、膝をついて隙間に話しかけた。「ねえ、坊や。これを持っていきなさい」


 隙間から、再び手が伸びる。

「……いいの?」

「ええ。ただし、今すぐ食べちゃダメよ。隠し持っておいて、監督官が見ていない時に少しずつかじるの。見つかったら取り上げられるわ」

「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」


 小さな手は、袋を大事そうに握りしめて引っ込んだ。その直後、向こう側からドスドスという重い足音と、「おい7番! どこへ行った!」という怒鳴り声が聞こえた。タタタッ……と子供が走り去る音がして、気配が消えた。


 残されたのは、冷たい風と、三人の大人たちだけだった。


「……なんだよ、あれ」

 カイは、空になった自分の両手を見つめて、吐き捨てるように言った。

「あいつら、同じ人間だろ? なんで……飯も食わせてもらえねぇんだよ」


 ガントが痛ましげに目を伏せる。

「ファビアンの野郎だ。コストカットだの何だの言って、子供を使い捨ての部品くらいにしか思ってねぇんだろうよ」

「……」


 カイは、喉の奥に、さっき食べたシチューの味がこみ上げてくるのを感じた。数分前まで「美味い」と感じていた味が、今は鉛のように重く、胃の中で冷たく固まっている。


「なぁ、アンナさん」

 カイの声が震えた。

「俺たち……恵まれすぎてるよな」


 アンナが、ハッとしてカイを見る。カイは板塀を拳でドン、と叩いた。


「俺は運が良かっただけだ。たまたま、ボス(蓮)に拾われたから。たまたま、俺の魔法が工場の役に立ったから、ここで温かい飯が食えてる」

 カイは板塀の向こう、見えない地獄を睨んだ。

「もし、ボスに出会ってなかったら……俺もあっち側にいたかもしれない。いや、アカデミーを追い出された俺なんて、あの子よりもっと惨めな場所で野垂れ死んでたかもしれないんだ」


 板塀一枚。たった数センチの木の板。それが、天国と地獄を分けている。実力でも努力でもない。ただの「運」と「巡り合わせ」だけで、自分はこちら側にいて、あの子はあちら側にいる。その理不尽さが、カイの胸を締め付けた。


「……後ろめたいよ。俺たちだけ、こんなに幸せで」


 カイの言葉に、アンナは悲しげに微笑み、そっと彼の手を握った。

「……ええ。私も時々、怖くなるわ。屋敷に残してきたあの子たちは、今も寒い部屋で震えているんじゃないかって」

 アンナの手も、微かに震えていた。彼女もまた、自分が「選ばれて逃げ延びた者」であるという罪悪感を抱えていたのだ。


「でもね、カイ君」

 アンナは強く言った。

「だからこそ、私たちは働かなくちゃいけないの。この工場を絶対に潰しちゃいけない。私たちが力をつけて……いつか、この塀を壊せるくらいになるまで」

「……塀を、壊す」

「そうよ。あの子たちにパンを分けられるくらい、私たちが強くならなきゃ」


 カイは涙を拭い、大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺す。だが、その痛みのおかげで、少しだけ目が覚めた気がした。


「……そうだな。泣いてても腹は膨れねぇもんな」


 カイは立ち上がった。その目には、先ほどまでののんきな光はない。

「戻ろう、仕事に。……今の俺には、風を送ってイモを乾かすことしかできねぇけど。でも、それがあいつらの未来に繋がるなら、死ぬ気で回してやる」


 工場の午後の始業ベルが鳴る。カイ、アンナ、ガント。三人は無言で頷き合い、職場へと戻っていった。彼らは知ってしまったのだ。自分たちの幸福が、薄氷の上に立つ、脆く、そして不公平なものであることを。


 板塀の隙間には、まだパン屑が少し落ちていた。この日、カイたちが抱いた「理不尽への怒り」と「恵まれた者の責任ノブレス・オブリージュ」にも似た感情は、やがて来るファビアン商会救済劇において、彼らを突き動かす原動力となるのであった。

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