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◆第40話「泥の雨と、猫より軽い命」

 妻のセシリアと娘のリリィが出て行ってから、何時間が過ぎただろうか。ファビアン商会の主、ファビアンは、ガランとした屋敷の居間で一人、ソファに沈み込んでいた。


 目の前のテーブルには、最高級の赤ワインのボトルが空になって転がっている。だが、どれだけ煽っても酔いは回らなかった。舌の上に残るのは、果実の芳醇な香りではなく、砂を噛んだようなジャリジャリとした苦味だけだ。


「……ふん。せいせいしたわ」


 ファビアンは誰に聞かせるともなく独りごちた。

「女というのは、どいつもこいつも理想論ばかりだ。『今のままで十分』だと? 何も分かっていない。この国で爵位を持たない金持ちが、どれほど惨めな餌食カモかということを」


 彼はグラスに残ったおりを飲み干そうとして、手が震え、深紅のしずくを純白の絨毯にこぼした。まるで血痕のように染みが広がる。その時だった。窓の外で、ゴロゴロという低い唸り声が響いたかと思うと、激しい雨が窓ガラスを叩き始めた。


 バチバチ、バチバチ!それは慈雨ではない。地面の泥を跳ね上げ、全てを冷酷に押し流す暴力的な雨音だった。


 ファビアンの目が、虚空を彷徨う。その瞳の奥で、現在と過去が混濁していく。


「……雨の日は嫌いだ」


 彼はポツリと、呪詛のように呟いた。


「とりわけ、こういう泥臭い雨のときは……」


 その風景は、彼が心の最深部に封印し、何十層もの金貨で蓋をしていたはずの「原風景」を、無理やりこじ開けるからだ。



 ――三十年前。王都のスラム街。あの日の雨も、今日のように冷たく、痛かった。


「兄ちゃん……苦しいよ……」


 腐った板切れで作られた粗末な家の中で、弟のトビーが浅い呼吸を繰り返していた。高熱で頬は赤く腫れ上がり、喉からはヒューヒューという異音が漏れている。流行り病だった。隣の家の婆さんは死んだ。向かいの赤ん坊も死んだ。


「大丈夫だ、トビー。兄ちゃんが医者を呼んでくる。絶対に助けてやるからな!」


 当時十二歳だったファビアンは、弟の汗ばんだ手を握りしめ、ボロボロの革袋を掴んで外へ飛び出した。袋の中には、行商人の父が過労で死ぬ間際に残した銀貨と、ファビアンが靴磨きをして貯めた銅貨がぎっしりと詰まっていた。これだけあれば足りるはずだ。王都の一等地にある診療所でも、十分にお釣りが来る額だ。


 ファビアンは走った。舗装されていないスラムの道は、雨で底なし沼のようになっている。何度も足を取られ、泥の中に顔から突っ込んだ。口の中に泥水が入る。砂利で膝が裂ける。それでも、革袋だけは濡らさないように腹に抱え、走り続けた。


(死なせない。トビーだけは、絶対に!)


 息を切らして辿り着いたのは、王都の貴族街との境界にある、立派な石造りの診療所だった。ファビアンは泥だらけの手で、重厚なオーク材の扉を叩いた。


「先生! 頼みます! 弟を診てください!」


 何度も、何度も叩いた。拳の皮が剥け、扉に血が滲む頃、ようやく扉がわずかに開いた。隙間から顔を出したのは、白衣を着た医師だった。彼はファビアンの泥だらけの姿を見るなり、露骨に眉をひそめ、鼻をつまんだ。


「なんだ、乞食か。うちは施しはやっておらんぞ」

「違います! 客です! 弟が高熱なんです、死にそうなんです!」


 ファビアンは震える手で革袋を差し出した。

「金ならあります! 見てください! 全部払いますから!」


 医師は、ファビアンの手にある薄汚れた袋を一瞥した。そして、興味なさそうに言った。

「あいにくだがね、少年。今日は往診の予約で一杯なんだ」

「そんな……! そこをなんとか! 倍払います! 言い値でいいですから!」


 ファビアンは扉の隙間に足をねじ込み、土下座せんばかりに頭を下げた。だが、医師は冷徹に言い放った。


「金の問題ではないのだよ」


 医師は、雨に濡れる街道の向こう、豪奢な屋敷を指差した。

「今から、子爵様の屋敷へ行かねばならんのだ。……奥様の愛猫のペルシャ猫が、昨夜から食欲がないそうでな」


 ファビアンの思考が停止した。「……え? ね、猫……?」


「そうだ。奥様が可愛がっておられる名猫だ。万が一のことがあれば、私の首が飛ぶ」

医師は、ファビアンの足を靴先で押し出した。

「分かったら帰れ。平民のガキの熱より、貴族の猫のご機嫌の方が、この国では『重い』のだよ」


 バタン!!


 無慈悲な音と共に、扉は閉ざされた。ファビアンは呆然と立ち尽くした。手の中にある金貨袋が、ただの石ころのように重く感じられた。一生懸命働いて、泥水をすすって貯めた金だ。この金があれば、幸せになれると信じていた。命が救えると信じていた。だが、違った。この世界には、「金」の上位に「身分」という絶対的な壁があったのだ。その壁の前では、平民の命など、貴族の飼い猫のあくび一つにも劣る。


「……う、うわあああああああっ!!」


 雨音にかき消されながら、ファビアンは絶叫した。扉を叩き、蹴り、爪を立てた。だが、扉は二度と開かなかった。


 そしてトビーは死んだ。医者も薬もなく、ただ兄の手を握りしめ、「ごめんね、兄ちゃん。僕のせいで」と謝りながら。冷たくなっていく弟の体温。それを抱きしめながら、ファビアンの中で何かが決定的に壊れ、そして再構築された。


 ――金だけじゃダメだ。――人間になるためには、奴らと同じ「紋章ちから」を持たなきゃいけないんだ。



 バリッ!


 激しい雷鳴が、ファビアンを現在へと引き戻した。彼はソファから跳ね起きた。背中は冷や汗でびっしょりと濡れている。


「……はぁ、はぁ……」


 ファビアンは荒い息を整え、部屋の隅にある金庫へと歩み寄った。重い鉄扉を開ける。そこには、爵位を買うための裏工作資金の明細と、数枚の羊皮紙が入っていた。『児童労働者雇用契約書』。スラムの親たちから、二束三文で子供を買い叩き、過酷な労働に従事させるための悪魔の契約書だ。


 ファビアンは、その羊皮紙を手に取った。脳裏に、死んだトビーの顔がよぎる。この契約書にサインすれば、トビーと同じ年頃の子供たちが、指を潰し、肺を病むことになるかもしれない。それは、あの日の医師と同じ外道に落ちることだ。


 だが。ファビアンの視線が、金庫の中に残されたものに吸い寄せられた。先ほど金庫にしまった、娘のリリィが忘れていった、くたびれたウサギのぬいぐるみ。


「……リリィ」


 ファビアンはぬいぐるみを掴み、その柔らかな感触を確かめた。もし、今ここで爵位を諦めれば。借金に追われ、破産し、リリィは路頭に迷うだろう。そしていつか、リリィが病気になった時。彼女もまた、どこかの貴族の「猫」のために、診療所の前で泥水をすすることになるかもしれない。いや、そうなるに決まっている。


 ――そんなこと、させるものか。


 ファビアンの目に、どす黒い決意の光が宿った。トビーのような悲劇を二度と起こさないために。自分の娘を「人間」にするために。そのためなら、俺は喜んで悪魔になろう。他人の子供を何人踏み台にしようとも、リリィだけは、あの高みへ押し上げてやる。


「……許せ、名もなき子供たちよ」


 ファビアンはペンを取り、契約書に力強くサインを走らせた。インクの滲みが、あの日の泥のように黒く、羊皮紙を汚していく。


「俺は、俺の家族を守る。……そのためなら、世界中を敵に回しても構わん」


 彼はワイングラスを暖炉の中に投げ捨てた。ガシャン、と割れる音が、彼の最後の良心が砕ける音のように、静まり返った屋敷に響き渡った。外の雨はまだ止まない。まるで、彼の罪を洗い流すことを拒絶するかのように、激しく降り続いていた。翌朝に、彼が工場に出す求人票は、多くの子供たちの運命を狂わせることになる。

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