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◆第39話「砕けた家族と、置き去りのウサギ」

 ファビアン商会の屋敷。その豪華な居間には、重苦しい沈黙が漂っていた。テーブルの上には、銀行からの督促状と、爵位購入のための裏工作費の請求書が散乱している。


「あなた、もうやめましょう」

 静寂を破ったのは、妻のセシリアだった。彼女は、不安げな顔で夫の背中を見つめていた。

「これ以上の借金は無理よ。工場の売上も落ちているのでしょう? もう十分だわ。私たちは十分に裕福よ。貴族になんてならなくても、あなたと私、そしてリリィの三人で笑って暮らせれば、それでいいじゃない」


 セシリアの言葉は、常識的で、そして温かいものだった。だが、今のファビアンには、その温かさが逆に火傷のように痛かった。


「十分? 何が十分だというんだ」

 ファビアンは振り返った。その目は血走り、焦燥感に焼かれていた。

「俺たちは平民だ。どれだけ金を積んでも、あのランバート子爵のような連中からは、泥水をすする犬扱いされるんだぞ! リリィのためにも、俺たちは『人間』にならなきゃいけないんだ!」


「誰も私たちを犬だなんて……」

「いや、されているんだ!」

 ファビアンは叫んだ。

「あの藤村とかいう男を見ろ! 異邦人だというだけで『藤村』という姓を認められ、貴族として扱われている! 俺は何十年も商売をして、金を積んでも『ファビアン男爵』にはなれないのに!」


 セシリアが悲しそうに首を振る。

「それは……あなたの劣等感が見せる幻よ。藤村様は誰も見下したりしていないわ」


「見下していないだと?」

 ファビアンは苦々しく笑った。

「姓を持つ者は、姓なき者の気持ちなど分からんのだ。生まれながらに『姓』を持っている者の傲慢さを、お前は知らない」


 ファビアンが激昂し、花瓶を床に叩きつけた。ガシャン! という音が響き、セシリアが身をすくませる。二階で、娘のリリィが泣き出す声が聞こえた。


「……分かってくれないのか。俺は、お前たちを守るために……」

「守る? いいえ、あなたは自分を守りたいだけよ。自分の傷ついたプライドを!」


 セシリアは涙を拭い、決意の表情で夫を見据えた。

「実家に戻ります。リリィも連れて行きます」

「なっ……本気か? 俺を捨てるのか?」

「あなたが『ファビアン男爵』という夢から覚めて、私の夫に戻ってくれるまで……ここにはいられません。今のあなたは、何かに取り憑かれているようで……怖いの」



 数時間後。馬車の音が遠ざかり、屋敷は静寂に包まれた。広すぎる居間に、ファビアンは一人、立ち尽くしていた。


「……愚かなことを。あと少しなんだ。あと少しで、俺たちは貴族階級になれるのに」


 強がりを呟いてみたが、声は虚しく響くだけだった。ふと、ソファの隅に何かが落ちているのに気づく。それは、娘のリリィが片時も離さなかった、くたびれたウサギのぬいぐるみだった。


「……リリィ」


 ファビアンはぬいぐるみを拾い上げた。ミルクと、娘の髪の甘い匂いがした。それを胸に抱きしめると、強烈な孤独感が襲ってきた。昨夜まで、この家には家族の笑い声があった。温かいスープの匂いがあった。それを壊したのは、誰だ? ランバート子爵か? イモ工場の藤村か? ……それとも、俺か?


「……いいや、違う」


 ファビアンは首を振った。ウサギを抱きしめる腕に力を込める。「俺は間違っていない。世の中が間違っているんだ。金だけでは幸せになれないこの国の仕組みが悪いんだ」


 彼の中で、どす黒い決意が固まっていく。妻と娘を迎えに行くには、爵位が必要だ。爵位を手に入れ、「男爵夫人」「男爵令嬢」として迎え入れれば、彼女たちも必ず理解してくれる。そのためには金だ。期限までに、莫大な金が必要だ。


「コストを削る。もっとだ。……大人を使うから高いんだ。文句を言わない、もっと安くて、扱いやすい労働力……」


 その思考の先にあるのは、児童労働だった。他人の子供を犠牲にして、自分の子供の幸福を買う。矛盾している。狂っている。だが、彼はその矛盾に気づかないふりをした。


 ファビアンは、鏡の前に立った。そこに映っていたのは、成功した商人の顔ではなかった。娘のぬいぐるみを抱きしめ、目は充血し、脂汗をかいた、追い詰められた男の顔だった。


(……俺は、間違っているのか?)


 一瞬、鏡の中の男が問いかけてきた気がした。このまま進めば、もう二度と戻れない。引き返すなら今だ。今すぐ馬車を追いかけ、土下座して謝れば、まだ間に合うかもしれない。


 だが。脳裏に、ランバート子爵の嘲笑が蘇った。『身の程を知れ、平民』。


「……うるさい」


 ファビアンは鏡を睨みつけた。「俺は勝つ。勝って、全てを手に入れる。……邪魔をするな」


 ファビアンはウサギを見つめる。

 ウサギの黒いボタンの目が、まるで娘の目のように彼を見つめている気がした。


「リリィ…パパはね、お前を幸せにしたいだけなんだ」

 ウサギは答えない。

「爵位を手に入れれば、お前は『令嬢』になれる。誰からもバカにされない」

 ウサギは答えない。

「だから…少し、待っていてくれ」


 彼はウサギのぬいぐるみを、金庫の奥にしまった。それは、彼に残された最後の良心を封印する儀式のようだった。鉄の扉が閉まる音が、重く響く。こうしてファビアンは、「引き返し不能地点、ポイント・オブ・ノーリターン」を越えた。

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