◆第37話「泥の味と黄金の夢」
王都の夜会。シャンデリアの光が降り注ぐホールで、ファビアンは一人、グラスを傾けていた。周囲の貴族たちは彼を「成金」と遠巻きにしている。だが、ファビアンは気にしていなかった。なぜなら、この会場にいる貴族の半分は、彼の帳簿に名を連ねる「債務者」だからだ。
「……おや、これはファビアン『様』ではありませんか」
声をかけてきたのは、名門ランバート子爵だった。ファビアンが振り返ると、子爵は自らワインボトルを手に持ち、媚びるような笑みを浮かべて近づいてきた。
「手元のグラスが空のようですな。……いかがです、私が注ぎましょう」「これは……子爵閣下に注いでいただけるとは、恐縮です」
ファビアンは鷹揚にグラスを差し出した。トクトク……と深紅の液体が注がれる。かつては道端の泥水を見るような目で自分を見ていた男が、今は給仕のように頭を下げて酒を注いでいる。ファビアンの背筋に、ゾクゾクするような征服感が走った。
(見ろ。これが『金の力』だ。三百年の歴史を持つ名家も、借金の前では膝を屈する)
「いやはや、ファビアン商会の羽振りの良さは、王都でも評判ですぞ。貴殿のような才覚ある商人がいてこそ、我々も安心して領地を治められるというもの」子爵はおべっかを使った。ファビアンからの追加融資を期待しているのが見え透いていた。
ファビアンはワインを一口含み、わざとらしく溜め息をついた。「ええ。おかげさまで商売は順調です。……ただ、少し『手元』が寂しくなりましてね」
ファビアンは声を潜め、本題に入った。「子爵。先日ご融資した件ですが……約定の期限が過ぎております。そろそろ、利息分だけでも頂けると助かるのですが」
その瞬間。子爵の顔に張り付いていた追従笑いが、ピタリと凍りついた。ボトルを持つ手が止まる。泳いでいた視線が定まり、そこには先程までの卑屈さはなく、隠しきれない侮蔑と敵意が宿っていた。
「……ここで、その話をするのか?」
子爵の声のトーンが低くなる。「は?」「無粋だと言っているのだ、商人めが!」
子爵は、持っていたボトルを近くのテーブルにドン!と叩きつけた。大きな音が響き、周囲の視線が集まる。子爵の顔は、羞恥と逆ギレで赤く染まっていた。
「せっかく私が下手に出て、場の空気を楽しませてやろうとしたものを……! 貴様ら平民は、すぐに金、金、金だ! これだから卑しいと言うのだ!」
「し、しかし閣下、契約では……」
「黙れ!」子爵はファビアンの胸元を小突いた。「我々貴族には、体面というものがある! こんな晴れがましい席で、借金取りのような真似をされては、私の品位に関わるのだ! 恥を知れ!」
先程までのへりくだった態度はどこへやら。子爵は「被害者」の顔をして、ファビアンを罵倒し始めた。周囲の貴族たちも、クスクスと嘲笑を漏らす。「これだから成金は」「空気の読めない男だ」
ファビアンは立ち尽くした。金は貸している。立場はこちらが上のはずだ。なのに、なぜ自分が頭ごなしに怒鳴られ、恥をかかされている?
「……支払いは待て。秋の収穫までな」子爵は吐き捨てるように言った。「それとも何か? たかが金貨数百枚で、由緒あるランバート家に盾突くつもりか? ……身の程を弁えろよ、平民」
子爵は、あからさまにファビアンに背を向け、他の貴族の輪に入っていった。
残されたファビアンの手が、ワイングラスを握りしめる。
(……待て、だと? 身の程だと?)
屈辱で目の前が真っ赤に染まる。金を貸している間だけ、彼らは尻尾を振る。だが、いざ回収しようとすると、「身分」という鎧を着て牙を剥く。やはりこの国では、金だけでは勝てないのだ。どれだけ稼いでも、爵位がなければ、結局は彼らの「財布」扱いで終わる。
ファビアンの胃の腑が焼けるように痛んだ。子爵は知らない。彼に貸しているその金が、ファビアン自身の金ではないことを。ファビアンもまた、事業拡大のために銀行や闇ギルドから、高い利子で借りている金なのだ。貴族への貸付が焦げ付けば、ファビアン自身が破産する。華やかな毛皮のコートの下で、彼は冷や汗にまみれていた。
(なぜだ……。なぜ私は、ここまで尽くしているのに、犬のような扱いを受けねばならんのだ)
ふと、古傷が痛んだ。彼が受けた数々の屈辱のひとつを思い出す―― 行商人の息子だった幼いファビアンは、ぬかるんだ街道で、貴族の馬車に泥水をかけられた。抗議した父は、御者に鞭で打たれ、泥の中に這いつくばって謝罪させられた。馬車の窓から見えたのは、あの子爵と同じ、嘲るような貴族の子供の顔。
『汚らわしい。道を開けろ、平民』
その時、ファビアンは誓ったのだ。いつか必ず、あちら側へ行ってやると。泥をすする側ではなく、泥をかける側へ。そのためには「爵位」が必要だった。金だけではダメだ。金を持った平民は、貴族にとって「太った豚」でしかない。食われて終わりだ。人間扱いされるためには、紋章が必要なのだ。
ファビアンは会場を抜け出し、誰もいないバルコニーで夜風に当たった。震える手で懐から一枚の羊皮紙を取り出す。それは、没落した男爵家の「養子縁組」に関する覚書だった。
『――金貨五千枚を用意せよ。さすれば、我が家の家名と紋章を譲る』
あと少しなのだ。あと少しで、私は「ファビアン男爵」になれる。そうすれば、ランバート子爵を相手に貴族として口がきける。借金の取り立ても堂々とできる。父を殴ったあの鞭の鳴り響く音を、忘れられる。
だが、金がない。あてにしていた貴族たちへの貸付は回収できず、銀行への返済期限は来週に迫っている。その上、藤村蓮のイモ工場が労働者をごっそり引き抜き、賃金の相場を吊り上げやがった。このままでは、爵位どころか、今の地位さえ失い、あの泥の中へ逆戻りだ。
「……戻れるか。あんな惨めな場所に」
ファビアンの目に、昏い狂気が宿った。通常の手段では間に合わない。もっと劇的に、コストを下げ、利益を絞り出す必要がある。大人の労働者は高い。権利だの組合だのと喚く。
(なら……大人でなければいい)
ファビアンの脳裏に、路地裏で腹を空かせている浮浪児たちの姿が浮かんだ。彼らなら、大人の半額以下の賃金で働く。文句も言わない。体が小さいから、機械の狭い隙間にも入れる。
「救済だ」ファビアンは自分に言い聞かせた。「そうだ、これは人助けだ。私は貧しい子供らに仕事を与えてやるのだ。……その代わり、彼らの命を少しだけ削って、私の夢に変えるだけのこと」
彼は夜空に向かってグラスを掲げ、一気に飲み干した。高級なワインのはずなのに、その味は、あの日舐めさせられた泥のように苦かった。
「邪魔はさせんぞ、イモ屋。……私が人間になるために、誰が犠牲になろうとも知ったことか」
翌朝。ファビアン商会の門には、新たな求人が張り出されることになる。『年齢不問。住み込み可。元気な子供、求む』と。それは、ファビアンが人としての最後の一線を越え、修羅へと堕ちた瞬間だった。




