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◆第35話「煤(すす)けた手の休日と二種類の商人」

 酒場で意気投合してからというもの、アンナとカイは、何となくお互いを意識するようになっていた。そして久しぶりの休日。王都の空は抜けるように青く、絶好の外出日和である。待ち合わせ場所の噴水広場で、カイは落ち着きなく自分の服の裾を直していた。いつもは油まみれの作業着だが、今日は精一杯のおしゃれをして、洗いざらしのシャツを着ている。だが、どうにも首元が窮屈で、何度も指を入れては引っ張っていた。


「……お待たせ、カイ君」


 声をかけられ、カイはバッと振り返った。そこには、普段の頭巾姿ではなく、淡いクリーム色のワンピースを着たアンナが立っていた。かつて子爵家で着ていたものだろうか。古いが仕立ての良いその服は、彼女の凛とした立ち姿と相まって、深窓の令嬢のような雰囲気を醸し出していた。


「あ……う、うん。俺も今来たところだ」

 カイは顔が熱くなるのを感じた。(やべぇ。アンナさん、きれいすぎるだろ……)工場の梱包ラインでテキパキと指示を飛ばす「鬼のアンナ班長」とは別人のようだ。カイはドギマギして、どこを見ていいか分からない。


「ふふ、襟が曲がってるわよ」

 アンナは自然な仕草でカイに近づき、シャツの襟を直した。ふわ、と石鹸のいい匂いがする。

「男の人がだらしないと、連れ歩く私が恥をかくの。……はい、これでよし」

「あ、ありがとう……」

「さあ、行きましょう。今日は『市場調査』も兼ねているんだから」



 二人は王都の大通りを歩いた。目的は、アンナが欲しがっていた「新しい髪留め」を探すことだ。だが、その道のりは平坦ではなかった。


 ショーウィンドウに綺麗なリボンが飾られた、小洒落た雑貨店に入ろうとした時のことだ。「おい、ちょっと待ちな」店先に立っていた主人が、カイの胸元を杖で制した。彼はカイの爪の間――どうしても落ちない機械油の黒い染みと、日焼けした肌をじろりと見た。


「うちは『お客様』向けの店だ。工場帰りのすすだらけの連中が、冷やかしで入っていい場所じゃない」

「なっ……!」

カイはカッとなって拳を握った。

「冷やかしじゃねぇよ! ちゃんと金なら……」

「金? どうせ小銭だろ。触られるだけで商品が汚れるんだよ。さっさと失せな!」


 露骨な侮蔑。この国にはまだ、「労働者=貧民・犯罪者予備軍」と見なす古い商人が多くいた。特に、貴族相手に商売をしてきた店ほど、新興の工場労働者を毛嫌いした。


 カイが怒鳴り返そうとした瞬間、アンナがすっと前に出た。

「行きましょう、カイ君」

 彼女の声は冷ややかだった。

「この店には、私たちが探しているような『品格』のある商品は置いていないようだから」

「え? でも……」

「お客様を見かけで判断するような店主のセンスなんて、たかが知れているわ。ここでお金を使うなんて、ドブに捨てるようなものよ」


 アンナは店主に優雅に一礼(それは貴族に対する最上級の礼儀作法であり、皮肉だった)すると、呆気にとられる店主を残してカイの腕を引いた。


「……ごめん、アンナさん。俺のせいで」

 店を離れてから、カイは俯いた。

「俺、やっぱり作業着の方が似合ってるのかな」


「馬鹿ね」

 アンナはきっぱりと言った。

「あなたの手は汚れているけれど、それは一生懸命働いた証よ。私は、何もせずに親の遺産で威張っているあの店主の手より、カイ君の手の方がずっと好きよ」

「あ……」

 カイは耳まで真っ赤になった。アンナも、言ってから恥ずかしくなったのか、少し頬を染めて視線を逸らした。



 気を取り直して二人が向かったのは、最近下町で評判の『大衆装飾店』だった。

「いらっしゃい! おや、お兄さん! いい体してるねぇ、工場の現場さんかい?」


 店の太った女将は、カイたちを見るなり満面の笑みで手招きした。

「今日は給料日後だしね、彼女へのプレゼントか? あるよあるよ、安くて丈夫で、見栄えのいいやつが!」


 前の店とは真逆の対応だった。カイが戸惑っていると、女将はウィンクした。

「最近はね、あんたたち工場の人らが一番の『上客』なんだよ。貴族様はツケ払いばかりで支払いが遅いけど、あんたたちは『ニコニコ現金払い』だろ? 商売人にとっちゃ神様さ!」


 現金を持つ者は強い。蓮が作った「給与システム」は、商人の態度すら変え始めていた。

「ほら、この青いリボンなんてどうだい? お兄さんの瞳の色とお揃いだ」

「……へぇ、いいなこれ」


 カイは値札を見た。少し高いが、昨日の残業代で十分に買える額だ。

「これ、ください!」

 カイは革袋から銀貨を取り出した。チャリン、という小気味いい音が、カイの自尊心を満たしてくれた。



 買い物の後、二人は川沿いのベンチに座って、屋台で買った焼き串を食べていた。「……はい」カイは、包みを不器用に差し出した。「これ、さっきの」


「え? いいの? 悪いわよ」

「いいんだよ。俺、ずっとアンナさんに……その、世話になってるし。前の職場で、君みたいなきれいな人が苦労してたって聞いてさ。……だから、今の君には笑っててほしいんだ」


 カイはしどろもどろになりながら、必死に言葉を紡いだ。

「俺、頭悪いし、魔法も大雑把だけど……アンナさんが欲しいものなら、働いて、何でも買ってやるから」


 それは、不器用すぎる愛の告白だった。アンナは包みを開けた。鮮やかな空色のリボン。安物かもしれないが、彼女にとってはどんな宝石よりも輝いて見えた。


「……ありがとう、カイ君」

アンナはリボンを髪に当て、少し潤んだ瞳で微笑んだ。

「私、これをつけて工場に行くわ。……私の自慢だから」


 川面を渡る風が、二人の頬を撫でる。街にはまだ、彼らを蔑む視線もある。けれど、彼らを歓迎する声も確実に増えている。カイの手にある銀貨と、アンナの髪に揺れるリボン。それは、二人が自分の足でこの街に立ち、未来を切り開き始めた小さな、しかし確かな証だった。


「さあ、明日も早いから帰りましょうか」

「おう! ……あ、あのさ、手……繋いでいい?」

「……今回だけ、特別よ」


 夕暮れの街。二つの影が寄り添って伸びていく。その背中は、工場の煙突よりも誇らしく見えた。

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