◆第34話「ジョッキの中の未来図」
王都の下町にある大衆酒場『竜のあくび亭』。週末の夜、店内は仕事帰りの工員たちでごった返していた。その喧騒の片隅で、ジョッキをぶつけ合う二人の男女がいた。風属性の排気主任カイと、梱包主任のアンナだ。
「……ぷはぁっ! うめぇ!」
カイが泡を口髭のように残して笑う。
「やっぱり、週末のエールは最高だな。それに、この『イモフライのガーリック和え』! これを食うために一週間頑張ったようなもんだ」
アンナはクスクスと笑いながら、自分のグラスワインを傾けた。
「カイ君ったら、豪快ね。……でも、分かるわ。自分で稼いだお金で、好きなものを頼んで、誰にも遠慮せずに食べる。これ以上の贅沢はないわね」
二人のテーブルには、ソーセージや煮込み料理が並んでいる。かつての彼らなら、誕生日でもなければありつけなかったご馳走だ。
「なぁ、アンナさん」
少し酔いが回ったのか、カイが頬杖をついて言った。
「俺さ、最近思うんだ。……俺、アカデミーを追い出されてよかったのかもって」
「あら、どうして? 魔法のエリートコースだったんでしょう?」
「あそこじゃ、俺は『風量調整ができない欠陥品』だった。毎日毎日、実験室を壊して怒られて……自分が情けなくて、惨めで、将来なんて真っ暗だった」
カイは自分の手を見つめた。
「でも、今は違う。工場長は『お前の全力が必要だ』って言ってくれる。リオネルさんは『カイ君の風圧データのおかげで、新しい乾燥炉が設計できた』って感謝してくれる。……俺、必要とされてるんだよな」
「ええ。カイ君の風がないと、工場は動かないわ」
アンナが優しく肯定する。
「私だってそうよ。お屋敷にいた頃は、私は『アンナ』じゃなかった。ただの『メイドその3』。代わりはいくらでもいる、道具みたいなものだった」
アンナはワインの液面を見つめた。
「でも今は、私がシフトを組んで、検品をして、共済のお金も管理してる。……大変だけど、生きてるって感じがするの」
カイが身を乗り出した。
「な、俺たち、これからどうなると思う? ずっとこのまま工場で働くのかな」
「どうかしら。でも……」
アンナは少し悪戯っぽく微笑んだ。
「私、夢ができたの」
「夢?」
「ええ。いつか、貯めたお金で小さなお店を持ちたいの。工場の製品だけじゃなくて、私が選んだ可愛い雑貨や、美味しいお菓子を並べたセレクトショップ。……『アンナ商会』なんてね」
カイは目を丸くし、それからニカっと笑った。
「すげぇ! かっこいいじゃんか! その時は俺が一番の客になるよ」
「ふふ、期待してるわ。カイ君は?」
「俺? 俺は……」
カイは少し照れくさそうに鼻をかいた。
「俺、もう一回勉強し直そうかと思ってるんだ」
「アカデミーに戻るの?」
「いや。リオネルさんが言ってた『魔道工学』ってやつさ。魔法と機械を組み合わせる技術。……俺、もっと風のことを知りたい。ただ吹かすだけじゃなくて、工場の役に立つ理論を自分で組み立てられるようになりたいんだ。そうすれば、いつか……」
カイは言葉を切ったが、その瞳には明確な光が宿っていた。いつか、自分のような「落ちこぼれ」が出ないような、新しい魔法の使い方を広めたい。あるいは、ボス(蓮)の片腕になれるような技術者になりたい。
「素敵ね」
アンナがグラスを掲げた。
「未来の『魔道エンジニア』様に、乾杯」
「よせよ。……未来の『女社長』様に、乾杯」
カチン。安っぽいガラスの音が、どんなクリスタルよりも澄んだ音色で響いた。彼らは知っていた。この夢物語は、酔っ払いの妄想ではない。自分たちが明日も働き、銀貨を積み上げれば、いつか必ず手の届く場所にある「目標」なのだと。
この夜の二人の笑顔は、工場の仲間たちの間で長く語り草となった。そして、このささやかな幸福な記憶こそが、後に彼らが不当に逮捕され、冷たい石の床に転がされた時――決して心を折らせなかった「希望の灯火」となるのである。




