◆第33話「ガラスの小瓶と乙女たちの共済」
工場の休憩室は、いつものように読書会のメンバーで賑わっていた。だが、今日の空気は少し湿っていた。中心にいるはずの、梱包班の最年少、ミナの姿がなかったからだ。
「ミナちゃん、まだ熱が下がらないの?」
アンナが心配そうに尋ねると、同僚の女性が暗い顔で首を振った。
「うん。風邪をこじらせて、肺炎になりかけてるって。お医者様に診てもらえばすぐに治るらしいんだけど……」
「お金、よね」
その場に重い沈黙が落ちた。蓮の工場は給料が良い。だが、従業員の多くは貧しい家の出身だ。ミナも、給料の大半を実家の親兄弟への仕送りに当てており、手元には殆ど残っていないことを皆知っていた。高額な薬代や診察代を払える余裕はない。このままでは、彼女は仕事を辞めて実家に帰り、十分な治療も受けられないまま寝込むことになるだろう。
「……悔しいわね」
誰かがポツリと言った。
「せっかく、ここに来て、自分で稼げるようになったのに。病気ひとつで、また元の生活に逆戻りなんて」
その言葉が、アンナの胸に突き刺さった。貴族の屋敷にいた頃も、そうだった。病気になった使用人は「使い物にならない」と解雇され、路地裏へ消えていく。それは「運が悪かった」で済まされる、当たり前の光景だった。でも、ここは違うはずだ。私たちはもう、使い捨ての道具じゃない。
「……ねえ、みんな」
アンナは顔を上げ、凛とした声で言った。
「本の話は、今日はおしまいにしましょう。その代わり――少し、現実的な話をしない?」
◆
その日の夕方。アンナは執務室の蓮を訪ねていた。彼女の手には、工場で使われている空き瓶――ジャムの瓶が握られていた。その中には、銀貨と銅貨がジャラジャラと入っている。
「……これは?」
蓮が目を丸くする。
「読書会のメンバーから集めました。ミナさんの治療費です」
アンナは、少し誇らしげに、しかし真剣な眼差しで説明した。
「ただのカンパではありません。私たちは決めました。これから毎月、給料日に全員が銀貨一枚ずつ出し合って、この瓶に貯めることにしたんです」
「銀貨一枚……?」
「はい。一人では大した額ではありません。でも、読書会のメンバーは今、三十人います。合わせれば金貨三枚になります。誰かが病気になったり、怪我をして働けなくなったりした時は、ここから無利子でお金を貸し出すんです。……もちろん、元気になったら少しずつ返してもらいますけど」
蓮は、そのガラス瓶を見つめた。様々な種類の硬貨が混ざっている。汚れのついた銅貨、擦り切れた銀貨。それは彼女たちが労働で得た、血と汗の結晶だ。それを「他人のため」に出し合う。
「……『互助会』か。いや、『共済』の原型だね」
蓮は感嘆した。保険というシステムは、近代経済の根幹の一つだ。「一人は万人のために、万人は一人のために」。リスクを分散し、支え合う仕組み。それを、彼女たちは誰に教わるでもなく、自分たちの必要性から生み出したのだ。
「アンナさん。これはすごいことだよ」
「そうですか? 屋敷にいた頃、使用人同士で似たようなことはしていましたから。旦那様にバレたら『横領の相談か』って怒られましたけど」
アンナは悪戯っぽく笑った。
「でも、管理が大変なんです。誰がいくら出して、誰にいくら貸したか。帳簿をつけなきゃいけないし、お金の管理もしなきゃいけない。……私、責任重大で」
少し不安そうにするアンナに、蓮は即座に提案した。
「会社としてバックアップしよう。そのお金、工場の金庫で預かるよ。帳簿の付け方はエリシアさんが教えてくれるはずだ」
「本当ですか!?」
「ああ。それに……」
蓮は引き出しから金貨を取り出し、瓶に追加した。
「会社からの拠出金だ。君たちが自分たちを守ろうとするなら、会社もそれを応援する。それが『福利厚生』ってやつだからね」
チャリン、と重い音が響いた。アンナの目が輝く。
「ありがとうございます、工場長! これでミナちゃんも、今月ピンチな縫製班の子も助けられます!」
◆
数日後。適切な治療を受けたミナが、少し痩せたものの、元気な笑顔で工場に戻ってきた。
「みんな、ありがとう! 一生懸命働いて、必ず返すから!」
「焦らなくていいわよ。みんなの瓶(金庫)がついてるんだから」
休憩室の棚には、綺麗に洗われたガラス瓶が置かれていた。そこには『乙女たちの助け合い基金』と書かれたラベルが貼られている。それは単なる貯金箱ではなかった。彼女たちの「連帯」と「安心」の象徴だった。
「……すごいわね、アンナさんは」
同僚が感心して言う。
「お金を集めて、管理して、必要な人に配るなんて。私なら怖くてできないわ」
「あら、屋敷の食料庫管理に比べれば簡単よ。あそこでは、ネズミ(つまみ食いする執事)とも戦わなきゃいけなかったんだから」
アンナは笑って答えたが、その手帳には、びっしりと数字と名前が書き込まれていた。彼女はこの時、まだ気づいていなかった。この小さなガラス瓶から始まった「みんなでお金を出し合い、みんなのために使う」という経験が、やがて王都中の商人を震え上がらせる巨大な組織――『生活協同組合』へと発展する第一歩であることを。
窓の外では、今日も工場の煙突が煙を吐いている。厳しい労働の日々。だが、彼女たちの背中には、もう「孤独」という冷たい風は吹いていなかった。ガラス瓶の中の銀貨たちが、見えない盾となって彼女たちを守っていたからだ。




