◆第32話「インクの染みと恋の行方」
工場の共同寮にある談話室。週末の夜になると、そこは甘い紅茶の香りと、女性たちの熱っぽい吐息に満たされていた。恒例となった「読書会」である。
「ああ、なんて素敵なのかしら!この『月影の騎士』が、身分を隠して令嬢を助けるシーン!」
「分かるわ!舞踏会で誰も踊ってくれない彼女の手を、強引に引くところが最高よね!」
元メイドのアンナや、縫製工場の工員たちが、貸本屋から借りてきた最新の恋愛小説を囲んで盛り上がっている。その輪の中に、今日は珍しい客がいた。蓮の行動をつぶさに記録する書記官にして、今では工場の事務統括も兼任しているエリシアだ。彼女は、手元のティーカップをソーサーに置き、ふう、と小さく息を吐いた。
「……エリシアさんは、どうでした?この小説」
アンナが興味深そうに尋ねる。普段はクールなキャリアウーマンであるエリシアが、こういう「乙女チック」な物語をどう読むのか、皆が注目していた。
エリシアは少し困ったように眉を下げ、膝の上の本――『伯爵令嬢と月影の騎士』を指先でなぞった。
「……面白かったわ。構成もしっかりしているし、心理描写も丁寧。……でも、少しだけ『現実はこうじゃない』って思ってしまうところもあって」
「現実?」
「ええ」
エリシアは苦笑した。
「例えば、この舞踏会のシーン。主人公は『華やかな夢の世界』と表現しているけれど……実際の貴族にとって、舞踏会は『戦場』なのよ」
エリシアの瞳に、かつて没落する前に見てきた貴族社会の記憶が蘇る。
「ドレスの裾を踏んで転ばせようとする令嬢たちの足の引っ張り合い。扇子の陰で交わされる借金の無心。ダンスを申し込むのは愛の告白じゃなくて、『我が家の派閥に入れ』という政治的な圧力……。私には、煌びやかなシャンデリアが、獲物を狙う猛禽類の目に見えたものだわ」
部屋が静まり返った。夢見る乙女たちの顔が少し引きつる。
「そ、そんなに殺伐としているんですか……?」
「ええ。だから、この『月影の騎士』様みたいに、利害関係なしに助けてくれる貴族なんて、ユニコーンより珍しいのよ」
エリシアは、少し自嘲気味に笑った。
「私の家が没落した時もそうだった。昨日まで笑顔で近づいてきた求婚者たちが、父の事業が傾いた途端、蜘蛛の子を散らすように消えたわ。……それが『貴族』という生き物よ」
アンナは、静かにエリシアのカップに紅茶を注ぎ足した。
「……幻滅なさいましたか? そんな世界に」
「ええ、もう十分」
エリシアは、自分の右手を見た。中指には硬いペンだこがあり、袖口にはどうしても落ちないインクの染みがついている。
「私は今の生活が気に入っているの。毎日数字と格闘して、書類の山に埋もれて……でも、このインクの汚れは、私が自分で考えて、働いて、生きた証でしょう? ドレスを着て誰かの飾り物になるより、よっぽど気楽で、誇らしいわ」
エリシアは顔を上げた。その表情は、小説のヒロインよりもずっと凛として美しかった。
「だから私、もし結婚するとしても、貴族は選ばないわね。家柄とか体面とか、そういう面倒なものを背負っていない人がいい」
「へえ……」
アンナが、いたずらっぽく目を細めた。
「貴族じゃなくて、家柄を気にしなくて……でも、エリシアさんのような『働く女性』の誇りを理解してくれる人、ですか?」
「ええ、そうね。一緒にいて、お互いの仕事を尊重できるような……」
「例えば、」
アンナが口元に手を当てて、わざとらしいほど楽しげに言った。
「変な発明ばかりして周りを振り回すけど、いざという時は誰よりも頼りになって……インクで汚れた手を『きれいだ』って言ってくれそうな、どこかの工場長様とか?」
ブッ!!
エリシアは飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。
「なっ、ななな……っ!?」
顔がカァアッと赤くなる。耳まで真っ赤だ。
「な、何を言ってるのアンナさん!あの人は上司よ!それに、彼はイモのことしか頭にない朴念仁だし、生活能力はないし、私がいないと書類一つ見つけられないダメな人なのよ!?」
「あらあら」
アンナはクスクスと笑った。
「誰も『名前』は出していませんのに。随分とお詳しく、その『ダメなところ』を列挙なさるんですね」
周囲の女性たちも、ニヤニヤしながら顔を見合わせる。
「そういえば、エリシアさん、工場長の話をする時だけ早口になりますよね」
「こないだも、『まったくあの人は!』って怒りながら、楽しそうにお弁当届けてましたし」
「ち、違うわよ!あれは業務の一環で……管理栄養士的な観点から……!」
しどろもどろになるエリシア。その姿には、先程までのクールな「元貴族」の影はなく、ただの恋に不器用な一人の女性がいるだけだった。
アンナは、エリシアの手――インクの染みた手を、そっと包み込んだ。
「小説の騎士様も素敵ですけど……現実の、泥だらけになって働くヒーローも、悪くないと思いますよ?」
エリシアは口をパクパクさせ、それから観念したように大きく溜め息をついた。
「……意地悪ね、アンナさんは」
「ふふ、元メイド長ですから。人の『隠したい場所』を見つけるのは得意なんです」
窓の外では、夜遅くまで稼働する工場の明かりが灯っている。その奥の執務室で、今もペンを走らせているであろう鈍感な上司の姿を思い浮かべ、エリシアは熱い紅茶を一口飲んだ。小説のような甘い砂糖菓子ではないけれど。泥とインクとイモの匂いがするその恋は、今の彼女には何よりも温かく感じられたのだった。




