◆第31話「銅貨二枚の自由と甘い夢の書架」
いつものように工場の終業ベルが鳴ると、アンナは制服のエプロンを脱ぎ、髪を整えた。かつてメイドだった頃なら、この時間も「奥様のお茶の準備」や「旦那様の夜の相手」のために待機していた。だが今は違う。「お疲れ様でした」と同僚に挨拶し、工場の門を出れば――その先の時間は、全て自分のものだ。
「少し、遠回りしてみようかしら」
アンナは、いつもと違う通りを歩いた。理由はない。ただ「できるから」。それだけで、心が軽くなる。
◆
アンナが足を止めたのは、ある看板の前だった。
『月光書房――週に銅貨2枚で、夢の世界へ』
ガラス越しに見える本棚。革装丁の背表紙には、金文字で『伯爵と花売り娘』『月夜の誓い』『禁じられた薔薇』などと書かれている。
「あら、お嬢さん。初めて見るお顔ね」
店から出てきたのは、眼鏡をかけた上品な老婦人だった。
「貸本屋、というものをご存知? 本を借りて読めるのよ。買うより、ずっとお安く」
「本を……借りる?」
アンナは、ハルバート子爵邸の書斎を思い出した。分厚い法典や歴史書が並ぶ、埃臭い部屋。「メイドは触るな」と厳命されていたあの本棚。
「ええ。うちは特に、お勤めの女性に人気なのよ。週に銅貨2枚。銀貨1枚で一ヶ月借り放題」
◆
店内に入ると、本の匂いと、紅茶の香りが混じり合っていた。奥にはソファがあり、数人の女性が読書に耽っている。
「どんな物語がお好み? 冒険? 謎解き? それとも――」
ミセス・フィンチは意味ありげに微笑んだ。「恋?」
アンナの頬がほんのり赤くなる。
「恋、って」
「あらあら、照れなくていいのよ。うちの一番人気はこれ」
差し出されたのは、深紅の装丁の本。『侯爵と仮面舞踏会――ある女中の秘めたる情熱』 表紙には、豪奢なドレスの貴婦人と、仮面をつけた男性のシルエットが描かれている。
「あらすじは――貧しい女中が、仮面舞踏会で貴族に扮し、侯爵と運命的な出会いを果たすの。でも、身分が知れれば全ては終わり……」
アンナの心臓が跳ねた。それは、まるで――かつて夢見た、決して叶わないはずの物語。
「……これを、借りられますか?」
「もちろん。週に銅貨2枚よ」
アンナは、先週の給金から受け取った銀貨の一枚を崩し、銅貨を数えた。これは、自分の労働で得た金だ。誰に遠慮することもない。
「では、こちらに名前を。あら――アンナさん。素敵な名前ね」
◆
その夜、アンナは工場の寮である共同住宅の小さな部屋で、初めてのページを開いた。
蝋燭の明かりの下で紡がれる物語は、彼女を瞬く間に虜にした。主人公のエリーザは、アンナと同じく貴族の屋敷で働く女中だ。だが、ある日――
『「お前のような下賤な娘が、私の心を盗むとは」
侯爵は苦しげに呟いた。「だが、愛してしまった」』
アンナは、涙が零れるのを感じた。それは悲しみではない。羨望でもない。――「解放」だった。
屋敷にいた頃、彼女は「感情」を持つことを許されなかった。旦那様に抱かれても、奥様に罵られても、ただ無表情で耐えた。恋など、夢を見ることすら罪だと思っていた。だが、この本の中では――女中が愛され、選ばれ、幸せになることが「許されている」。
「馬鹿みたい」アンナは声を出して笑った。
「作り話なのに。でも……嬉しい」
◆
翌日の昼休み、工場の休憩室でアンナが本を読んでいると、梱包班の同僚、ベッサが覗き込んできた。
「あっ!その本、私も読んだわ!」
「え……?」
「最後、侯爵が結婚を申し込むところ、泣いちゃったの!」
気づけば、周囲の女性工員たちが集まってきた。
「私も月光書房で借りてる!」
「次は『公爵と孤児院の少女』がオススメよ!」
彼女たちは、皆同じだった。元メイド、元女工、元農家の娘――それぞれの理由で、「自由な時間」と「自分の金」を手に入れ、その最初の贅沢として「恋愛小説」を選んでいたのだ。
「ね、アンナさん。今度、みんなで集まらない? 本の話をする会。『読書会』って言うんですって」
「読書会……?」
「ええ。月に一度、誰かの部屋に集まって、お茶を飲みながら、お気に入りの本の話をするの。楽しいわよ」
◆
アンナが読書会の話を蓮に報告すると、彼は目を輝かせた。
「読書会!それはいい!むしろ、工場で正式に支援しよう」
「え?」
「文字を読む習慣は、識字率向上につながる。それに、物語を読むことは『想像力』を育てる。想像力がある労働者は、仕事の改善案も出せるんだ」
蓮は、月光書房のミセス・フィンチと交渉し、工場と提携した「従業員割引プラン」を導入した。さらに――
「リオネル、工場の休憩室に小さな図書コーナーを作ろう。まずは寄付で本を集めて、貸本屋と連携する」
「藤村殿は、恋愛小説まで労働生産性に結びつけるのですね」
リオネルは呆れたように笑った。
「当たり前だよ。幸せな労働者は、よく働くんだから」
◆
工場で働く女性たちの読書会は、次第に広がり、貸本屋は出版社に新作を求め、出版社は作家に作品を書かせる。自然な成り行きであった。
しかし、この動きに快く思わない者たちもいた。
王都の教会では、司祭が説教壇から警告を発していた。
「近頃、工場で働く娘たちが、不道徳な小説に耽っているという!身分を越えた恋など、神の秩序への冒涜である!」
さらに、貴族の婦人サロンでは――
「信じられる?あの元メイドたちが、恋愛小説なんて読んでいるそうよ」
「生意気な。文字が読めるだけで調子に乗って」
「あの手の本は、女性の道徳を堕落させます。禁止すべきではなくて?」
単なる「娯楽の自由」も、階級闘争の一部になったのである。だが、作家や出版社を止めることも、貸本屋を禁じることもなかった。もし、貸本屋で流行っているものが社会体制を脅かすものであったなら、貸本は禁じられたかも知れない。しかし、「たかが娯楽小説」なのである。いちいちそんなことにまで、口出しするほど権力も暇ではないのだ。そしてなにより、恋愛小説は、貴婦人の間でも読まれていたのである。
◆
ある夜、アンナは読了した本を閉じ、窓辺で夜空を見上げた。物語の結末は、ハッピーエンドだった。女中は侯爵と結ばれ、貴族社会に受け入れられた。
「……現実には、こんなこと起きない」
アンナはシニカルに笑った。だが、その笑顔には苦味はなかった。
「でも、いいの。これは『夢』だもの。そして、この夢を見る自由は――私が自分で稼いだ銀貨で、買ったものなんだから」
彼女は本を胸に抱いた。貴族に愛されなくてもいい。誰かに選ばれなくてもいい。ただ、自分の時間を、自分の好きなように使える。それだけで、十分に幸せだった。




