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◆第29話「鳥籠の扉と商人の噂話」

 ハルバート子爵邸の朝は早い。メイドのアンナは、まだ薄暗い廊下を音もなく歩き、旦那様の寝室の前で足を止めた。深呼吸を一つ。胃の奥が鉛のように重くなる。


「……旦那様。朝の紅茶をお持ちしました」


 入室の許可を得てドアを開ける。天蓋付きの豪奢なベッドの上で、ハルバート子爵が気だるげに身を起こしていた。

「ああ、アンナか。……今日も肌艶がいいな」

 子爵の手が、紅茶を受け取るふりをして、アンナの手首をねっとりと撫でる。

「恐れ入ります」

 アンナは反射的に手を振りほどきたくなるのを、鋼の理性で抑え込み、営業用の微笑みを貼り付けた。


「そういえば、今夜は妻が実家に戻る予定でね。……私の寝酒の用意、頼めるかな?」

 子爵の視線が、アンナのメイド服の上から胸元や腰のラインを舐めるように動く。「寝酒」が酒だけで終わらないことは、この屋敷のメイドなら誰でも知っている。

「……申し訳ございません。今夜は、奥様よりリネンの整理を仰せつかっておりますので」

「ちっ、気の利かない女だ」

 子爵は不機嫌そうに手を離した。アンナは一礼して部屋を出る。廊下に出た瞬間、全身から冷や汗が噴き出した。

(今日はかわせた。でも、次は? その次は……?)


 屋敷は美しく、食事も支給され、制服は清潔だ。けれど、ここは出口のない鳥籠だった。主人の機嫌ひとつで、尊厳はいとも簡単に踏みにじられる。



 その日の午後、勝手口に野菜を届けに来た御用聞き商人と話す機会があった。

「やあアンナちゃん。なんか浮かない顔だね」

「そんなことないわ。ねえ、最近、王都の東側が騒がしいそうだけど、何かあったの?」


 商人は目を丸くした。

「知らないのかい? 『イモ工場』だよ。異邦人のフジムラって男がやってる」

「工場……。煤と油にまみれた、恐ろしい場所なんでしょう?」

 アンナの認識はその程度だった。貧民や犯罪者が、死ぬまで働かされる場所。


「それがさ、どうも違うらしいんだ」

 商人は声を潜めた。

「あそこじゃ、男も女も同じように雇ってる。しかも、『定時』があるんだと」

「テイジ?」

「夕方に鐘が鳴ったら、仕事が終わるんだ。それ以降も働いたときには、残業代も出るし、なんと休みの日まであるらしい。信じられないよな。元同業者の荷運び人が言ってたんだ。『あそこは人間扱いしてくれる』って」


 アンナの心臓が早鐘を打った。終わりのある仕事。人間扱いしてくれる場所。油汚れやすすなんて、お風呂に入れば落ちる。でも、子爵に汚された心は、いくら洗っても落ちない。



 その夜、アンナは狭いが清潔な使用人部屋のベッドで、天井を見つめたまま眠れずにいた。商人の言葉が、頭の中でリフレインしている。『人間扱いしてくれる』。その甘美な響きに胸が震える一方で、冷徹な理性が警告を発していた。


(……本当に? そんな夢のような場所があるの?)


 もし商人の話が嘘だったら? 工場に行ってみて、想像以上に過酷で汚い場所だったら? 一度屋敷を出てしまえば、もう戻ることはできない。「子爵家のメイド」という肩書は捨てたら最後、二度と手に入らないのだ。ここには「安定」がある。雨風をしのげる屋根、上質な食事、そして貴族社会でのささやかなステータス。それを捨てて、底辺と蔑まれる工場労働者になるなんて、正気の沙汰ではないと誰もが言うだろう。


 アンナは自分の腕を抱いた。昼間、子爵に触れられそうになった感覚が生々しく蘇る。(今はまだ、かわせている。でも……)いつか逃げられなくなる日が来る。抵抗すれば解雇され、噂を流されて二度と雇ってもらえなくなる。従えば、心は死に、ただの美しい人形になる。どちらに転んでも、ここには私の意志はない。私は「アンナ」という人間ではなく、「ハルバート家の備品」でしかないのだ。


「……備品のままで、一生を終えるの?」


 アンナは呟き、身を起こした。窓を開ける。冷たい夜風が入ってくる。東の空――工場街の方角は暗くて何も見えない。けれど、そこには「自分の足で立つ」人々がいるという。たとえ手が汚れても。たとえ生活が苦しくなっても。誰かの所有物として生きるより、泥だらけの人間として生きたい。


 アンナは鏡を見た。そこには、怯えたメイドの顔ではなく、覚悟を決めた一人の女性の顔が映っていた。(怖い。でも……この鳥籠の扉を開けるのは、私自身しかいない)



 翌朝。アンナは震える手でペンを置き、書き上げた辞表を持って夫人の私室へ向かった。ハルバート夫人は、刺繍の手を止め、アンナが差し出した手紙に目を落とした。


「……アンナ。あなた、本気なの?」

 夫人の声には、怒りよりも純粋な驚きと、憐れみがあった。

「はい。本日限りで、いとまをいただきたく存じます」

「理由は? もっと給金の良いお屋敷が見つかったの?」

「いいえ。東区の食品加工工場へ参ります」


 夫人は絶句し、やがて悲しげに首を振った。

「おやめなさい。本気で忠告するわ」

 彼女は、アンナを心配していた。貴族の常識として、工場とは「落ちぶれた人間」が行き着く最底辺の場所だったからだ。

「由緒ある子爵家のメイドという名誉を捨てて、あんな油臭い場所で平民の男たちと肩を並べるなんて……。あなたはまだ若いのに、人生を棒に振るつもり?」


「奥様」

 アンナは顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。

「私は、名誉よりも……自分自身の時間を生きたいのです」


「……そう。後悔するわよ、必ず」

 夫人は嘆息し、辞表を受け取った。

「戻りたいと言っても、もう席はないと思ってちょうだい」


 アンナは深く一礼し、部屋を出た。屋敷の重厚な扉を開け、外に出る。朝の冷たい空気が肺を満たす。後ろを振り返ると、屋敷は相変わらず美しく、そして閉ざされた要塞のように見えた。二度と戻らない。アンナはカバンを握りしめ、東の空――黒い煙が上がり、しかし活気に満ちた新しい世界へと、力強く一歩を踏み出した。

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