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◆第27話「徴税官の冷徹な計算」

 夜の帳が下りると、王都のスラムは別の顔を見せる。華やかな大通りの光はここまでは届かない。迷路のように入り組んだ路地裏を支配するのは、重く湿った闇と、鼻孔を突き刺す腐臭だった。生活排水が流れるドブ川の臭い、腐った残飯の臭い、そして、どこからともなく漂う甘ったるい病的な気配。


 蓮はフードを目深に被り、足元の泥に滑らないよう慎重に歩いていた。一歩踏み出すたびに、ぬかるんだ地面が靴底を吸い込もうとする。


「……酷いな」

 蓮は思わず口元を覆った。建ち並ぶのは、廃材を継ぎ接ぎした粗末なバラックばかりだ。壁の隙間からは、弱々しい灯りと、ゴホゴホという乾いた咳き込みが漏れてくる。闇の奥からは、じっとりとねめつけるような視線を感じた。それは獲物を狙う獣の目ではなく、ただ生き延びるために他人の隙を伺う、飢えたネズミの目だった。


「口を閉じて歩け。舌を噛むぞ」

 隣を歩くファビアンが、低く鋭い声で警告した。彼は高級な毛皮のコートを脱ぎ捨て、どこで調達したのか、薄汚れた労働者のような外套を羽織っている。背中を丸め、荒っぽい足取りで歩くその姿は、昼間の「商会の主」とは別人のようだった。


「……随分と慣れているんですね」

「フン。忘れたくても体が覚えてるんだよ」

 ファビアンは苦々しく吐き捨て、汚れた壁に手をついた。

「ここには『ルール』がある。清潔な服を着た奴、キョロキョロと辺りを見回す奴、そして――無駄に金を持っている奴は、ここではカモだ」


 その時だった。路地の曲がり角から、ガラの悪い男たちが数人、ヌラリと姿を現した。手には錆びたナイフや、釘を打ち付けた棍棒が握られている。

「……おい、そこの新入り」

男の一人が、黄色く濁った目で二人を見下ろした。

「ここは俺たちのシマだ。通るなら『通行料』が必要だぜ。……その外套の下、いいモン着てそうじゃねぇか」


 蓮が身構えるより早く、ファビアンが前に出た。その瞬間、彼の雰囲気が一変した。

「よせよ、兄ちゃんたち。俺たちゃシケた日雇い人足だ。絞っても鼻水しか出ねぇよ」

ファビアンの口から飛び出したのは、蓮が聞いたこともない下品なアクセントのスラングだった。貴族的な気取った抑揚は消え失せ、地を這うような荒みきった響きがあった。


「嘘つくんじゃねぇ。通行料が払えねぇなら、そのブーツを置いてけ」

「おいおい、勘弁してくれよ。俺たちは『ジャグロの旦那』の極上の水を探してるだけだ」

 ファビアンはニヤリと卑屈な笑みを浮かべ、懐から銅貨を数枚、チャリチャリと弄んだ。

「シケた追剥ぎやるより、太客を案内したほうが実入りがいいぜ? ……それとも何か? お前ら、ジャグロの旦那の『商売』を邪魔する気か?」


 男たちの顔色が変わった。「ジャグロ」という名前には、この界隈で相当な威光があるらしい。

「……なんだ、同業者か。客ならそう言いやがれ」

「へへ、すまねぇな。で、ブツは持ってるか? アジトに行く前に、味見がしてぇんだが」


 男の一人が、懐から小汚い小瓶を取り出した。

「一本、銅貨三枚だ」

「はぁ? 三枚? 昨日は二枚だったじゃねぇか。足元見るんじゃねぇよ」

ファビアンは露骨に顔をしかめ、地面に唾を吐いた。

「中身を水で薄めてねぇだろうな? 最近、混ぜ物が多いって評判だぜ」

「う、うるせぇ! 文句があるなら他所へ行きな!」

「チッ、分かったよ。ほら、とっとけ」


 ファビアンは文句を言いながら銅貨を投げ渡し、ひったくるように小瓶を受け取った。男たちは安堵したように、「旦那の店なら、この先の廃屋だ。地下室への合言葉は『黒い根っこ』だ」と告げて闇に消えた。


 二人が再び歩き出すと、蓮は感嘆の溜息をついた。

「……驚きました。まさか、銅貨一枚のためにあそこまで食い下がるとは」

 金貨を何万枚も動かす大商人が、たかだか小銭のために悪態をつく。その演技力に舌を巻いたのだ。


「馬鹿を言え。金持ちは値切らないが、貧乏人は小銭のために殺し合いをするんだ」

ファビアンの目は笑っていなかった。

「言い値で買えば『よそ者』だとバレる。……生きるためには、泥水もすするし、媚びも売る。あいつらは私の昔の姿だ」


 人気のない廃屋の陰で、二人は足を止めた。ファビアンが小瓶の蓋を開ける。鼻が曲がるような刺激臭が漂った。

「例の酒ですね」

 蓮は懐から小さな試験管と試薬セットを取り出した。街灯もない闇の中、わずかな月明かりを頼りに、小瓶の液体を試験管に移す。試薬を一滴。振ると、液体がドス黒く変色した。

「……確定だ。さっき医務室で調べたのと同じ反応だ」

蓮の声が強張る。

「間違いなく、ここが毒の供給源です」


「よし。証拠は挙がった」

 ファビアンは小瓶を懐にしまうと、廃屋を冷ややかに見上げた。

「なら、私の工場の警備員を突入させる。ネズミ一匹逃さず、徹底的に叩き潰してやる」

 彼が合図の指笛を吹こうとした、その時だった。


「――おやおや。素人探偵ごっこにしては、なかなか様になっているじゃないか」


 闇の中から、拍手の音と共に冷ややかな声が響いた。二人がハッとして振り返ると、そこには数人の完全武装した男たちを引き連れた、眼鏡の男が立っていた。「マ、マルクスさん!?」徴税官マルクスだった。泥だらけの路地裏には似つかわしくない、完璧に整えられた官僚の制服。磨き上げられた革靴は、泥を避けるように優雅に地面を踏んでいる。


「なぜ、あなたがここに?」

「酒の流通量が不自然な動きをしていると報告があってね」

 マルクスは眼鏡の位置を直し、廃屋をねめつけた。

「正規の酒場への卸しが激減しているのに、街の酔っ払いは減っていない。……となれば、答えは一つ。『帳簿の外』で酒が流れているということだ」


 蓮は駆け寄った。

「マルクスさん、聞いてください! あの中で造られているのは酒じゃない、毒です! 工員たちが何人も失明しかけている!」

 だが、マルクスの反応は冷淡だった。

「健康被害? それは気の毒だが、厚生省か衛兵の管轄だ」

「なんだと……!」


「私が許せないのは」

マルクスの目が、氷の刃のように細められた。

「無許可で酒を造り、販売し、そこから生じる莫大な利益に対して、一銭たりとも税を納めていない『泥棒』がいることだ」


 マルクスにとって、正義とは「法と納税」だった。人が死ぬことよりも、国の財源が掠め取られることの方が、彼にとっては重罪なのだ。その徹底した官僚主義に、蓮は言葉を失う。


「ファビアン殿。君は私怨で動いているようだが……ここは手を組まないか?」

「……あんたと?」

 ファビアンが眉をひそめる。

「君の私兵で包囲網を作れ。ネズミを一匹も逃さないように。そして藤村殿、君はその科学知識で、奴らの酒が『危険物』であることを証明しろ。言い逃れできないようにな」


「……」

蓮はため息をついた。

「動機は不純ですが……目的は一緒ですね」

「ウィンウィンというやつだ」


 こうして、奇妙な三者同盟が成立した。食の安全を守りたい技術者。労働力を守りたい資本家。脱税を許さない徴税官。動機はバラバラだが、その矛先は一点、廃屋の中にいる「錬金術師」へと向けられた。


「行くぞ。害虫駆除の時間だ」

 マルクスの合図と共に、夜の静寂が破られた。三つの異なる正義あるいはエゴが、一つの悪を断つために動き出したのである。

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