◆第26話「毒の水と激怒する経営者」
不買運動が鎮静化し、工場の煙突から上がる煙が王都の繁栄を象徴するようになった頃。蓮の運営する食品加工工場の医務室に、不穏な空気が漂っていた。
「……またか」
蓮は、ベッドに横たわる若い工員を見下ろして顔をしかめた。工員の顔色は青白く、手足が小刻みに震えている。意識は混濁し、うわごとを呟いていた。
「……頭が痛い……目が、霞む……」
診断にあたっていた医師が、困惑した表情で報告する。
「今週に入って5人目です。症状は共通しています。激しい頭痛、嘔吐、手足の痺れ、そして視野の狭窄。……感染症ではありません。中毒症状です」
蓮は工員の呼気に鼻を近づけた。ツンとくる刺激臭。質の悪いアルコールの臭いだ。
「……やっぱり、酒か」
最近、工場街の裏路地では、正規のルートを通さない「謎の蒸留酒」が出回っていた。仕事終わりの労働者たちが、疲れを癒やすために、あるいは憂さを晴らすために、その安酒に群がっているという噂は蓮の耳にも届いていた。
「ただの二日酔いじゃない」
蓮は、工員の持ち物から押収した小瓶の液体を試験管に移し、試薬を滴下した。
「やっぱりだ。この密造酒、『初留』をカットしていない。この密造業者は『量が減るのがもったいない』と思って、毒ごと全部瓶詰めにしたんだ。……無知と強欲のミックスジュースだよ。これを飲んだら、目は霞み、最悪失明する。それに、鉛の配管を使っているせいで鉛も溶け出している。これは酒じゃない。神経を侵す毒液だ。」
蓮はギリリと奥歯を噛んだ。
植物に含まれるペクチンという物質は、発酵によって有毒なメタノールになる。エールやワインなら、それは微量だから重大な問題でない。だが、蒸留するとなれば話は別だ。融点の低いメタノールは蒸留で濃縮されやすい。正規の酒造所なら、銅製の蒸留器を使い、温度管理をして有害成分を取り除く。だが、この密造酒は、廃材の鉛管などを使い、適当な温度で蒸留し、さらに味をごまかすために興奮作用のある有毒ハーブを混ぜているのだろう。
「こんなものを飲ませて平気な顔をしている奴がいる。許せないな」
◆
ドォン!!その時、工場の扉が乱暴に開かれた。
「おい藤村! どこだ! 出てこい!」
怒号と共に現れたのは、豪奢な毛皮のコートを纏った男、ファビアン商会の主、ファビアンだった。彼は普段の冷徹な笑みを消し去り、鬼の形相で蓮に詰め寄った。
「貴様、よくもやってくれたな! 貴様が妙な知恵を授けたせいで、うちの熟練工が三人、使い物にならなくなったぞ!」
ファビアンは蓮の胸ぐらを掴み上げた。
「『蒸留酒』だったな? 貴様が修道院に教えた技術が、裏社会に流れたんだろうが!」
ファビアンの工場でも、同様の中毒患者が出ていたのだ。彼にとって従業員は、利益を生み出すための大切な「資産」である。それを壊された怒りは凄まじかった。
だが、蓮は怯まずにファビアンの手を振り払った。
「落ち着いてください。僕だって被害者だ」
「被害者だと? 火種を撒いたのは貴様だぞ!」
「違います。僕が手伝ったのは『安全な酒』を作る技術だ。温度管理をし、有害な成分を取り除く科学だ」
蓮は、手にした小瓶をファビアンの鼻先に突きつけた。
「嗅いでみろ。あんたほどの男なら、本物の酒とゴミの違いが分かるはずだ」
ファビアンは怪訝な顔で瓶を奪い取り、匂いを嗅いだ。一瞬で顔をしかめる。
「……なんだこれは。酒というより、染料を落とす溶剤のような臭いがする」
「それがメタノールの臭いです。知識のない素人が、適当な温度で蒸留し、毒(初留)を取り除かずに瓶詰めした。……これは技術の流出じゃない。無知と強欲が生んだ『毒水』です」
ファビアンは舌打ちをし、瓶を床に叩きつけようとして、思いとどまった。証拠品だからだ。
「つまり、どこの誰とも知れんクズが、私の工場に毒を撒いたということか」
「ええ。このままでは、あんたの工場の稼働率は下がる一方ですよ。熟練工から順に、目を潰されていくんですから」
蓮の言葉に、ファビアンの目が冷たく、鋭く光った。それは商人の目ではなく、敵を排除しようとする捕食者の目だった。
「……許せんな。私が手塩にかけて育てた労働力を、勝手にスクラップにされるとは」
「同感です。僕の従業員も被害を受けている」
蓮はファビアンを見据えた。
「ファビアンさん。あんたは顔が広い。王都の裏路地にも詳しいはずだ」
「……私を誰だと思っている。スラムの汚泥から這い上がった男だぞ」
「なら、案内してください。この毒水がどこから湧き出ているのか。……僕がその成分を分析し、言い逃れできない証拠を突きつけてやる」
ファビアンは鼻で笑った。
「フン、イモ屋風情が探偵ごっこか。……いいだろう。私の利益を守るためだ。どこのドブネズミか知らんが、私の財産を壊した代償、高くつくと教えてやる」
犬猿の仲である二人の利害が一致した瞬間だった。正義のためでも、友情のためでもない。ただ、「自分たちの工場と利益を守る」という一点において、最強の、そして最悪のバディが結成されたのである。




