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◆第25話「迷子の白い靴と、泥だらけのフライドポテト」

 その日、蓮は市場調査のために、王都の下町と貧民街の境界付近を歩いていた。空は曇り空だが、雨は降っていない。路地裏には、工場の排気と、夕餉の支度をする煮炊きの匂いが混じり合って漂っている。


「……えーい、そこだっ!」「あはは! お嬢ちゃん、うまいじゃんか!」


 不意に、場違いなほど明るい笑い声が聞こえた。蓮が足を止めて路地の奥を覗くと、そこには奇妙な光景が広がっていた。土埃にまみれた半ズボンを履いたスラムの子供たち――三、四人だろうか――が、空き地でボール遊びをしている。その中心に、まるで深窓から抜け出してきた妖精のような少女が混じっていたのだ。


 歳は六つか七つくらい。純白のフリルがついたドレスに、エナメルの革靴。髪には高価そうなリボンを結んでいる。明らかに、この界隈の住人ではない。だが、少女はドレスの裾が汚れるのも気にせず、キャッキャと笑ってボロ布を丸めたボールを追いかけていた。


「ほら、お嬢ちゃん。これ食うか?」一人の少年が、ポケットから油紙に包まれた何かを取り出した。「これなぁに?」「『イモフライ』だよ。イモ工場のハネ品(規格外)を揚げたやつだ。うめぇぞ」


 それは蓮の工場から横流しされた、あるいは廃棄品として安く出回ったクズ芋のフライだった。衛生的に褒められたものではないし、油も古い。だが、少年はそれを自分の分を減らしてまで、少女に差し出しているのだ。


「ありがとう! ……あむ。わぁ、しょっぱくておいしい!」「だろ? 塩がきいてるのが最高なんだ」


 少女とスラムの少年たちが、一つの芋を分け合って笑う。そこには身分の壁も、貧富の差もなかった。ただ、純粋な子供たちの世界があるだけだ。蓮は少しの間、その光景に見入っていたが、すぐに我に返った。このまま放置するのは危険だ。日が暮れれば治安は悪化するし、これほど身なりの良い子供が一人でいれば、人攫いに狙われかねない。


「……君たち、楽しそうだね」

 蓮は、極力優しい声を作って近づいた。子供たちがビクリとして身構える。

「お、俺たちは何もしてねぇぞ! いじめてなんかない!」

「分かってるよ。仲良く遊んでくれてありがとう。……お嬢さん、お名前は?」


少女は蓮を見上げ、ニコリと笑った。

「リリィよ! お買い物に来たパパを待ってたんだけど、蝶々を追いかけてたら、ここに来ちゃったの」


(……リリィ?)

 蓮の脳裏に、ある人物の顔がよぎった。商売敵であるファビアン商会の主が、娘を溺愛しているという噂は聞いている。


「そうか。パパはきっと心配しているよ。……お兄さんたちにお礼を言って、一緒に行こう」

「えー、もう行くの? もっと遊びたいのに」


 リリィは名残惜しそうにしたが、蓮が「パパが泣いちゃうかもよ」と言うと、素直に頷いた。


「お兄ちゃんたち、ありがとう! お芋、おいしかった!」

「おう、気をつけて帰れよ!」

 スラムの少年たちは、手を振って見送ってくれた。彼らの手は泥だらけだったが、その瞳は澄んでいた。



 大通りの衛兵詰め所付近は、異様な騒ぎになっていた。「探せ! ドブ板一枚剥がしてでも見つけ出せ! 私のリリィがいないんだぞ!!」


 聞き覚えのある怒鳴り声。そこには、普段の冷静で皮肉屋な商人の姿はなかった。髪を振り乱し、高価なコートの前もはだけたまま、衛兵に食って掛かるファビアンの姿があった。その目は血走り、顔面は蒼白だ。娘を失うかもしれない恐怖が、彼を狂気寸前まで追い詰めていた。


「ファビアンさん」蓮が声をかけると、ファビアンは弾かれたように振り返った。

「藤村!? 貴様、今はそれどころでは……」

「パパ!」

蓮の後ろから、リリィが顔を出した。


「リリィ……!」

 ファビアンはその場に膝をつき、娘を抱きしめた。その力は強く、震えていた。

「ああ、リリィ、リリィ! 無事だったか、怪我はないか!?」

「うん、平気だよ。ごめんなさい、パパ」


 ファビアンは娘の頬を何度も撫で、無事を確認すると、安堵で崩れ落ちそうになった。だが次の瞬間、彼の視線がリリィの手元に止まった。リリィの手には、食べかけの『イモフライ』が握られていた。油が染みた包み紙。そして、純白のドレスの袖には、泥と油の汚れがついている。


「……なんだ、これは」

 ファビアンの表情が、安堵から激しい憤怒へと変わった。彼はイモフライを奪い取り、地面に叩きつけた。

「こ、こんな汚らしいものを! 誰にもらった!?」

「あっ、私のお芋……!」

「リリィ! お前はファビアン商会の令嬢だぞ! こんな、どこの馬の骨とも知れん貧民の餌を口にするな!」


 ファビアンは蓮を睨みつけた。

「藤村! 貴様か! 私の娘をあんな薄汚い連中のたまり場へ連れて行ったのは!」

「保護したのはあの近くですが、連れて行ったわけじゃありませんよ」


蓮は冷静に返した。

「それに、そのイモは毒じゃありません。迷子になってお腹をすかせたリリィちゃんを気遣って、現地の子供たちが分けてくれたものです」

「気遣いだと? ふざけるな!」

 ファビアンは唾を飛ばして叫んだ。


「貧民街のガキどもだぞ! リリィの服を見て、小銭をせびろうとしたに決まっている! 薄汚い手で娘に触れおって……病気にでもなったらどうするんだ!」


 それは、あからさまな偏見と差別だった。彼自身、かつては貧民街から這い上がった男だ。だからこそ、そこにある「貧しさ」と「不衛生」を誰よりも憎み、恐れているのだろう。蓮が反論しようとした時、リリィが叫んだ。


「違うもん!!」


 その場にいた全員が息を呑んだ。リリィは涙目で、父親を睨み返していた。

「あのお兄ちゃんたちは、優しかったよ! 私が泣いてたら、『一緒に遊ぼう』って言ってくれたの! 自分たちのお芋も、『半分こしよう』ってくれたの!」


「リリィ……しかし、奴らは……」

「汚くない! パパのほうがかっこ悪いよ! せっかくのプレゼントを捨てるなんて!」

リリィは地面に落ちたイモフライを拾おうとした。泥にまみれて、もう食べられない。少女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「楽しかったのに……。優しくしてくれたのに……」


 ファビアンは言葉を失った。彼は娘を守ろうとした。汚い世界から、貧しい世界から、遠ざけることが愛だと思っていた。だが、娘はその「汚い世界」の中で、宝石のような優しさに触れていたのだ。ファビアンは、泥にまみれたイモフライを見つめた。それはかつて、彼自身が這いつくばって求めていた、命を繋ぐ糧そのものだった。自分はいつから、これを「ゴミ」と呼ぶようになったのか。


「……すまない、リリィ」

長い沈黙の後、ファビアンはしゃがみ込み、ハンカチで娘の涙と、手の汚れを拭った。

「パパが悪かった。……お友達のプレゼントを、無下にして悪かったな」

その声は、驚くほど弱々しかった。彼は立ち上がり、バツが悪そうに蓮の方を向いた。


「……藤村殿」

ファビアンは視線を逸らしたまま、ボソリと言った。

「娘を……保護してくれたこと。感謝する」

「いえ。無事で何よりです」

「だが勘違いするな! 今回は貸しにしておくだけだ! 商売では手加減せんからな!」


 ファビアンは捨て台詞のように言い放つと、リリィを抱き上げた。

「帰るぞ、リリィ。ママが心配している」

「うん。……あ、お兄ちゃん、バイバイ!」

 リリィは蓮に手を振り、蓮も振り返した。


 遠ざかるファビアンの背中は、いつもの傲慢な商人のそれではなく、ただの不器用な父親の背中だった。蓮は、地面に残された泥だらけのイモフライを見つめ、小さく溜め息をついた。


(……悪い人じゃないんだよな、根っこの部分は)


 娘のためなら、自分のプライドさえも飲み込める男。だが、その強すぎる「家族愛」こそが、彼を修羅の道――自分以外の子供たちを犠牲にする児童労働――へと走らせる原因になることを、この時の蓮はまだ知らなかった。一時の心温まる交流は、やがて来る残酷な対立の、皮肉な前奏曲プレリュードだったのである。

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