◆第23話「夜勤の告白と、異世界の理想」
ヴァレリオによる弾圧から三日後。工場は暫定的な修理が完了し、部分的にだが再び稼働を始めていた。しかし、蓮の心は晴れなかった。
深夜。工場の明かりはほとんど消え、静寂が支配していた。だが、二階の執務室だけは、蝋燭の明かりが灯っている。蓮とエリシアは、修理費用の精算と、今後の警備体制の見直しについて書類を整理していた。
「……このあたりの数字、明日もう一度確認しましょう」
エリシアが羊皮紙をまとめながら言った。その横顔を見て、蓮はペンを置いた。
「エリシアさん。……少し、休憩しませんか」
「え? でも、あと少しで……」
「いや、僕が休みたいんです」
蓮は椅子の背もたれに体を預け、天井を仰いだ。エリシアは心配そうに蓮を見つめた。
「……藤村殿。あの日から、ずっと顔色が悪いですよ」
「そうですか」
蓮は微笑もうとしたが顔がこわばった。窓の外では、王都の夜景が広がっている。あちこちに工場の煙突が見え、その煙が月明かりに照らされていた。
「エリシアさん。あなたは、あの時言いましたね。『これが、あなたの望んだ結末ですか』と」
エリシアの表情が曇った。
「……あの言葉、きつすぎました。謝ります」
「いえ、謝らないでください」
蓮は首を振った。
「あの言葉は、正しかった。僕は……自分が何をしているのか、分かっていたはずなのに」
蓮は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。ガラスに映る自分の顔を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「僕がいた世界……日本という国では、みんなが文字の読み書きができました。それは当たり前のことで、誰も疑問に思わない」
「……全員が?」
「ええ。最低でも九年間、国が費用を負担して教育を受けます。義務教育と呼ばれるものです。ほとんどの人は、さらに三年から七年、学校で学んでから社会に出ます」
エリシアは息を呑んだ。この世界では、貴族でさえ満足な教育を受けられない者がいる。平民なら、文字が読めるだけで「学がある」と言われる世界だ。
「それに」
蓮は続けた。
「労働者の権利も、憲法と法律で守られていました。一日に働ける時間には制限があり、休日も保障されている。子供を働かせることは犯罪です。もし雇い主が不当な扱いをすれば、労働者は訴えることができる」
「……まるで、夢のような国ですね」
「ええ。僕はそれが当たり前だと思っていました」
蓮は窓ガラスに手を当てた。
「だから、この世界に来たとき……あまりの格差に、愕然としたんです。読み書きができない人々、朝から晩まで働いても食べていけない人々、使い捨てにされる子供たち」
蓮の声が震えた。
「何とかしたかった。この世界を、少しでも日本に近づけたかった。だから工業化を進めました。効率を上げて、富を生み出せば、みんなが豊かになれると思った」
「それは……間違っていませんよ」
エリシアが優しく言った。だが、蓮は首を振った。
「でも、僕は知っていたんです。日本だって、最初からさっき言ったような国だったわけじゃない。工業化の過程で、たくさんの人が犠牲になった。職人が仕事を失い、労働者が搾取され、公害が広がり……。そういう『過渡期の痛み』があったことを」
蓮は拳を握りしめた。
「それを知っていながら、僕はこの世界でも同じことをした。ギルドの職人たちが追い詰められることも、強欲な商人が労働者を搾取することも……予想できたはずなのに」
「藤村殿……」
「ヴァレリオが職人たちを拘束するのを見たとき、僕は……」
蓮の声が詰まった。
「僕が望んだ結末じゃない、と言いたかった。でも、嘘になる。僕は、こうなることを知っていた。知っていて、それでも進めたんだ」
蓮は振り返り、エリシアを見つめた。その目には、深い苦悩があった。
「僕は……間違っているのかもしれない」
静寂が部屋を満たした。蝋燭の火が揺れ、二人の影が壁に映る。
エリシアは立ち上がり、蓮の前に歩み寄った。そして、まっすぐに蓮を見つめて言った。
「藤村殿。あなたは確かに、痛みを予想していたかもしれません。でも――」
エリシアは蓮の手を取った。インクで汚れた、彼女の小さな手が、蓮の拳を包み込む。
「あなたは、その痛みを和らげようとしてきました。従業員に正当な賃金を払い、教育の機会を与え、安全な職場を作ろうとしてきた。……それは、偽善ですか?」
「でも、それは僕の工場だけで……」
「最初は一つの工場だけでもいいんです」
エリシアの声が、力強くなった。
「あなたの工場が成功すれば、他の工場も真似をします。労働者たちが『こういう働き方もある』と知れば、声を上げ始めます。……変化は、いつも小さな場所から始まるものです」
蓮は、エリシアの手を見つめた。貴族の令嬢だった彼女の手は、今は蓮と同じようにインクと油で汚れている。
「あなたは完璧ではありません」
エリシアは微笑んだ。
「でも、この世界を良くしようとしている。それは間違いではないと、私は信じています」
「……エリシアさん」
「それに」
エリシアは少しだけ頬を染めた。
「あなたが間違った道に進みそうになったら、私が止めます。だから……一人で抱え込まないでください」
蓮は、初めて笑顔を見せた。疲れた、しかし温かい笑顔だった。
「……ありがとうございます。エリシアさんがいてくれて、本当に良かった」
「当然です。私はあなたの秘書ですから」
エリシアは蓮の手を離し、少し照れくさそうに書類に目を戻した。
「さあ、休憩はおしまいです。明日も早いですよ」
「はい」
蓮も席に戻った。胸の重さは完全には消えなかったが、少しだけ軽くなった気がした。窓の外では、工場の煙突が静かに煙を吐き続けている。それは確かに、この世界に歪みをもたらしている。だが同時に、新しい未来への道でもあった。完璧ではない、痛みを伴う道。それでも――進むしかないのだ。
二人の手元には、明日の希望を作るための書類が積まれていた。




