◆第15話「図書館の再会と、選ばれなかった道」
王立魔道士アカデミーの大図書館。リオネルは、新しい乾燥炉の設計に必要な古い文献を探すため、久しぶりにこの場所を訪れていた。重厚な樫の扉を押し開けると、懐かしい空気が肺を満たした。高い天井まで続く書架、数百年分の知識が詰まった革装丁の背表紙、そして静寂。ステンドグラスから差し込む午後の光が、舞う埃を金色に染めている。石造りの柱には蔦が這い、古代の賢者たちの彫像が見下ろしていた。
リオネルは立ち止まり、深く息を吸った。羊皮紙の乾いた匂い、古いインクの鉄臭さ、そして木材の温かみ。この匂いを嗅ぐと、まだ自分が「優等生」だった頃の記憶が蘇る。徹夜で論文を書いた夜、難解な魔法陣を解読した達成感、そして――首席の座を争ったライバルたちの顔。
(……もう、戻れない場所だな)
リオネルは少し寂しげに微笑み、書架の間を歩き始めた。足音が石の床に反響する。平日の昼間だというのに、人影はまばらだ。皆、実習や講義で忙しいのだろう。目的の書架にたどり着き、背伸びして高い位置にある分厚い本を取ろうとした時、隣の書架から人の気配がした。そして、見覚えのある背中が窓際の閲覧席に座っているのが目に入った。
整った姿勢、几帳面に揃えられた資料、そして金縁の眼鏡。間違いない。
「……ルキウス?」
声をかけると、その青年はゆっくりと振り返った。一瞬、驚きで目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。だが、その視線には複雑な感情が混じっていた。
「リオネル! ……久しぶりだな」
ルキウスの声には、懐かしさと、わずかな戸惑いがあった。アカデミー時代、リオネルと首席争いをしていた同期生。互いに認め合い、切磋琢磨した仲だった。
「ああ、久しぶり」
気まずい沈黙が流れた。リオネルは、ルキウスが自分を軽蔑しているのではないかと身構えた。アカデミーを「捨てた」男として。だが、ルキウスは優しく席を勧めた。
「座れよ。立ち話もなんだ。……噂は聞いている。イモ工場の技術責任者になったそうじゃないか」
「ああ。まあ、色々あって」
リオネルは向かいの席に腰を下ろした。木製の椅子が、小さな軋み音を立てる。ルキウスの机の上には、高度な魔法陣の設計図が広げられていた。精緻な線、完璧な幾何学模様。宮廷魔道士の仕事だろう。
「立派になったな、ルキウス。宮廷魔道士の試験、合格したんだろう?」
「ああ。何とかな」
ルキウスは苦笑し、眼鏡の位置を直した。その仕草まで、学生時代と変わらない。
「でも、正直に言うと……羨ましいよ、リオネル」
「え?」
予想外の言葉に、リオネルは目を瞬いた。
「羨ましい? 僕を?」
「ああ」
ルキウスは窓の外を見た。ステンドグラスの向こうに、アカデミーの尖塔が灰色の空を突き刺している。その視線は、どこか遠くを見ているようだった。
「俺は今、宮廷で魔法陣の保守をしている。重要な仕事だ。給料もいい。名誉もある。……でも、つまらない」
ルキウスの声には、深い諦めが滲んでいた。
「毎日、同じ魔法陣の点検。同じ報告書の作成。先輩たちの顔色を窺い、派閥争いに巻き込まれないように気を使う。新しいことを提案すれば『前例がない』と却下される。……これが、俺が目指していた『魔道士』の姿なのかと思うと、虚しくなるんだ」
「ルキウス……」
リオネルは、友の横顔を見つめた。その表情には、深い疲労と失望があった。
「お前の話を聞いたよ。ゼクセル学部長に盾突いて、『魔道工学』とかいう新しい分野を作ったんだろう? 落ちこぼれの魔道士たちを集めて、前例のない工場を動かしてるって」
ルキウスは、リオネルを真っ直ぐに見た。その瞳に、かつての学生時代の輝きが一瞬、戻った。
「それって……俺たちが学生の頃、夜中の実験室で夢見ていたことじゃないか。『新しい魔術の可能性を探る』『誰も見たことのない術式を創る』って」
リオネルは息を呑んだ。そうだ、自分たちは確かに、そんな話をしていた。深夜、コーヒーを飲みながら、どんな魔術師になりたいか熱く語り合った日々。あの頃は、二人とも未来が輝いて見えていた。
「でも、俺は安定を選んだ」
ルキウスは自嘲気味に笑い、机の上の完璧な魔法陣を指でなぞった。
「宮廷魔道士という肩書、安定した給料、貴族との繋がり……。それが『正しい道』だと信じて。いや、信じ込もうとした。だが、お前は違った。お前は、誰も歩いていない道を選んだ」
ルキウスは立ち上がり、リオネルの肩に手を置いた。その手は温かく、そして少しだけ震えていた。
「リオネル。アカデミーの連中は、お前を『堕ちた天才』と笑っているかもしれない。でも、俺は知ってるぞ。お前が本当に凄いことをやっているって。お前こそが、俺たちの夢を実現してるんだ」
「……ルキウス」
リオネルの胸が熱くなった。孤独だと思っていた。でも、理解してくれる者もいたのだ。道は違えど、同じ夢を見ていた仲間が。
「いつか、俺にも見せてくれよ。お前の工場ってやつを。……その『魔道工学』とやらが、どんなものなのか、この目で見てみたい」
「ああ、もちろん。いつでも来てくれ」
二人は握手を交わした。それは、かつての同期生としてではなく、それぞれの道を選んだ同志としての、そして互いの選択を尊重し合う友としての握手だった。
図書館を出る時、リオネルは空を見上げた。灰色の雲の切れ間から、わずかに青空が覗いている。冷たい風が頬を撫でたが、胸の内は温かかった。自分の選択は、間違っていなかった。そう、改めて確信できた。抱えていた本が、以前よりも軽く感じられた。




