◆第5話「象牙の塔の憂鬱と高尚な苦悩」
王都の中心にそびえ立つ「ソラニア王立魔道士アカデミー」。数百年の歴史を誇るその石造りの尖塔は、王国の知の象徴であり、同時に、選ばれた者だけが入ることを許される「象牙の塔」でもあった。
高等科の学生たちが集う第3談話室。そこは、張り詰めた緊張感と、独特の匂いに満ちていた。古びた羊皮紙の乾燥した匂い、インクの鉄臭さ、そして魔法行使の後に残る、焦げたようなオゾンの臭気。高い天井にあるアーチ窓からは午後の日差しが差し込んでいるが、舞う埃さえもが、魔力の重圧に押されて動きを止めているかのようだ。
「……くそっ、また失敗だ!」
静寂を破り、一人の男子学生が机に突っ伏した。彼の目の前には、歪な形をした木片が転がっている。その木片は、右半分が霜に覆われて凍りつき、左半分が黒く炭化して煙を上げていた。
「『氷』による形状固定と、『炎』による表面加工の同時展開……。こんなの、あと何年修練すれば実用レベルになるんだ?」
学生は、充血した目で頭を抱えた。彼の手は小刻みに震えている。魔力枯渇の初期症状だ。この世界における「一流の魔道士」の条件、それは**『多重属性の同時制御』**である。戦場においては、敵の炎を防ぐ「水壁」を展開しながら、同時に相手を切り裂く「風刃」を放つことが求められる。生活魔法においても、素材を温めながら混ぜ合わせるなど、相反する事象を脳内で並列処理し、複雑怪奇な術式を編み上げることが「魔術」の基本とされていた。
彼らは必死だった。睡眠時間を削り、難解な古代語を暗記し、脳が焼き切れるような頭痛に耐え、青春の全てをこの塔に捧げている。それが「エリートの義務」だと信じているからだ。
「……聞いたか? 退学になった『突風のカイ』の噂」
休憩がてら、窓際にいた学生がポツリと言った。彼は窓の外、王都の東側に広がる下町の方角を眺めていた。
「ああ。あの風量制御ができない落ちこぼれだろう? なんでも、異邦人が作った『イモ工場』とかいう場所に拾われたらしいな」
「嘆かわしい話だ。神聖な魔術を捨てて、ただの労働者に成り下がるとは」
別の学生が、侮蔑を含んだ溜息をついた。
「あそこでは、一日中『風を送るだけ』の仕事をしているそうだ。術式も組まず、制御もせず、ただ魔力を垂れ流すだけ。……そんなものは魔法じゃない。魔力を使った『作業』だ」
彼らの言葉には、単なる見下しだけでなく、ある種の「哀れみ」と、自分たちへの「戒め」が含まれていた。彼らにとって、魔法とは芸術だ。指揮者がオーケストラの全楽器を統率して一つの交響曲を奏でるように、魔道士は森羅万象を統率して奇跡を起こす。それを、ただ一つの太鼓を叩き続けるような単純作業に使うなど、名匠の絵筆で床掃除をするようなものだ。才能の浪費であり、魔道士としての死に等しい。
ギィィ……と重い扉が開き、深緑のローブをまとった講師が入ってきた。胸には「上級魔道師」を示す銀の徽章が輝いている。
「無駄口を叩いている暇があるのかね? 来週の実技試験、合格者はまだゼロだぞ」
学生たちが慌てて姿勢を正し、羽ペンを握り直す。講師は、チョークで汚れた指先を拭いながら、窓の外――遠くに見える工場の煙突から上がる白い蒸気を、忌々しげに睨みつけた。
「……あの工場は、魔道の冒涜だ」
講師は静かに、しかし熱っぽく語り始めた。その声には、伝統を守る者としての重みがあった。
「よいか、諸君。魔法とは『万能』を目指す学問だ。一人で全てをこなし、天候さえも操る。それが我ら魔道士の使命だ。……だが、あの異邦人の工場はどうだ? 人間を『風を送るだけの部品』『火を灯すだけの部品』に分解し、単純化している」
講師は教壇を拳で叩いた。
「それは人間の尊厳の放棄だ! 自ら思考し、複雑な術式を構築する苦悩を捨てて、ただの歯車になる……。そんな安易な道に逃げた者たちを、魔道士と呼べるか?」
「呼べません!」
学生たちが唱和する。その瞳には純粋な光が宿っていた。
「そうだ。諸君は王国が誇るエリートだ。あのような安きに流れるな。苦しくとも、高みを目指せ。二つの属性を、三つの属性を同時に操る『完全なる個』を目指すのだ! それこそが、アカデミーの誇りである!」
講師の檄に、学生たちは再び杖を構え、呪文の詠唱を始めた。教室の空気は再び張り詰め、ピリピリとした魔力の波紋が広がる。彼らは決して、悪人ではない。怠け者でもない。むしろ、誰よりも真剣に、この世界の伝統的な価値観――「個人の卓越した能力こそが至高」という職人芸の世界を信じているのだ。だからこそ、蓮が持ち込んだ「凡人をシステムで繋いで天才を凌駕する」という分業制が、生理的に受け入れられない。それは彼らの血の滲むような努力を、「非効率」と断じる行為に他ならないからだ。
「……見ていろ。あんな単純作業だけの工場、すぐに破綻する」
「そうだ。最後には、我々のような真の魔道士が必要になるはずだ。そうでなければ――」
彼はそれに続く言葉を飲み込んだ。、そうでなければ我々の努力は何だったというのだ。という言葉は、敗北者の泣き言だと思えたからだ。
一人の学生が、祈るように呟き、再び「氷と炎」の融合実験に取り掛かった。象牙の塔の灯りは、夜遅くまで消えることはなかった。彼らの努力は尊い。だが、その方向は、間もなく本稼働する工場のスプレードライタワーが示す「大量生産」という未来とは、決定的にズレてしまっていた。
彼らは信念を持って、再び難解な術式の迷宮へと潜っていく。その高尚な義務感と責任感こそが、時代の変化に取り残される原因になるとも知らずに。




