◆第42話「美味しさという説得」
風が止まったかのような静寂の中、ぐう、と小さな音が響いた。それは、鍋の前の男の子の腹の虫だった。
少年は、母親の制止を振り切るように、ふらりと一歩前に出た。痩せこけた体は寒さで震えていたが、その目は湯気を上げる椀に釘付けになっている。
「……食いたい」
小さな、しかし切実な声だった。
エリシアは膝をつき、少年の目線に合わせて椀を差し出した。
「熱いから、気をつけて。……毒なんて入っていないわ」
少年は恐る恐るスプーンを受け取ると、白く濁ったスープと、角の取れたジャガイモをすくった。ふー、ふー、と息を吹きかけ、口へと運ぶ。
広場にいる全員が、固唾を飲んで見守った。もし少年が苦しみ出せば、交渉は決裂だ。
少年は口を動かし、ゴクリと飲み込んだ。一瞬の間のあと、その表情がくしゃりと崩れた。
「……うめぇ」
その一言は、どんな雄弁な演説よりも重かった。
「あつい……あったかい……。なんか、とろとろしてて……うめぇよ、母ちゃん」
少年は夢中でスプーンを動かし始めた。その様子を見て、家の中から飛び出してきた母親が、慌てて少年の肩を掴む。
「だめじゃないか! そんな怪しいものを……!」
「でも、うまいんだよ! 母ちゃんも食ってみろよ!」
少年が差し出したスプーンには、煮崩れたジャガイモが乗っていた。母親は躊躇いながらも、我が子の必死な顔に押され、その欠片を口に含んだ。
彼女の目が見開かれる。 「……!」
塩味の効いたスープを吸った芋が、舌の上でほろりと崩れる。土臭さなどない。あるのは、穀物特有の優しい甘みと、腹の底から温まるような充実感だけだった。
「……これは、木の根なんかじゃない……」
母親は震える声で呟いた。
「私たちの知っている、食べ物の味がする……」
◆
その光景が、堰を切った。他の家からも、一人、また一人と村人たちが広場へ出てきたのだ。疑いはまだ消えていない。だが、それ以上に空腹と、漂う匂いの誘惑が勝った。
「……俺にも、一口くれんか」
「子どもに、汁だけでも……」
エリシアは、椀を受け取りに来る一人一人の目を見て、手渡していった。
「たくさんありますから。慌てないで」
蓮とリオネルも配膳を手伝う。椀を受け取った村人たちは、一口すするごとに、凍りついた表情を溶かしていった。
「あったまる……」
「なんだこの固まり、口の中で溶けるぞ」
「麦粥より、ずっと腹にたまる感じがするな」
広場は、ズルズルとスープをすする音と、吐き出される白い息、そして「うまい」という安堵の囁きで満たされていった。
◆
その輪の外に、ただ一人、村長のハンズだけが立ち尽くしていた。彼は杖を握りしめ、村人たちが「得体の知れない芋」を貪り食う様子を、複雑な表情で見つめていた。
エリシアは、椀を一つ手に取り、ハンズの元へ歩み寄った。
「ハンズ」
彼女は静かに呼びかけた。
「あなたも、食べてください。村のみんなを守ろうとした、あなたにこそ」
ハンズは頑なに顔を背けた。
「……わしは騙されん。うまい話には裏がある。その芋も、食えば一時は腹が膨れるかもしれんが……どうせ、育てるには高価な『魔法の水』がいるとか、そういうカラクリがあるんじゃろう」
エリシアは首を横に振った。
「いいえ。魔法なんてありません」
彼女は、ハンズの目の前に、スープの中のジャガイモをスプーンですくって見せた。
「これは、春に種芋を植えて、夏に掘って、また秋に植えただけのものです。何度も泥だらけになって、草をむしって、虫を追い払って……ただ時間をかけて育てただけの、泥臭い畑の作物です」
エリシアの瞳には、強い光が宿っていた。
「すぐ育つ魔法も、倍に増える奇跡もありません。 でも――裏切りもしません。 手をかけた分だけ、必ず答えてくれる。ただの、正直な作物です」
ハンズは、エリシアの目を見つめ返した。そこには、かつて見た幼い領主の孫娘の面影と、王都で何かを掴んできた大人の女性の強さが同居していた。
「……ただの、芋か」
「はい。ただの、美味しい芋です」
ハンズは震える手で、椀を受け取った。 そして、覚悟を決めたように一口、口に運んだ。
ハンズは震える手で椀を受け取った。そして、覚悟を決めたように一口、口に運んだ。 熱いスープが喉を通り、ホクホクとした芋が胃に落ちる。それは、かつて詐欺師たちが見せびらかしたきらびやかな夢の味ではない。土と、塩と、あたたかさ。地に足のついた、現実の味だった。
「……美味いな」
ハンズは低く呟いた。エリシアの表情がぱっと明るくなる。しかし――老人の目は、まだ冷ややかなままだった。彼は椀をゆっくりと地面に置くと、エリシアを睨みつけるように見据えた。
「確かに、美味い。だが、それだけだ」
「え……?」
「このスープには感謝する。だが見ての通り、この村には金目のものなど何一つ残っておらん。あんたたちが何を期待してこれを振る舞ったのか知らんが……払えるものは無いんだ」
ハンズの声は、恐怖で強張っていた。
「どうせ、後から高値をふっかけるつもりだろう? 『タダより高いものはない』と、わしらは骨の髄まで教え込まれた。だから……帰ってくれ。これ以上、わしらを惨めな気持ちにさせないでくれ」
拒絶。それは単なる疑いではなく、傷ついた獣が身を守ろうとする悲痛な叫びだった。広場の空気が凍りつく。美味しいスープで緩みかけた村人たちも、村長の言葉に我に返り、不安そうに顔を見合わせる。蓮が何か言おうと一歩踏み出した。だが、それより早く、エリシアが動いた。彼女はハンズの目の前まで歩み寄ると、その薄汚れた、骨と皮ばかりになった体を、正面から抱きしめた。
「……っ!? お、お嬢様……?」
ハンズが息を呑む。貴族の娘が、薄汚れた老人を抱きしめるなど、あるはずのないことだ。だが、エリシアの腕には力がこもっていた。
「……ごめんなさい」
エリシアは、ハンズの肩に顔を埋めたまま、声を震わせた。
「お金なんて、いりません。私がここに来たのは……謝りたかったからです」
「あやま、る……?」
「あの日……祖父は、あなたたちを守れなかった。領主でありながら、あなたたちが雪を食べて飢えを凌いでいるときに、何もできなかった……」
エリシアの目から、熱いものが溢れ出し、ハンズの擦り切れた外套を濡らしていく。
「私が無力だったせいで……たくさんの人が苦しみました。ずっと、それが辛かった。怖かった。……ごめんなさい。助けられなくて、本当に、ごめんなさい……!」
それは、記録官としての言葉でも、施しを与える貴族の言葉でもなかった。ただの、悔恨を抱えた一人の人間の慟哭だった。
ハンズは、抱きしめられたまま呆然としていた。商人は、商品を褒める。詐欺師は、夢を語る。だが共に泣き、過去の無力を詫びる者は、今まで一人もいなかった。老人の強張っていた肩から、力が抜けていく。杖が、カランと音を立てて倒れた。
「……お嬢様は……ずっと、覚えていてくださったのですな」
「忘れるわけ、ありません……!」
「わしらのような、貧しい者たちのことを……」
ハンズの枯れた目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ああ……あああ……」
彼はエリシアの背中に、泥だらけの手を回し、しがみつくようにして泣き崩れた。
「疑って……申し訳ございませぬ……! エリシア様……よくぞ、戻ってきてくださいました……! エリシア……お嬢様……。生きておられたのですね……。あの方の優しさは、あなたの中に……」
エリシアの背中にしわだらけの手を回して、子供のように泣き崩れた。
「疑って……申し訳ねぇ……! だけど、苦しかった……本当に、苦しかったぁ……!」
その泣き声は、広場にいた全員の胸を打った。蓮は、静かに鍋の火を弱めた。もう、言葉も、料理もいらない。そこにあるのは、長い冬を越えてようやく繋がった、人と人との体温だけである。
そして――
広場では、おかわりを求める子供たちの声が響き始めていた。雪雲の隙間から、わずかに冬の陽射しが差し込む。 鍋から立ち上る湯気は、まるで希望の狼煙のように、白く、高く、空へと伸びていった。




