◆第38話「赤い芋、白い芋」
徴税庁の最上階にある徴税官長の執務室は、いつ訪れても独特の緊張感が漂っている。天井まで届く巨大な書類棚、そして部屋の空気を支配するインクと古紙の乾いた匂い。暖炉には火が入っているものの、石造りの壁が放つ冷気の方が勝っており、部屋全体がひやりとしていた。
その部屋の中央、書類の山に埋もれるようにして、マルクスは座っていた。彼は羽ペンを走らせていた手を止め、ゆっくりと顔を上げる。眼鏡の奥にある瞳は、冬の湖面のように静かで、冷徹だった。
「サツマイモへの課税。および、それを利用した甘味への税の適用を検討している」
挨拶も前置きもなく放たれたその言葉は、決定事項としての重みを持っていた。蓮は、対面に用意された革張りの椅子に深く座り直し、眉を寄せた。背中を流れる冷や汗を悟られないよう、膝の上で拳を握る。
「……待ってください。サツマイモは、冬を越すための重要な食料です。課税されれば価格が上がり、庶民が買えなくなります」
「だが現に、貴族が高値で買い、菓子として楽しんでいる」
マルクスは机の上の書類を一枚、指先で弾いて蓮の前に滑らせた。市場の取引記録だ。そこには、麦の数倍の値がついたサツマイモの取引額が並んでいる。
「これを見たまえ。もはや『救貧作物だから無税』という理屈は通らない。菓子職人たちは、砂糖税を逃れるために芋を使っている。これは制度の悪用だ」
正論だった。
暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけが、沈黙を埋める。蓮も、ガストンの成功を見たときから、この事態は予感していた。だが、ここで一律に「甘味税」をかけられれば、寒空の下で焼き芋を楽しみにしている子供たちや、貧しい人々の糧まで奪うことになる。
「……区別できませんか。菓子用と、食用とで」
「不可能だ」
マルクスは即答し、冷めた紅茶を一口すすった。
「菓子用と食用をどうやって区別するのかね? 市場に流れてしまえば、誰が口にするかなど追跡できない。見た目が同じなら、より高く売れる方へと流れるのが経済の理だ」
見た目が同じなら――。
蓮は、解決のヒントを見つけた。
「それなら、見た目が違えばいいんですね?」
◆
官舎に戻ると、蓮は執務机の引き出しの鍵を開け、写実の書を取り出した。蓮の呼吸が荒くなる。
そのとき、扉がノックされた。
「失礼します」
エリシアだった。彼女は、蓮の手元にある写実の書を見て、静かに息を吸った。
「……使われるのですね」
「ああ。もう、これしかない」
蓮は目次を見て必要なページを探し、そのページを開いた。回数制限がある召喚を利用することに、恐怖にも近いほどのためらいはあった。だが――
「これが最後の一回でも、構わない」
エリシアは、何も言わず、頷いた。
サツマイモが、貴族用の作物として課税されてしまうかどうかの瀬戸際だ。今使わないなら、いつ使うのか。蓮は、写真の下の文字に指を置いた。そして、ゆっくりと、はっきりとその名前を、読み上げた。
静かな光が、ページから立ち上った。以前のような眩い閃光ではない。まるで、最後の燃え尽きる蝋燭のような、儚い光だった。そして、ふわりと机の上に、芋が現れた。たった五個だけ。蓮は、その芋を手に取った。冷たく、硬く、重い。
「このサツマイモの召喚は、これで、たぶん終わりだな」
エリシアが、小さく呟いた。
「いえ。これは、始まりです」
蓮は、彼女を見た。
「うん。これからこの芋を、増やす。それが、僕の仕事だ」
◆
翌日、蓮は再びマルクスの部屋を訪れた。
ゴトリ、ゴトリ。 重い音を立てて、蓮は机の上に二種類の芋を並べる。
一つは、これまで栽培してきた、鮮やかな紅色の皮を持つサツマイモ。滑らかな肌が、窓から差す冬の光を浴びて艶やかに光る。そしてもう一つは――白っぽく、土気色の皮をした無骨な芋だ。
「これは?」
マルクスが興味深げに、身を乗り出した。
「右の赤いのが、今の『甘いサツマイモ』です。そして左の白いのが……デンプン用の『甘くないサツマイモ』です」
蓮は説明した。サツマイモには品種がある。糖度が高く、ねっとりとした食感で菓子に向くもの。対して、糖度は低いがデンプン質が多く、粉っぽい食感のもの。 蓮は、昨晩、「写実の書」からデンプン用品種の白い種芋を取り寄せていたのだ。
「この白い芋は、焼いてもそれほど甘くなりません。甘味として貴族の舌を満足させるほどでは、ないでしょう。ですが、粉にしたり、薄く切って雑炊に入れたりして腹を満たすには十分です。そして何より――痩せた土地での収穫量は、こちらの紅い芋より多い」
蓮はマルクスの目を真っ直ぐに見つめた。正確に言えば、白くて甘いサツマイモの品種も存在する。しかしそれは話をややこしくするだけだから、マルクスに説明する気はない、写実の書から取り寄せる気もない。
「提案します。 紅い芋は『嗜好品種』として、甘味税の対象にしてください。贅沢品扱いで構いません。その代わり――この白い芋は『救貧品種』として、引き続き非課税として認めてください」
マルクスは椅子から立ち上がり、二つの芋を順に手に取った。 紅い芋の滑らかな感触。白い芋の粗野な手触り。
「……見た目で明確に区別がつく。用途も分かれる、か。だが、赤い芋が高値で売れるとなれば、農民たちはこぞって赤い芋を作るのではないかね?」
「はい。その可能性はあります。ですが、白い芋は収穫量が多い。また、葉や茎がよく茂るので家畜の餌になります。それに、貧しい人にとって必要なのは『甘さ』よりも『安くて腹いっぱいになること』ですから、『質より量』で生きる農家は白を作ります。」
「白い芋を赤く染めて高値で売ろうとする、不埒者が出ないとも限らないが?」
「芋を切ってみれば、色の違いで分かります。赤い芋は断面が黄色で、白い芋は断面も白です。それに――」
蓮は付け加えた。
「不正な商品を取り締まるのは、そもそもお役所の仕事のはずです」
長い沈黙の後、マルクスは微かに口角を上げた。それは、蓮が見た初めての、彼の「納得」の表情だった。
「……よかろう」
彼、羊皮紙に素早くペンを走らせた。カリカリという羽ペンの音が、冷たい部屋に響く。
「紅は贅沢、白は救済。実に分かりやすい線引きだ。採用しよう」
◆
徴税庁を出ると、外は薄暗くなっていた。空からは白い雪がちらつき始め、石畳をうっすらと染めている。吐く息は白く、一瞬で凍りつきそうだ。
官舎への帰り道、蓮は懐に入れていた焼き芋を半分に割った。湯気と共に甘い香りが立ち上り、周囲の冷気を一瞬だけ和らげる。 彼はその片方を、隣を歩くエリシアに手渡した。
「……これで、焼き芋は値上がりしますね」
エリシアが、芋の熱さを手袋越しに確かめながら、少し寂しそうに言う。
「うん。でも、庶民の手が届かないほどにはならないよう、ガストンたちと調整するよ。その代わり、お腹を空かせた人には、白い芋が安く出回るようになる」
蓮は、自分の手にある紅い芋を見つめた。鮮やかな紅色。人を幸せにする甘さ。だが、それゆえに線を引かれた芋。
「どっちも、立派な芋なんだけどな。人間が勝手に『贅沢』だの『貧乏』だのって線を引いて……芋に申し訳ないよ」
雪が強くなってきた。エリシアは、熱々の芋を一口食べ、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、冬の寒さを忘れさせるほど温かかった。
「でも、藤村殿が線を引いてくれたおかげで、この甘さも、誰かの命も、両方守られたんですよ」
雪の中、二人は白い息を吐きながら、甘い芋を噛み締めた。 パリッとした焼き芋の皮が香ばしい。だがそれは、少しだけほろ苦い大人の味がした。




