◆第33話「泡の向こうの本音」
グスタフの醸造所は、夜になると昼間とは別の顔を見せる。昼は汗と麦と芋の匂いが支配する仕事場だが、夜は、灯りの下で静かに酒を味わう場所になる。
「……まあ、とりあえずだ」
グスタフがそう言って、木の卓に三つの杯を並べた。中身は、まだ正式にはどこにも出せないジャガイモエール。試作樽の、さらに端の部分だ。
「少しだけだぞ。今日は“仕事”じゃねえ」
蓮、エリシア、リオネルの三人は顔を見合わせ、頷いた。
◆
最初に口をつけたのはエリシアだった。
「……軽いですね」
「だろ?」
グスタフが笑う。
「腹に重くならない。兵士向けにいいと思ったが……」
「庶民向けですね」
蓮が即座に言った。
「仕事終わりに一杯、って感じです。これ」
リオネルは少し遅れて飲み、眉をひそめた。
「……発酵は穏やかですね。まだ糖が多い。もっと発酵させてから蒸留すれば、かなり効率が良いと思います」
その一言で、空気がわずかに揺れた。
◆
「ちょっと待ってください」
蓮が杯を置く。
「これ、蒸留に回しちゃうんですか?」
「ええ」
リオネルは当然のように頷く。
「医務室では、まだ薬用アルコールが足りません。今ある量は、傷の消毒と薬草のエキスの抽出で消えてしまう」
「でも」
蓮は身を乗り出した。
「これは“飲める酒”ですよ。しかも安い。一番求めてるのは、庶民です」
エリシアが静かに首を振った。
「庶民の中でも、まず救貧院です」
「エリシア?」
「お腹を満たす食べ物も、温める酒も、最初に必要なのは――」
「信仰の話になりますよね、それ」
蓮の声が少しだけ強くなる。
◆
グスタフは、黙って杯を拭いていたが、口は挟まない。
「これはマーケティングの常識です」
蓮は続けた。
「いちばん需要があるところに流せば、それは自然に広がる。そうすれば、結果的に多くの人が救われる」
「でも」
エリシアは杯を胸の前で持ったまま言った。
「“結果的に”ではなく、“意図的に”救うべき人がいます」
「それは分かってます」
蓮は髪をかき上げる。
「でも、救貧院だけに回してたら、広がらない」
「広がらなくてもいい場合もあります」
エリシアの声は柔らかいが、譲らない。
◆
「……二人とも」
リオネルが口を開いた。
「どちらも、これを酒として考えている」
二人が彼を見る。
「私は、これは“薬の材料”だと思っています」
「またそれですか」
蓮が苦笑する。
「酔うための酒は、後からでもいい」
リオネルは珍しく感情を滲ませた。
「今は、命を守る用途が先です」
「でも、蒸留したら」
蓮は言った。
「酒としては飲めなくなるじゃないですか。処方箋がいりますよね」
「ええ、飲めなくなります」
リオネルは頷く。
「だからこそ、管理できる。そうでしょう?」
◆
一瞬、沈黙。
エリシアが小さく息を吐いた。
「……三人とも、同じものを見て、違うものを考えているのですね」
「そうみたいですね」
蓮は苦笑した。
「悪いことじゃない」
グスタフが初めて口を開いた。
「酔って本音が出ただけだ」
彼は三人を見回す。
「どれも、間違っちゃいねえ。問題は――」
「順番、ですね」
エリシアが言った。
◆
杯の中身は、いつの間にか空になっていた。
「……今日はここまでにしましょう」
エリシアが立ち上がる。
「酔って決める話ではありません」
「同意です」
リオネルも頷いた。
蓮は少し照れたように笑った。
「……すみません。久しぶりに、普通の会話だった気がして」
「ええ」
エリシアも微笑む。
「いつもは、記録と制度と神と税の話ばかりでしたから」
リオネルが話をまとめる。
「ジャガイモが十分に生産されるようになれば、どこを優先するかを考える必要はなくなるでしょう。そういう意味では、あまり重大な問題ではありません」
◆
三人が醸造所を出ると、夜風が火照った頬を冷ました。ジャガイモエールは、まだ行き先を決めていない。庶民か、救貧院か、医務室か。泡は消えたが、本音は、しばらく残っていた。
だが少なくとも――
それを巡って、真剣に言い合える関係が、ここにはあった。




