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◆第33話「泡の向こうの本音」

 グスタフの醸造所は、夜になると昼間とは別の顔を見せる。昼は汗と麦と芋の匂いが支配する仕事場だが、夜は、灯りの下で静かに酒を味わう場所になる。


「……まあ、とりあえずだ」


 グスタフがそう言って、木の卓に三つの杯を並べた。中身は、まだ正式にはどこにも出せないジャガイモエール。試作樽の、さらに端の部分だ。


「少しだけだぞ。今日は“仕事”じゃねえ」


 蓮、エリシア、リオネルの三人は顔を見合わせ、頷いた。



 最初に口をつけたのはエリシアだった。


「……軽いですね」

「だろ?」

 グスタフが笑う。

「腹に重くならない。兵士向けにいいと思ったが……」


「庶民向けですね」

 蓮が即座に言った。

「仕事終わりに一杯、って感じです。これ」


 リオネルは少し遅れて飲み、眉をひそめた。

「……発酵は穏やかですね。まだ糖が多い。もっと発酵させてから蒸留すれば、かなり効率が良いと思います」


 その一言で、空気がわずかに揺れた。



「ちょっと待ってください」

 蓮が杯を置く。

「これ、蒸留に回しちゃうんですか?」


「ええ」

 リオネルは当然のように頷く。

「医務室では、まだ薬用アルコールが足りません。今ある量は、傷の消毒と薬草のエキスの抽出で消えてしまう」


「でも」

 蓮は身を乗り出した。

「これは“飲める酒”ですよ。しかも安い。一番求めてるのは、庶民です」


 エリシアが静かに首を振った。

「庶民の中でも、まず救貧院です」

「エリシア?」

「お腹を満たす食べ物も、温める酒も、最初に必要なのは――」


「信仰の話になりますよね、それ」

 蓮の声が少しだけ強くなる。



 グスタフは、黙って杯を拭いていたが、口は挟まない。


「これはマーケティングの常識です」

 蓮は続けた。

「いちばん需要があるところに流せば、それは自然に広がる。そうすれば、結果的に多くの人が救われる」


「でも」

 エリシアは杯を胸の前で持ったまま言った。

「“結果的に”ではなく、“意図的に”救うべき人がいます」


「それは分かってます」

 蓮は髪をかき上げる。

「でも、救貧院だけに回してたら、広がらない」


「広がらなくてもいい場合もあります」

 エリシアの声は柔らかいが、譲らない。



「……二人とも」

 リオネルが口を開いた。

「どちらも、これを酒として考えている」


 二人が彼を見る。


「私は、これは“薬の材料”だと思っています」

「またそれですか」

 蓮が苦笑する。


「酔うための酒は、後からでもいい」

 リオネルは珍しく感情を滲ませた。

「今は、命を守る用途が先です」


「でも、蒸留したら」

 蓮は言った。

「酒としては飲めなくなるじゃないですか。処方箋がいりますよね」


「ええ、飲めなくなります」

 リオネルは頷く。

「だからこそ、管理できる。そうでしょう?」



 一瞬、沈黙。


 エリシアが小さく息を吐いた。


「……三人とも、同じものを見て、違うものを考えているのですね」


「そうみたいですね」

 蓮は苦笑した。


「悪いことじゃない」

 グスタフが初めて口を開いた。

「酔って本音が出ただけだ」


 彼は三人を見回す。


「どれも、間違っちゃいねえ。問題は――」


「順番、ですね」

 エリシアが言った。



 杯の中身は、いつの間にか空になっていた。


「……今日はここまでにしましょう」

 エリシアが立ち上がる。

「酔って決める話ではありません」


「同意です」

 リオネルも頷いた。


 蓮は少し照れたように笑った。

「……すみません。久しぶりに、普通の会話だった気がして」


「ええ」

 エリシアも微笑む。

「いつもは、記録と制度と神と税の話ばかりでしたから」


 リオネルが話をまとめる。

「ジャガイモが十分に生産されるようになれば、どこを優先するかを考える必要はなくなるでしょう。そういう意味では、あまり重大な問題ではありません」



 三人が醸造所を出ると、夜風が火照った頬を冷ました。ジャガイモエールは、まだ行き先を決めていない。庶民か、救貧院か、医務室か。泡は消えたが、本音は、しばらく残っていた。


 だが少なくとも――

 それを巡って、真剣に言い合える関係が、ここにはあった。



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