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◆第31話「修道院蒸留所、動き出す」

 修道院の裏庭にある石造りの建物は、もともと「静修用倉庫」と呼ばれていた。

 外見は質素だが、中に入ると空気が違う。微かに薬草とアルコールの混じった匂いが漂い、壁際には銅製の器具が整然と並んでいる。


「……やはり、残っていましたね」


 リオネルは安堵したように息をついた。蓮は目を丸くして、銅製の釜と蛇管を見つめている。


「これが……蒸留器?」


「はい。修道院では古くから、薬酒や精製水を作るために使われてきました。向きは“医療目的のみ”。ですが、実際には酒と紙一重です」


 リオネルの声は抑えめだったが、確信に満ちていた。



 修道院長代理のマティアス修道士は、二人を前にして静かに頷いた。

「神官団としては、酒が世俗の欲と結びつくことを嫌ってきた。

 だが同時に、酒が“薬”であった歴史も否定できない」


 彼は蓮に視線を向ける。

「藤村殿。あなたのジャガイモは、飢えを救う作物だ。そして、あなたが考える“ジャガイモエール”は……確かに安価すぎる」


 その言葉に、蓮は一瞬身構えたが、マティアスは続けた。

「だからこそ、だ。世俗の酒としてではなく、医療用の蒸留酒として扱うという道がある」


「……蒸留することで、神聖な用途に使うことができると?」


「ええ。発酵した酒を蒸留し、度数と成分を管理する。それは嗜好品ではなく、処方に基づく薬となる。もともと我々の考えの中には、醸造酒は腐りかけたものからできるもの、醸造はそこから神聖なる酒――スピリッツを得るというものがあるのです」


 リオネルが一歩前に出た。

「実際、蒸留酒は外科処置の消毒、鎮痛、保存薬の溶媒として極めて有用です。修道院の医務室でも、常に不足しています」



 その日の午後、蒸留器は久しぶりに火を入れられた。銅釜の下で静かに炎が揺れ、蛇管に冷水が流される。原料は、グスタフが仕込んだ試作ジャガイモエール。まだ市場にも出ていない、ごく少量のものだった。


「最初に出る部分は捨てます。揮発性の高い成分が多く、薬には向きません」


 リオネルの説明に、蓮は真剣に頷く。

(蒸留って、ただ“強い酒を作る”技術じゃないんだよな……)


 やがて、透明な液体が、ぽたり、ぽたりと滴り始めた。

「……これが」


「はい。度数は高いですが、適度に希釈すれば消毒や内服に使えます」


 マティアス修道士は、その一滴をガラス瓶に受けながら静かに言った。


「これが“事実”だ。制度は、後から追いつけばよい」


 ジャガイモは、

 エールとなり、

 そして今、医薬となりつつある。


 蓮は蒸留器を見つめながら、小さく息を吐いた。

「……また、ややこしいところに踏み込みましたね」


 リオネルは苦笑した。

「ええ。でも――戻れないところまで来た、ということでもあります」


 銅釜の中で、静かに液体が沸いている。それは、制度よりも先に動き出した“現実”の音だった。



 数日後、修道院内の医務室で、その蒸留酒は実際に使われた。小さな切創の消毒に。また調剤室では、様々な薬草を蒸留酒に溶かし込んだ薬が作られ始めている。そのひとつが、腹痛を訴える巡礼者への微量投与された。効果は、明らかだった。


「……効いている」

 老医師が低く呟いた。

「これは、酒ではない。確かに、薬だ」


 修道院がジャガイモエールを蒸留し薬を作っているという噂が、静かに外へと漏れ出すのに、時間はかからなかった。税務庁には、まだ何の連絡も来ていない。酒造ギルドも、蒸留酒という言葉には敏感だが、修道院内部の動きまでは正確には掴めていない。だが――現場では、すでに“新しい事実”が生まれていた。

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