◆第29話「修道院への打診」
石造りの修道院は、夏の終わりの陽射しを静かに受け止めていた。高い尖塔の影が中庭に落ち、乾いた風が薬草棚を揺らしている。ここは王都近郊にある、医療と教育で知られた修道院だった。
蓮は、その門の前に立っていた。
「……まさか、ここに来ることになるとはな」
隣にはエリシア、少し後ろに見習い魔道士のリオネルがいる。今回は公式な訪問だ。審問官ヴァレリオの名で発行された紹介状もある。門番に名を告げると、三人はほどなくして修道院長代理――薬師長でもある老修道士のもとへ案内された。
◆
「藤村蓮殿。あなたの名は、最近よく耳にします」
白髭を蓄えた老修道士は、穏やかながら油断のない目をしていた。机の上には薬草標本と分厚い写本。
「踏込温床、芋類の栽培、そして……例の“ジャガイモエール”」
その言葉に、蓮は小さく息を吐いた。
「噂が早いですね……」
「修道院は、民の病と飢えに関わる話には敏感なのです」
老修道士はそう言ってから、視線を横にやった。
「そして――こちらは、ドミニクス神官だ」
その名を聞いた瞬間、空気がわずかに張りつめた。黒衣の神官ドミニクス。かつて蓮の百科事典を「邪神の書」とまで疑った人物である。
「……久しぶりだな、藤村殿」
鋭い眼光は健在だが、以前ほどの敵意は感じられなかった。
「祝福の儀の件では、結果として我らの懸念は杞憂に終わった。その点については、認めよう」
それは、ドミニクスなりの最大限の譲歩だった。
◆
「本日の用件を聞こう」
老修道士が促す。蓮は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「本日は、酒――正確には“蒸留酒”について、ご相談に参りました」
「蒸留……?」
修道士たちの間に、ざわりとした反応が走る。リオネルが一歩進み、補足する。
「修道院には、既に蒸留設備がありますよね。香油や薬用アルコールを作るための」
老修道士は静かに頷いた。
「確かにある。だが、それは医療用だ」
「はい。その点こそが、今回の話の核心です」
蓮は言葉を選びながら続けた。
「ジャガイモエールを、そのまま酒として流通させれば、必ず税と市場の問題が起こります。ですが――」
彼は、はっきりと言った。
「蒸留し、医薬品として扱うのであれば、話は別です」
◆
一瞬、沈黙。
「……医薬品、だと?」
ドミニクスが眉をひそめる。
「蒸留酒は、消毒、鎮痛、抽出溶媒として用いられます。我々の世界でも、修道院が医薬として管理してきた歴史があります」
蓮は続けた。
「原料が麦であれ、ジャガイモであれ、ブドウであれ、“薬として必要な純度のアルコール”を作るという点では同じです」
老修道士は、ゆっくりと指を組んだ。
「……つまり、修道院が管理し、処方箋のもとでのみ用いる蒸留酒を作る、と?」
「はい。少なくとも当面は、一般市場には出しません」
それは、王国と酒造ギルドの双方にとっても、刺激を最小限に抑える提案だった。
◆
「だが、問題がある」
ドミニクスが口を開く。
「蒸留とは、酒の“強化”だ。神は節度を重んじるが、蒸留酒は酒を推奨する形にならぬか?」
蓮は、すぐに答えた。
「だからこそ、修道院の管理が必要なのです」
エリシアが静かに補足する。
「民間に任せれば、いずれ密造と乱用が広がります。修道院が管理することで、“酒ではなく薬”として位置づけられます」
ドミニクスは、しばらく黙り込んだ。
◆
「……藤村殿」
やがて彼は言った。
「あなたは、酒を広めたいのか。それとも――秩序を守りたいのか」
蓮は、まっすぐに答えた。
「人が生き延びるための選択肢を、増やしたいだけです」
「……」
「酒は、時に人を堕落させます。でも、医薬としてのアルコールは、人を救います。その線引きを、僕一人ではできません」
だから、と蓮は頭を下げた。
「修道院のお力を、お借りしたいのです」
◆
長い沈黙ののち、老修道士が口を開いた。
「すぐに答えは出せぬ。だが――検討する価値はある」
ドミニクスも、静かに頷いた。
「少なくとも…… 無秩序な流通よりは、よほどましだ」
その言葉に、蓮は胸の奥で、ようやく息をついた。
こうして――
蒸留酒という“新しい火種”は、修道院という静かな炉に、そっと置かれた。それが、王国の酒と税の制度をやがて根底から変えることになるとは、まだ誰も、はっきりとは理解していなかった。




