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◆第29話「修道院への打診」

 石造りの修道院は、夏の終わりの陽射しを静かに受け止めていた。高い尖塔の影が中庭に落ち、乾いた風が薬草棚を揺らしている。ここは王都近郊にある、医療と教育で知られた修道院だった。


 蓮は、その門の前に立っていた。


「……まさか、ここに来ることになるとはな」


 隣にはエリシア、少し後ろに見習い魔道士のリオネルがいる。今回は公式な訪問だ。審問官ヴァレリオの名で発行された紹介状もある。門番に名を告げると、三人はほどなくして修道院長代理――薬師長でもある老修道士のもとへ案内された。



「藤村蓮殿。あなたの名は、最近よく耳にします」

 白髭を蓄えた老修道士は、穏やかながら油断のない目をしていた。机の上には薬草標本と分厚い写本。

「踏込温床、芋類の栽培、そして……例の“ジャガイモエール”」


 その言葉に、蓮は小さく息を吐いた。

「噂が早いですね……」


「修道院は、民の病と飢えに関わる話には敏感なのです」

 老修道士はそう言ってから、視線を横にやった。


「そして――こちらは、ドミニクス神官だ」


 その名を聞いた瞬間、空気がわずかに張りつめた。黒衣の神官ドミニクス。かつて蓮の百科事典を「邪神の書」とまで疑った人物である。


「……久しぶりだな、藤村殿」

 鋭い眼光は健在だが、以前ほどの敵意は感じられなかった。

「祝福の儀の件では、結果として我らの懸念は杞憂に終わった。その点については、認めよう」


 それは、ドミニクスなりの最大限の譲歩だった。



「本日の用件を聞こう」

 老修道士が促す。蓮は一歩前に出て、深く頭を下げた。

「本日は、酒――正確には“蒸留酒”について、ご相談に参りました」


「蒸留……?」


 修道士たちの間に、ざわりとした反応が走る。リオネルが一歩進み、補足する。

「修道院には、既に蒸留設備がありますよね。香油や薬用アルコールを作るための」


 老修道士は静かに頷いた。

「確かにある。だが、それは医療用だ」


「はい。その点こそが、今回の話の核心です」


 蓮は言葉を選びながら続けた。

「ジャガイモエールを、そのまま酒として流通させれば、必ず税と市場の問題が起こります。ですが――」

 彼は、はっきりと言った。


「蒸留し、医薬品として扱うのであれば、話は別です」



 一瞬、沈黙。


「……医薬品、だと?」

 ドミニクスが眉をひそめる。


「蒸留酒は、消毒、鎮痛、抽出溶媒として用いられます。我々の世界でも、修道院が医薬として管理してきた歴史があります」


 蓮は続けた。

「原料が麦であれ、ジャガイモであれ、ブドウであれ、“薬として必要な純度のアルコール”を作るという点では同じです」


 老修道士は、ゆっくりと指を組んだ。

「……つまり、修道院が管理し、処方箋のもとでのみ用いる蒸留酒を作る、と?」


「はい。少なくとも当面は、一般市場には出しません」


 それは、王国と酒造ギルドの双方にとっても、刺激を最小限に抑える提案だった。



「だが、問題がある」


 ドミニクスが口を開く。

「蒸留とは、酒の“強化”だ。神は節度を重んじるが、蒸留酒は酒を推奨する形にならぬか?」


 蓮は、すぐに答えた。

「だからこそ、修道院の管理が必要なのです」


 エリシアが静かに補足する。

「民間に任せれば、いずれ密造と乱用が広がります。修道院が管理することで、“酒ではなく薬”として位置づけられます」


 ドミニクスは、しばらく黙り込んだ。



「……藤村殿」


 やがて彼は言った。

「あなたは、酒を広めたいのか。それとも――秩序を守りたいのか」


 蓮は、まっすぐに答えた。

「人が生き延びるための選択肢を、増やしたいだけです」

「……」

「酒は、時に人を堕落させます。でも、医薬としてのアルコールは、人を救います。その線引きを、僕一人ではできません」


 だから、と蓮は頭を下げた。

「修道院のお力を、お借りしたいのです」



 長い沈黙ののち、老修道士が口を開いた。

「すぐに答えは出せぬ。だが――検討する価値はある」


 ドミニクスも、静かに頷いた。

「少なくとも…… 無秩序な流通よりは、よほどましだ」


 その言葉に、蓮は胸の奥で、ようやく息をついた。


 こうして――

 蒸留酒という“新しい火種”は、修道院という静かな炉に、そっと置かれた。それが、王国の酒と税の制度をやがて根底から変えることになるとは、まだ誰も、はっきりとは理解していなかった。

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