◆第28話「医薬品」
九月に入ったとはいえ、昼間の陽射しはまだ夏の名残をとどめていた。
だが、朝夕の空気にははっきりとした変化がある。畑の縁に立つと、土の匂いがどこか乾き、風が涼しい。
秋ジャガイモの植え付けが一段落した日の夕方、蓮は官舎の作業机に向かい、帳面を広げていた。書かれているのは畑の記録ではない。ここ数週間で起きた出来事――ジャガイモエールを巡る動き、ギルドの反発、徴税官マルクスの曖昧な態度、そして修道院からの提案――それらを整理した覚え書きだった。
(……袋小路だな)
修道院が「医療用」としてジャガイモエールを独占生産する案は、確かに一時的な避難策になる。だが、それは同時に、芋とエールが「特別なもの」に閉じ込められることも意味していた。それにもまして蓮の心に引っかかるのは、ジャガイモエールを医療用と言い張るという、場当たり的な措置に対する言いようのないわだかまりだった。
そこへ、控えめなノック音が響いた。
「藤村殿。お時間、よろしいでしょうか」
声の主はリオネルだった。
◆
部屋に入ってきた見習い魔道士は、いつになく緊張した面持ちをしていた。普段なら遠慮がちに視線を泳がせる彼が、今日は珍しく真っ直ぐ蓮を見ている。
「どうしたんだい、リオネル。何かあった?」
「……はい。実は、その……」
言い淀んだあと、彼は意を決したように続けた。
「ジャガイモエールの件で、ひとつ……提案があります」
蓮は背筋を伸ばした。
「提案?」
「ええ。まだ確証はありませんが……理屈としては、成立するはずです」
リオネルは持参した小さな革袋を机に置き、その中から折りたたまれた羊皮紙を取り出した。そこには、簡単な図が描かれている。釜、管、冷却槽――。
「……蒸留器?」
蓮が呟くと、リオネルは小さく頷いた。
「はい。私は魔道士見習いです。錬金術の基礎として蒸留器の扱いについても学びました。実際に使うのは稀ですが…… 修道院には、薬品精製用の蒸留設備があります」
◆
蓮は椅子にもたれ、腕を組んだ。
「待って。リオネル……蒸留って、つまり」
「ええ。エールを――濃縮します」
その言葉は、静かだったが、重かった。
「……それって、蒸留酒だよね」
「はい。ただし」
リオネルはすぐに続ける。
「蒸留されてできた酒精は、この国では“嗜好品”ではなく“医薬品”です」
蓮の目が、わずかに見開かれた。
「修道院では、外傷の消毒、解熱、痛み止めとして、あるいは薬草からエッセンスを抽出するために蒸留酒が使われています。処方箋が必要で、一般には流通しません。嗜好品にならないよう、あえてまずい味の薬草を溶かし込んだりすることもあります」
「……なるほど」
点と点が、ゆっくりと線になっていく感覚があった。
◆
「つまり」
リオネルは言葉を選びながら続ける。
「ジャガイモエールをそのまま売れば“酒”になります。
ですが、それを蒸留し、医薬用途として限定すれば……」
「酒税の枠から、外れる」
蓮がそう言うと、リオネルは深く頷いた。
「はい。少なくとも、現在の税法では。修道院は、酒への課税に長く抵抗してきました。“神に捧げるものを、世俗の貨幣で測るべきではない”という立場です」
「……政治的にも、筋が通ってる」
蓮は苦笑した。
「でも、問題もあるよね」
「もちろんです」
リオネルは即答した。
「蒸留は、技術として“強すぎる”ものですし、扱いを誤れば、危険な酒にもなります」
彼は一瞬、視線を落とした。
「だからこそ……修道院の管理下で、“薬”として限定的に扱う必要があると、思います」
◆
沈黙がしばらくその場を支配した。窓の外では、秋に向かう風が畑を撫でている。人の思惑とは関係なく、季節は進む。
「……リオネル」
蓮は静かに口を開いた。
「君、これを思いついたのは……いつ?」
「実は」
リオネルは照れたように笑った。
「ジャガイモエールの試作が成功したと聞いた夜です。“安い酒”という言葉が、ずっと頭から離れなくて」
「……なるほど」
蓮は深く息を吐いた。
(安い酒は、社会を揺らす。でも、“薬”なら――守られる)
◆
「これは……」
蓮は帳面を閉じた。
「修道院と、マルクスの両方に、話す価値がある案だ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし――」
蓮は真剣な顔で言った。
「これは“逃げ道”であって、解決じゃない。
いずれ、正面から制度を作らなきゃならない」
リオネルは、それでも頷いた。
「それでも……今は、必要な一歩だと思います」
◆
その夜。蓮は一人、官舎の窓辺に立った。畑の向こうに、月が昇っている。
(蒸留……か)
それは、酒を非常に濃くする技術であり、同時に、問題を“別の形に変える”技術でもあった。リオネルの提案は、静かに、しかし確実に、次の局面への扉を開こうとしていた。
――このとき、蓮はまだ知らなかった。この「蒸留」という発想が、巡り巡って、徴税官長マルクスの思考を刺激し、王国の酒税制度そのものを揺さぶることになるとは。




