【グランドフィナーレ】◆最終話「『世界芋類大百科』と、人生を賭けた約束」
それから数日後、静かな夜だった。蓮はまた不思議な夢の中にいた。目の前には、あの『世界芋類大百科』が浮かんでいる。しかし、その文字はいつの間にか変化し、淡い光を放っていた。
「我が役目は終わった」
本から、厳かな、しかしどこか満足げな声が響く。
「この国は今や、世界のどこよりも多様なジャガイモに溢れ、人々は飢餓から救われた。もはや、異界からの召喚は必要ない」
本は蓮に問いかけた。
「藤村蓮よ。報酬として、お前を元の世界へ帰してやろう。その場合、二度とここへは戻れないが、懐かしき日本での、便利で平穏な日々が待っている。……それとも、この泥と借金まみれの国に残るか?」
蓮は迷った。コンビニの明かり、温かい風呂、インターネット、そして家族。それらが無性に恋しい。帰れるなら、帰りたい。しかし、脳裏に浮かぶのは――今、広場でスープをすすっている人々の顔、共に泥にまみれたテオドールやマルクス、自分を慕ってくれる工場の仲間たち。そして何より、隣で共に悩み、笑い、支えてくれたエリシアの姿だった。
「……帰りたい気持ちはある。でも、俺はここでバブルを招いてしまった責任がある。それに、ロミナ地方の領主になることも決めた。まだこの国の未来を見届けたいんだ」
蓮は顔を上げて言った。
「頼みがある。僕が外国で元気に暮らしていることを、日本にいるみんなに伝えさせてもらえないだろうか」
「……よかろう。その誠実さに免じて、最後の奇跡を使おう」
◆
とある食品メーカーのオフィスにて、残業中の社員たち数名がカップ麺を食べている。そのときふと、温かい気配がした…… 皆が夢うつつの気分になり、蓮が泥まみれになってジャガイモを掘り起こしている様子を見たような気がするのだ。
「今のは何だ?」
「何がだ?」
「いや、気のせいかも知れない。ただ、ちょっと安心する夢を見たような気がする」
「藤村のことか?」
「ああ」
「たぶん彼なら大丈夫だよ。そんな気がする。さあ、俺らもあと一仕事頑張ろう。明日は企画会議だ」
そして、同じ夜、日本のとある食卓では、老夫婦が夕食を囲んでいた。皿に盛られているのは、何の変哲もないポテトサラダだ。
「……ん?」
父親が箸を止め、不思議そうな顔で天井を見上げた。
「どうしました、あなた?」
「いや……。今、蓮の声がした気がしてな。『母さんのポテトサラダが一番だ』って」
母親は驚いて、それから優しく微笑んだ。
「まあ。……でも、不思議ね。私も今、あの子が泥だらけの服を着て、大きなカゴいっぱいの野菜を抱えて笑っている夢を見た気がしたの」
それは一瞬の幻だったかもしれない。けれど、二人の胸に残ったのは、寂しさではなく、不思議なほどの「安堵」だった。息子はもう帰らないかもしれない。けれど、どこか遠い空の下で、誰かのために働き、誰かと食卓を囲み、確かに「生きている」。その確信だけが、湯気と共に二人の心を温めていた。
◆
光に包まれた蓮が、次に目を開けた時、そこはソラニアの王都を見下ろす丘の上だった。それは相変わらず、土とジャガイモの匂いがした。
手元の『大百科』を開いてみる。かつて輝いていた文字はただのインクになり、そこには詳細な栽培法や調理法が記されているだけだった。召喚の魔法は、もう発動しない。
「……ただの本になっちまったか。まあ、これからは魔法じゃなくて、知恵で勝負しろってことだな」
蓮は覚悟を決めた生真面目な顔になって、本を鞄にしまった。その重みは、彼が背負うこれからの人生の重みでもあった。
「――蓮!!」
背後から、息を切らせた声がした。振り返ると、エリシアが駆け寄ってくるところだった。彼女の目には涙が溢れている。
「いなくなったと……部屋から消えていたと聞いたわ……! もう、二度と会えないのかと……!」
蓮は彼女に向き直り、優しく微笑んだ。
「ちょっと故郷の夢を見て、心の荷物をまとめてきたんだ。もうどこにも行かないよ」
◆
二人は並んで、夕暮れの王都を見下ろした。街からは炊き出しの煙が上がり、壊れかけた経済を立て直そうとする人々の、ささやかだが力強い活気が伝わってくる。
「大変な道のりになるわよ」
エリシアが涙を拭いて言った。
「借金の返済に、産業の再生……私たちの世代が費やす時間は、あのバブルの宴よりもずっと長くて、地味で、苦しいものになるわ」
「ああ。でも、地盤は固まった」
蓮はエリシアの手をそっと取った。
「俺には農業の知識がある。君には人を導く力がある。そして、この国には死ぬほどたくさんのジャガイモがある」
蓮は、ポケットから小さな指輪を取り出した。それは宝石ではなく、磨き上げられた硬貨に穴を開けて作った、シンプルなものだ。
「エリシア。俺と一緒に、この国の帳簿を黒字にするのを手伝ってくれないか? ……一生をかけて」
エリシアは目を丸くし、やがて涙を浮かべて、花が咲くような笑顔を見せた。
「ええ、喜んで。……でも覚悟してね、工場長。私の管理は、中央銀行の監査よりも厳しいんだから」
二人の笑い声が風に乗る。その足元には、ありふれた、しかし力強く根を張るジャガイモの花が、夕陽に照らされて黄金色に輝いていた。それは投機の対象ではなく、明日への希望の色だった。
物語はここで幕を閉じる。伝説の『召喚の書』は、とある家庭の本棚で、ただのレシピ本として静かに眠り続けているという。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。『異世界イモ政治経済学』は、これで全巻の終わりです。




