◆第23話「暫定措置」
その日の夕刻、王都の西区にそびえる財務局の石造りの建物には、既に大半の明かりが消えていた。窓から漏れる燭台の光はまばらで、帰途につく下級役人たちの足音だけが、冷たい石の廊下に響いている。
だが、最上階の一角――徴税官長マルクスの執務室だけは、まだ仕事の気配に満ちていた。
階段を駆け上がる重い足音。息を切らせた使者が扉を叩く。
「マルクス様、醸造ギルド長ハインリヒ殿が、至急の面会を求めておいでです」
マルクスは羽ペンを置き、眼鏡を外して目頭を押さえた。長い一日だった。だが、予想していなかったわけではない。兵舎から広まった試飲会の噂は、既に彼の耳にも届いていたからだ。
「……通したまえ」
扉が開くと、ハインリヒが険しい表情で入室した。普段は職人としての誇りを感じさせる堂々とした歩みだが、今日は明らかに違う。肩で息をし、外套の裾には街路の泥が跳ねている。馬車を待たず、自ら走ってきたのだろう。
彼の手には、蝋で封印された羊皮紙の束があった。
「マルクス殿。これを」
ハインリヒは、陳情書を机の上に置いた。ずしり、と重い音がする。それは紙の重さではなく、そこに込められた危機感の重さだった。
「ギルド緊急総会の総意です。ジャガイモを用いた発酵飲料――いわゆる『ジャガイモエール』の即時販売停止を求めます」
マルクスは封を切らず、ハインリヒの目を見た。窓の外では、夕闇が王都を包み始めている。遠くで鐘が鳴り、一日の終わりを告げていた。
「……座られよ、ハインリヒ殿」
だがハインリヒは座らなかった。両手を机につき、身を乗り出す。
「座っている場合ではありません。このまま放置すれば、市場が崩壊します」
その声には、怒りよりも――恐怖が混じっていた。職人としての矜持を守ろうとする者が、初めて「負ける」という未来を見たときの、震えるような恐怖。マルクスは、長年の官僚生活で培った冷静さを保ちながらも、目の前の男の切迫を軽んじることはしなかった。ハインリヒは扇動家ではない。堅実な職人だ。その男がここまで動揺しているということは――
「……ギルドとして、どのような影響を予測しておられるのですか」
「半値です」
ハインリヒは吐き捨てるように言った。
「通常のエールの、半値。原料費が安く、税の抜け道がある。兵士たちは既に飛びついています。このまま市場に出れば、我々の酒は誰も買わなくなる」
マルクスは、ゆっくりと指を組んだ。暖炉の火がパチリと爆ぜる。沈黙が、二人の間に重く横たわった。
やがて、マルクスは静かに頷いた。
「……対応を検討しましょう」
その声には、約束と、そして警告が込められていた。
◆
数日後。それは、グスタフの醸造所にとっては、何でもない平日の朝だった。樽の蓋を点検し、発酵の進み具合を確かめ、帳簿に目を通す。ジャガイモエールの樽は、順調すぎるほど順調だった。
「うまくいって特に問題がないってのが、一番問題になるとはな」
グスタフが独り言を漏らした、そのときだった。戸口で、靴音が止まる。
「グスタフ殿」
振り返ると、見覚えのある顔――財務局の下級役人だった。以前、酒税の確認で何度か来たことがある。
「朝から来るとは珍しいな」
「本日は……書面をお届けに」
役人はそう言って、封蝋のされた羊皮紙を差し出した。封印は財務局のもの。だが――
グスタフは、その印章を見て眉をひそめた。
「……大臣直轄じゃないな」
「はい。マルクス徴税官長の名で……“暫定通達”です」
その言い方が、妙に歯切れ悪い。通達は短かった。
『通達
近頃試作されている、ジャガイモを原料に含む発酵飲料について、
当局はその性質および課税区分を精査中である。
精査完了までの間、当該飲料の
・販売
・無償配布
・第三者への譲渡
を差し控えること。
本通達は暫定的措置であり、違反に対する処罰は未定である。
――以上。』
グスタフは、しばらく黙って紙を見つめていた。
「発酵飲料ってか、“酒”とも“酒でない”とも書いてねぇ」
「はい」
役人は視線を逸らす。
「まだ、決まっていないので」
「便利な言い回しだ」
グスタフは鼻で笑った。
「決まってないから、止めろ、か」
役人は何も答えなかった。
◆
ちょうどそのとき、藤村蓮が醸造所に入ってきた。
「おはようございます、グスタフさん……?」
空気の重さに気づき、言葉を止める。
グスタフは、無言で通達を差し出した。蓮は目を走らせ、ゆっくりと息を吐いた。
「……来ましたね」
「来たな」
二人は顔を見合わせる。
「“販売”も“無償配布”も駄目、ですか」
「要するに、誰にも飲ませるなってことだ」
「でも、“試作”は禁止されていない」
蓮が指摘する。
「そこだ」
グスタフは頷いた。
「逃げ道を残している」
◆
役人は、居心地悪そうに咳払いした。
「……念のため、申し上げますが」
「ん?」
「この通達は……“要請”です。
現時点で、罰則はありません」
「だが、逆らえば目をつけられる」
グスタフが即座に言う。
役人は、否定しなかった。
「……上からの判断です」
「“上”ってのは?」
蓮が尋ねる。
役人は一瞬、言葉を選び――
「徴税官長殿が、慎重になっておられます」
その“慎重”という言葉の裏に、誰の声があったのか。グスタフと蓮は、互いに何も言わなかった。




