◆第21話「泡を見ればわかる」
グスタフは、樽の前にしゃがみ込み、じっと表面を見つめていた。
石造りの醸造所は夏の熱気を溜め込み、空気は湿っている。
汗が額から流れ落ちるのも構わず、彼は動かない。
「……来てるな」
低く、独り言のように呟く。
量を増やした二度目の仕込みから三日目。
樽の中では、静かだが確かな動きが始まっていた。
ぷつり。
ぷつり。
小さな泡が、規則正しく浮かんでは消える。
「間違いない……」
グスタフは、長年エールを仕込んできた職人だ。
泡の出方、香りの立ち方、表面の張り――
発酵が“生きている”かどうかは、見れば分かる。
だが、今回の仕込みは――異様だった。
◆
麦芽は、いつもの三分の一。代わりに使ったのは、蒸して潰したジャガイモ。最初に藤村蓮から話を聞いたとき、正直、半信半疑だった。
「ジャガイモとやらで酒? 冗談だろう」
だが、蓮は迷いなく言った。
「麦芽は糖を作るために使うんです。だったら、最初から糖になりやすい原料を使えばいい」
理屈は、通っている。
問題は――本当に酵母が動くか、だった。
結果は、目の前にある。
◆
グスタフは、そっと蓋を開け、香りを確かめた。
「……甘い」
麦芽だけのエールとは違う。
丸みのある、柔らかな甘さ。
鼻を刺すような刺激はなく、どこか素朴だ。
「悪くない。いや……むしろ、飲みやすいかもしれん」
彼は小さな柄杓で、少量をすくい、口に含んだ。舌の上で、泡が弾ける。
「……ほう」
驚きはなかった。納得があった。軽い。だが、薄くはない。腹にすっと落ちる感覚がある。
「兵士向けだな……」
自然と、そう口をついて出た。
◆
グスタフは立ち上がり、醸造所を見回す。ここには、長年積み上げてきた技術がある。麦芽の扱い方、温度管理、樽の癖。
だが――
それらが、否定されたわけではない。
「……使い道が、増えただけだ」
彼はそう結論づけた。芋は、敵ではない。道具だ。
しかも――
安い、強い道具だ。
「これが出回ったら……」
一瞬、胸の奥にざらりとしたものが湧いた。市場。ギルド。税。だが、グスタフは首を振る。
「俺の仕事は、うまい酒を作ることだ」
それだけは、変わらない。
◆
夕方、藤村蓮が醸造所を訪れた。
「どうですか?」
少し緊張した顔で尋ねてくる。
グスタフは、何も言わず、杯を差し出した。
「飲め」
蓮は一口含み、目を見開いた。
「……発酵、ちゃんと来てますね」
「当たり前だ」
グスタフは鼻を鳴らす。
「泡を見りゃ分かる。これは……ちゃんとしたエールだ」
その言葉に、蓮はほっと息を吐いた。
「よかった……」
「だがな」
グスタフは、少し真剣な声になった。
「これは、面倒を呼ぶ酒だぞ」
「……ですよね」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
◆
その夜、グスタフは仕込み帳に、こう書き加えた。
八月某日
ジャガイモ使用の試作エール、発酵良好。
泡、香り、味、いずれも問題なし。
これは“代用品”ではない。
新しい酒だ。
彼はペンを置き、樽を見た。
静かに、だが確実に――
この酒は、世界を揺らす。
泡立つ表面を見つめながら、グスタフは確信していた。
「……嵐が来るな」
だが、職人として、後悔はなかった。良い酒ができた。それだけで、十分だった。
◆
グスタフの「いける」という言葉を聞いて、蓮のマーケターとしての血が騒いだ。商品はできた。次は「市場反応」の確認だ。
「グスタフさん、ここにある樽の分だけでいいので、兵士たちに振る舞ってみませんか?」
「あ? まだ売り物にはできねぇぞ」
「売るんじゃないです。『試作品の感想を聞く』という名目で、タダで配るんです。いわゆる『モニター調査』ですよ」
蓮はすぐに、フライドポテトの常連だった非番の兵士たちを数人、裏口から招き入れた。
「……なんだ、この酒。色が薄いな」
「いいから飲んでみてよ。感想を聞かせて」
兵士たちは半信半疑で口をつける。すると――。
「……うまい!」
「軽いな! 飲みやすい。水代わりにガブガブいけるぞ!」
「これ、いくらになるんだ?」
蓮はニヤリとして、普通のエールの半値くらいかなと囁く。兵士たちの目の色が変わった。
「半額!? おい、樽ごと売ってくれ!」
「次の仕込みはいつだ!?」
その熱狂を見て、蓮は確信を得ると同時に、手帳にメモを取る。 『ターゲット層:兵士、肉体労働者。反応:極めて良好。価格感度:高。――爆発的普及の可能性あり』
しかし、この小さな試飲会での熱狂は、噂となって街を駆け巡り役人を呼び寄せることになるのだった。




