◆第20話「泡立つジャガイモ」
あの恐怖の夜から、三日が経った。
蓮は今、次なる目的を果たすため官舎の門に立ち、深く息を吸っていた。足元には、倉庫から運んできたジャガイモが籠いっぱいに入っている。もう、無限には召喚できない。だからこそ――今あるこの芋を、ひとつも無駄にしてはならない。
「種は尽きる。でも、芋は増える。この矛盾を、力に変える――」
それが、これからの蓮の戦いだった。蓮は籠を持ち上げ、門の外へと歩き出した。
◆
フライドポテトは、すでに庶民の味として定着しつつあった。蓮の次の関心は、自然と"飲み物"へ向いていた。
(主食と保存食、次は……酒だ)
彼がジャガイモを持って向かったのは、宮廷の外れにあるエールの醸造所だった。麦芽の甘い香りと、木樽の湿った匂いが混じる、活気のある場所だ。
「藤村殿といったな? 今日はまた、妙なモノと話を持ってきたな」
迎えたのは、醸造所の親方グスタフ。腕の太い、現場叩き上げの職人である。
「妙、というほどでもないですよ」
蓮は笑いながら言った。
「麦芽に、蒸したジャガイモを混ぜてエールを仕込めないか、と思いまして」
グスタフは一瞬、黙った。
「……ジャガイモを、酒に?」
「はい。デンプンは糖になりますし、麦芽の量を減らせます」
「つまり……」
「安上がりのエールです」
◆
グスタフは腕を組み、天井を見上げた。
「理屈は……分からんでもない。麦芽の糖化力は強い。芋を蒸して潰せば……いけるかもしれん」
「でしょう?」
蓮は少し身を乗り出す。
「味は軽くなると思いますが、その分、庶民向けになります」
「……問題は味より、別のところだな」
「税、ですよね」
グスタフは苦笑した。
「さすが、分かってるじゃないか」
この国では、酒は重要な税収源であり、使用する原料とその量にしたがって課税される。エールならば麦芽の量で税額が決まる。
「麦芽が減れば、税も減る……そう思う役人が出る」
「逆に、芋を“新しい原料”として課税しようとするかもしれない」
「どっちに転んでも、面倒だ」
蓮は頷いた。
「だからこそ、まずは“試作”です。少量で」
◆
数日後。蒸したジャガイモを潰し、麦芽と混ぜた仕込みが始まった。麦芽の酵素がデンプンを糖に変えるスピードは早く、一日あれば十分である。
「……うむ、甘いな」
グスタフが指で掬い、舐める。
「確かに糖ができている」
「これに酵母が働けば、ちゃんと酒になりますよ」
酵母を加えてからの発酵も、順調だった。泡立ちは穏やかだが、確実に進んでいる。1週間後、できあがった最初のエールは、淡い金色。麦芽100%のものより、やや軽い。
「……飲めるな」
グスタフが言った。
「いや、悪くない。腹に残らん分、何杯でもいけそうだ」
「ですよね」
蓮は内心でガッツポーズをした。
◆
――だが、問題はすぐに表面化した。
「ジャガイモを使ったエールだと?」
税務官の声は、冷ややかだった。
「それは、従来のエールとは別物では?」
「……試作品です」
グスタフが慎重に答える。
「別物なら、別の課税が必要だ」
「新しい酒だとすれば、認可もいる。何をどのようにして作っているのか、明らかにしてもらいたい」
話はあっという間に広がった。
「芋を酒にするなど聞いたことがない」
「税を逃れるための抜け道では?」
「祝福された作物を、酒に使うとは不敬では?」
「いや、それは違う。酒は我らの修道院でも作られていて、病人に与える重要な薬でもある。不敬ということにはならない」
醸造所の前に、噂を聞きつけた役人と神官補佐が集まり始める。蓮は、頭を抱えた。
(……来たな。食い物より酒のほうが、面倒ごとが多い)
◆
その夜、官舎でエリシアが記録をまとめながら言った。
「藤村殿……これは、少々厄介かもしれません」
「分かってます」
蓮は苦笑した。
「酒は、文化と税と宗教が全部絡む」
「ですが……」
エリシアは少し声を落とす。
「もしこれが認められれば、麦の不作の年でも酒が造れます」
蓮は、ゆっくり頷いた。
「ええ。だから……引き下がる気はありません」
机の上には、淡く泡立つジャガイモエールの試作品。
それは、安く、軽く、飲みやすい酒だった。
だが同時に――
税と秩序を揺るがす、危険な泡でもあった。
ジャガイモは、ついに食卓だけでなく、酒場と財務台帳にまで入り込もうとしていた。そして蓮は、まだ知らない。この一杯が、次なる争点になることを。




