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◆第19話「編纂者」

 そしてその夜、蓮は熱を出して倒れた。 恐怖が、体を芯から震わせたのだ。それは、泥の中に沈んでいくような感覚だった。熱に浮かされた蓮の意識は、現世と夢の境目をあてもなく彷徨っていた。


 気がつくと、蓮はどこまでも広がる金色の麦畑の中に立っていた。いや、麦だけではない。足元には青々とした芋の葉が茂り、見渡す限りの豊かな実りが地平線まで続いている。そして、目の前に一冊の巨大な本が浮いていた。あの『世界芋類大百科』だ。


(……ああ、これは夢だ)


 蓮はぼんやりとそう理解した。本はひとりでに開き、最初のページ――「序文」のところで止まる。現実の世界では、そこには本の出版経緯や、芋の分類学的な定義が細々と書かれていたはずだ。だが、夢の中の文字は違った。古代の文字のようでありながら、なぜか蓮の脳内に直接意味が流れ込んでくる。


『――この書を手にした、選ばれし者に告げる』


 声が聞こえたわけではない。だが、土の匂いを含んだ風が、そう囁いた気がした。


『我は種を蒔く者であり、実りを編む者なり。この書は、枯渇した大地に新たな恵みをもたらすための“種袋”である』


 文字が光り、蓮の意識を揺さぶる。


『種袋は、無限ではない。袋から取り出した種は、地に還り、芽吹き、そして増える。それがことわりである』


 蓮は、動かない口で必死に問いかけようとした。  ――あなたは誰ですか? 農耕の神ですか? なぜ、僕を選んだんですか? なぜ回数制限なんて……!


 その問いに答えるように、文章が続いた。


『汝、芋を愛する者よ。種を用意する役目はこの書の編纂者たる我にあり。だが、それを育て、守り、次代へ繋ぐ役目は、この書の使い手たる汝にある。種は尽きる。あとは汝が育てよ。ゆめゆめ、書に依存することなかれ。土の力を信じよ。 汝自身の力を信じよ。汝がもとの世に戻るとき、それは汝が真の耕し手となった証左なり』


 そこで、金色の光が視界を埋め尽くした。


「……っ、はぁっ!?」


 蓮はガバりと上半身を起こした。背中は汗でぐっしょりと濡れ、激しい動悸が胸を打っている。見慣れた官舎の天井。窓の外はまだ薄暗い明け方だ。


「……夢、か……」


 荒い息を整えながら、蓮は額の汗をぬぐった。熱は下がっているようだ。だが、あの夢の鮮烈なイメージ――「編纂者」と名乗る何者かの厳かな意志は、強烈に焼き付いていた。


(種は尽きる。あとは汝が育てよ、か……)

(それにしても、もとの世に、戻るとき……って?)


 その言葉が、頭の中で反響していた。帰れるのか? この役目を果たせば、あの日本へ?  古書店で本を受け取り、公園で倒れた、あの日常へ――。


 ここで蓮は不思議な気持ちになった。この世界に来てから今まで、元の世界に帰ることを考えたことはあまりない。まるで、それが当たり前という感じで、この世界に適応していた。なぜ? 蓮はそれに気がついて愕然とした。今の自分は、この世界に身寄りもなく一人ぼっちではないか。


 蓮はふらつく足で机に向かった。そこには、昨夜のまま『世界芋類大百科』が置かれている。恐る恐る、表紙を開く。夢があれほどリアルだったのだ。もしかしたら、序文のページに何か変化が起きているかもしれない。


「……あ」


 蓮の声が漏れた。序文のページ。そこにあったはずの、植物学的な長々とした解説は消えていた。かといって、夢で見たような神々しいメッセージが書かれていたわけでもない。そこには、現代のビジネス文書のような明朝体で、事務的な文章が並んでいた。


【重要事項:初期リソース提供の終了とフェーズ移行について】


 『世界芋類大百科』(以下、本書)は、未開拓市場における作物の「初期投資シードマネー」としてのサンプル提供を目的としたスターターキットです。本書から提供される種芋リソースは無限ではありません。あくまで、現地環境への適応テストおよび初期普及のための「種銭」です。


 ユーザー様におかれましては、本書に依存した供給体制から脱却し、速やかに「現地生産体制ローカライズ」の構築へ移行してください。本書の在庫ページが尽きた時点で、本プロジェクトの全権限と責任は、貴殿へ完全に移譲ハンドオーバーされます。


 そして、文章の最後は、手書きのような柔らかいフォントで、こう締めくくられていた。


『この書を、芋を愛し、種を蒔き育むすべての人々のために捧げます。うまく活用してください。』


「……なんだよ、これ」


 蓮は乾いた笑いを漏らした。 夢の中ではあんなに神々しく「汝、選ばれし者よ」とか言っておきながら、なんと事務的な文章か。


 もし、ここに『汝に光あれ』とか『世界を救え』とか書かれていたら、まだ「選ばれた勇者」のような気分になれたかもしれない。だが、夢の中ではあんなに意味深なことを言っておきながら、現実のメモはこれだ。まるで『本社からの初期投資は終わった。あとは現地法人で黒字化しろ』と、突き放されたような、冷たい信頼。要約すればそういうことだ。


 蓮は指先で締めくくりの文章をなぞった。最初は皮肉かと思ったが、冷えた頭でその意味を噛み砕くうちに、ふと気づく。


「『人々』って……複数形だな」


 今、この官舎の外には誰がいる?  記録をつけてくれるエリシア、魔法で協力してくれるリオネル、職人のグスタフ、そして畑を耕してくれる農民たち。種を出すのは僕の役目だ。でも、育てて、守って、次代へ繋ぐのは――僕一人じゃ不可能なんだ。


「……了解しました、編纂者殿。仲間たちとやってやりますよ、現地生産ローカライズを」


 蓮は本を閉じた。表紙の重みが、今までとは違った意味で重く、しかし心地よく感じられた。奇跡の補充には上限がある。ここから先は「現場責任者」である蓮の腕の見せどころだ。


 窓の外に広がる畑には、霜が降りている。あの中に眠る芋たちが、この世界に残された「最後の希望」であり、蓮に託された「プロジェクト」そのものだ。


(絶対に、成功させる。……それが、僕の仕事だ)


 恐怖は消えていない。だが、腹は据わった。蓮は百科事典を机の引き出しの奥深くにしまい込み、鍵をかけた。真の戦いが――孤独な英雄としてではなく、一人の実務家としての戦いが、ここから始まろうとしていた。

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― 新着の感想 ―
おお。 初期投資から利益拡大へと事業の形が変わるフェーズですやん。 急に投げられても、やったろうやないかい、となれる蓮は、 実は、実業家としてとんでもなく優秀じゃないか? と私は思う。 さあ、こっか…
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