◆第16話「ジャガイモ管理マニュアルと祝福の儀」
祝福の儀が延期されてから三日後。
神殿の裏にある小さな聴取室に、重い沈黙が落ちていた。
俯いたまま立っているのは、一人の農夫だった。
年の頃は四十前後。日に焼けた顔と、ごつごつした手。蓮は彼を覚えていた。収穫の日、誰よりも熱心にジャガイモを掘っていた男だ。
「……私です」
絞り出すような声だった。
「麻袋を……持ち出したのは……私です」
室内の空気が一瞬、張りつめる。
ヴァレリオ、ドミニクス、医師、エリシア、そして蓮。全員の視線が男に集まった。
「なぜ、持ち出した」
ヴァレリオが静かに問う。
農夫は拳を握りしめた。
「うちの子が……どうしても食べてみたいと……。祝福前だとは、分かっていました。ですが……」
「盗みか?」
「……はい」
その言葉に、農夫は深く頭を下げた。
「罰は……覚悟しております。ただ……」
彼は声を震わせながら続けた。
「芋が、あまりに立派で……。あんなにたくさん取れて……。あれを見てしまったら……」
蓮は、思わず歯を食いしばった。
(……それほど、魅力的に見えたんだ)
ドミニクスが冷たく言う。
「それで、どのように保管した」
農夫は顔を伏せたまま答えた。
「家に持ち帰り……納屋の外に置きました。夜は涼しかったので……そのまま……二、三日、いや、もしかしたらもっと長く……」
蓮の胸が沈む。
「屋外に……」
医師が眉をひそめる。
「日光は?」
「……当たっていました」
それ以上、聞く必要はなかった。
◆
蓮は一歩前に出た。
「……その袋の芋は、緑色に変わっていませんでしたか」
農夫は、ゆっくり頷いた。
「……はい。少し……」
蓮は目を閉じ、深く息を吸った。
「それが原因です」
室内がざわめく。
「藤村殿」
ヴァレリオが言う。
「改めて説明せよ」
蓮は頷いた。
「ジャガイモは、光に当たると、身を守るために苦味と毒を作ります。それは“芽”や“緑色になった部分”に集中する。屋外に出しっぱなしだったことで、それが増えたんです」
ここで医師が、爆弾発言をした。
「緑色になっていないジャガイモを、囚人たちに食べさせてみました。体調を崩したものは一人もおりません」
会議室が騒然となっった。
「いったい、誰がそんな許可を」
ドミニクスは顔をしかめる。
「私だ」
ヴァレリオが答える。全員の視線が、長卓の奥――審問官ヴァレリオに集まる。彼は眉一つ動かさず、冷ややかな瞳でドミニクスを見返した。
「私が命じて、刑期短縮を条件に志願者を募らせた。もし、ひとりでも倒れていれば、この会議は存在しない。私はその時点で本件の処置を終え、感染源を焼却していた」
「なっ……正気か!? 万が一、死者が出ていたら……!」
「死者が出る可能性は低いと判断した。なぜなら――」
ヴァレリオは、手元の書類を指先で叩いた。それは、以前蓮が提出していた栽培記録だ。
「藤村蓮の報告書には、こうある。『有毒な部分は目で見て判別でき、除去可能である』とな。ならば、それを検証するのが最も早い。民全体が飢えるリスクと、数名の囚人が腹を壊すリスク。天秤にかけるまでもない。結果として、藤村蓮の報告は正しかった。この毒は管理可能だ。」
室内に重い沈黙が落ちる。蓮は背筋が寒くなるのを感じた。この男は、蓮の提出した知識を信頼したのではない。知識を“利用”し、冷徹に“検証”したのだ。
「ですから……」
医師が言葉を継ぐ。
「適切に保管されていれば、問題は起きなかったと考えられます」
「そのとおりです」
思わぬ話の流れに驚きつつも、蓮は静かに答えた。
「これは“作物の罪”ではありません。“扱い方”の問題です」
ドミニクスが腕を組んだ。
「……だが、その扱い方を、民は知らなかった」
「だからこそ」
蓮は視線を上げた。
「僕は、これを作りました」
蓮は持っていた包みを開き、数枚の羊皮紙を机に並べた。
文字と簡単な図。芋の絵、芽の位置、緑化した部分に×印。倉庫の断面図、麻袋の置き方。
「ジャガイモの栽培と保管、調理の手引きです」
「……手引き?」
ドミニクスが怪訝な顔をする。
「誰が見ても分かるようにしました」
蓮は続けた。
「・日光に当てない
・芽は必ず取る
・緑色になった芋は食べない
・冷暗所で保管する
・皮を厚めに剥く
この五つを守れば、安全です」
エリシアがすぐに口を開いた。
「記録官として確認しました。この内容は、すでに医師の見解とも一致しています」
医師が頷く。
「理にかなっている。予防として十分だ」
ドミニクスは黙って紙を見つめていた。
やがて、低く言った。
「……この手引きは、誰に渡すつもりだ」
蓮は迷わず答えた。
「農民だけではありません。調理をする者、配給を扱う者、すべてです。市場に出すなら、説明を義務にする。祝福と同時に、これを“教え”として広めたい」
その言葉に、室内が静まる。
「祝福を……条件付きで願うということか」
ヴァレリオが言う。
「はい」
蓮は深く頭を下げた。
「祝福の儀の場で、神官の言葉と共に、この手引きを読み上げてください。
“神に許された作物は、正しく扱われてこそ恵みとなる”――そう伝えてほしい」
ドミニクスの眉が、わずかに動いた。
「……神の名を借りて、人の手順を広める、と」
「いいえ」
蓮は顔を上げた。
「神の恵みを、人が無駄にしないためです」
エリシアが静かに言った。
「これは、対立ではありません。補完です」
長い沈黙のあと、ヴァレリオが立ち上がった。
「決めていいかな、ドミニクス殿」
その声は、重く、しかし揺るがなかった。
「祝福の儀は、予定を改めて執り行う。
条件は――」
蓮の心臓が強く打つ。
「藤村蓮の手引きを、祝福の一部として読み上げること。
以後、ジャガイモを扱う者は、この手引きを守る義務を負う」
農夫が顔を上げ、目を潤ませた。
「……ありがとうございます……」
ドミニクスは、短く息を吐いた。
「……よかろう。
“正しく扱われる作物”であるならば、神の祝福を拒む理由はない」
蓮は、思わず拳を握りしめた。
◆
数日後。神殿前の広場に、人々が集まっていた。中央には、麻袋から取り出されたジャガイモが、清潔な布の上に並べられている。緑化したものはない。芽もない。選別された、美しい芋だ。
神官たちが列を成し、聖水を携えて進み出る。
ドミニクスが前に立ち、厳かな声で祈りを捧げた。
「――天空神アストラよ。
この地に新たに芽吹いた作物を、正しき知恵と共に受け入れたまえ」
聖水が、芋に振りかけられる。そして、少量が聖火にくべられた。煙は、静かに、澄んだ色で立ち上った。ざわめきが広がる。
「……拒絶の兆しはない」
ドミニクスが宣言した。
「この作物は、神により清浄と認められた」
その瞬間、広場に安堵と歓声が広がった。
続いて、エリシアが前に出る。手には、蓮の手引き。
「――祝福された作物は、正しく扱われてこそ恵みとなる」
彼女は、一項目ずつ、はっきりと読み上げた。人々は耳を傾け、頷き、記憶しようとする。蓮は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
(……よかった)
土を掘り、芽を育て、実を守る。
そして今――言葉が、それを支える。




