◆第15話「リオネルの怒り」
会議が終わり、神殿の廊下に出た瞬間、蓮はようやく息を吐いた。背中に汗が滲んでいる。
「藤村殿」
エリシアが隣に立つ。
「……持ち出した者、見つかるでしょうか」
「見つけないといけない」
蓮は言い、拳を握った。
「でも、たとえ見つからなくても……ここで終わらせない。
ジャガイモは、危険じゃない。大事なのは正しく扱って――」
その言葉が途中で止まった。
廊下の向こう、神殿の中庭で、腹を押さえた男が医師に付き添われているのが見えた。顔色は青いが、意識はある。
その横で、別の男が小さく泣いていた。
農民の服。見覚えがある気がした。――だが確信はない。
蓮は視線を逸らさず、心の中でだけ呟いた。
(……頼む。次は、間に合ってくれ)
祝福は延期された。そして同時に、蓮に与えられた時間も、また削られ始めていた。
◆
ジャガイモを持ち出した農夫は、程なくして見つかった。そして、その子供も患者だった。
寝台に横たえられた農夫の少年は、すでに峠を越えている。医師の見立てはそうだったが、それでも部屋に残る苦い臭いと、床に置かれた吐瀉物の桶が、事の重大さを雄弁に語っていた。
蓮は壁際に立ったまま、何度も拳を握っては開いていた。
その前に立ったリオネルは、いつもの柔らかな物腰のまま、静かに口を開いた。
「……蓮様。まず申し上げておきますが、私はあなたを糾弾するために、ここに立っているわけではございません」
声音は丁寧で、語尾も崩れていない。だが、その視線は逃がさなかった。
「しかしながら――結果についての責任から、目を逸らすおつもりであれば、それは看過できません」
蓮は息を呑んだ。
「芽が出た塊茎、緑化した皮。その毒性について、あなたはご存じでしたよね」
「……ああ」
「“知っていた”どころではないでしょう。それは、常識以前のことだったのではありませんか?」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
リオネルは一歩だけ近づき、声を落とした。
「私は錬金術師として、薬草や鉱物を扱います。乾燥させれば薬になり、量を誤れば毒になる素材を、日常的にです。だからこそ――知っている者が、知らない者に何を伝えなければならないかを、常に考えます」
指先で、空中に何かを書き示すような仕草をする。
「トリカブトも、ベラドンナも、正しく処方すれば薬効を示します。ですが、村にそのまま置けば死者が出る。ゆえに、容器には印を付け、口伝を残し、扱う者を限定するのです」
そこで、初めて感情の色が滲んだ。
「では、今回の芋はどうでしたか」
蓮は答えられなかった。
「作物としての利点、収量、保存性。それらは十分に語られました。ですが、“やってはいけない扱い方”は、誰が、いつ、どこまで丁寧に伝えたのですか」
敬語のまま、言葉は刃のように鋭い。
「先程あなたは、危険なのは無知だとおっしゃった。しかし、今回、知らなかったこと自体は、罪というわけではありません」
リオネルは、少年の寝顔に一瞬だけ視線を向けた。
「罪があるとすれば――十分な説明をしなかった側です」
蓮の喉が鳴った。言葉を選びながらも、リオネルは逃げ道を残さない。
「奇跡を与えるなら、その代償と事故処理まで含めて引き受ける。それが、我々錬金術師の掟です」
そのとき、横からエリシアが口を挟んだ。
「でも、蓮の説明は記録されています。収穫時にちゃんと——」
「記録に残っても」
リオネルは、エリシアの方を見て言った。
「記憶に残らなければ、意味はありません。書庫に眠る警告文は、人を救いません。読み上げられず、語られず、繰り返されない注意事項は、存在しないのと同じです。特に食に関わることなら、なおさら」
その言葉に、エリシアもまた沈黙した。リオネルは再び蓮を見た。
「蓮様。あなたは奇跡を持ち込みました。ですが、奇跡には必ず“副作用”があります。製薬と同じです。効能だけを語り、禁忌を伝えなければ——それは、薬ではなく毒です」
敬語は崩れない。だが、情け容赦はなかった。
「誰も、あなたが人を害そうとしたとは思っていません。ですが、“知っている者”が正しく使えなかった瞬間に、“知らない者”は命を賭けることになる。その責任は、奇跡を持ち込んだ者にあります」
沈黙が落ちる。
蓮は、拳を握りしめていた。ジャガイモの芽は取る。緑になったら捨てる。苦い芋は食べない。それは蓮にとっては子供でも知っている常識だった。だが、それは“分かっている者”の常識だった。
「……僕は」
声が、わずかに掠れた。
「僕は、当たり前だと思ってました。だから、口頭で簡単に説明するだけで、みんな分かるって……」
「それが、落とし穴です」
リオネルは、静かに、しかし決定的に告げた。その言葉は、叱責であり、警告だった。
蓮は、深く息を吐いた。この世界に芋を持ち込んだのは、自分だ。ならば、毒まで含めて——背負わなければならない。
リオネルは一礼した。
「以上が、私の意見です。厳しい物言いをお許しください。しかし、次に同じことが起きれば……今度は、神官団では済まないでしょう」
その静かな声が、何よりも重かった。




