表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/20

◆第13話「ジャガイモの収穫とエリシアの過去2」

エリシアは静かに話を続ける。

「祖父は、飢饉の間も記録をつけ続けていました。領主としての義務だと言って」


 エリシアの脳裏に、あの日の羊皮紙の感触が蘇る。幼い彼女が、震える手で書き写した祖父の日記。そこには、ただの数字ではなく、生々しい“最後”が刻まれていた。


『冬の月、四日。木こりのヘンリー、死去。』 ――巨木を軽々と担いでいた自慢の腕は、薪のように細くなっていた。身重の妻に配給の全てを譲り、自身は雪を食べて腹をごまかしていた末の、凍死だった。


『同、七日。粉挽きの娘、マリー、死去。』 ――七歳だった。エリシアとよく遊んでくれた笑顔の可愛い子。空腹に耐えかねて、父親の革靴を煮て噛み続け、喉を詰まらせて冷たくなっていた。


『同、十ニ日。赤子の泣き声が止む。』 ――母親の乳が出なくなり、三日三晩泣き続けた末の沈黙。母親も後を追うように、その夜に息を引き取った。


「領主館が売られる前に、私はその記録を……すべて引き継ぎ、書き写しました」


 インクが滲んで読めない箇所がいくつもあった。それが祖父の涙の跡なのか、それとも書き写していた自分自身の涙だったのか、今となっては分からない。けれど、ペン先が紙を削る音と、寒さで感覚のなくなった指先の痛みだけは、今でも鮮明に覚えている。


「記録することしか……あの時の私には、何もできなかったから」


 彼女は顔を上げ、蓮を見た。

「だから、藤村殿」


 その瞳には、静かな決意があった。

「あなたの芋が、本当に人を救えるのか――

 私は、それを見届けたいのです。記録係として、ではなく。あの日、救えなかった人々のために」



 しばらく、沈黙が続いた。蓮は、自分の胸の奥で何かが締め付けられるのを感じた。エリシアが背負ってきたもの。幼い日に見た、救えなかった命たち。


(……僕は、ただ芋が好きだから、これまで芋を育ててきた)

(でもエリシアは――)


 やがて蓮は、ゆっくりと頷いた。

「……分かりました」


 彼は麻袋の山を見つめる。


「エリシア殿のおじい様が守ろうとした人々。その記憶を、僕も一緒に背負います」

 その言葉に、今までとは違う重さがあった。


「藤村殿……」

「だから――」

 蓮は真剣な顔で続けた。

「僕は、この芋を絶対に無駄にしない。正しく扱えば安全で、栄養があって、人を救える。それを、ちゃんと証明します」


 エリシアは、小さく微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 二人は再び、夕陽を見つめた。



 休憩時間が終わると、蓮とエリシアは農民たちを集めて次の指示をした。


「これらは、後日の祝福の儀のために保管します」

 エリシアが周囲に告げる。


 蓮は、集まった農民たちを見渡し、念を押すように言った。

「一つ、大事な注意があります」


 場が静まる。


「ジャガイモは、日光に当たって緑色になると、体に悪い毒ができます」

「……毒?」

「はい。イモの芽や、緑色になったイモの部分は、絶対に食べないでください」


 農民の一人が首をかしげた。

「味が落ちるだけでは……?」

「違います。腹を壊します。ひどいと、もっと苦しくなります。」


 蓮の声音は真剣だった。

「だから、保管は必ず暗くて涼しい場所に。今日掘ったものは、倉庫に保管します」


 エリシアが頷き、指示を出す。

「冷暗所を確保しました。全て、そちらへ」



 麻袋は、官舎の倉庫へと運び込まれた。石造りの壁に囲まれた、ひんやりとした空気。


「ここなら、問題ありません」

「ええ」


 蓮は最後に、袋の口をしっかりと縛りながら、もう一度言った。

「祝福が終わるまでは、誰も手を出さないでください」

「承知しました」


 農民たちは口々に返事をし、解散していく。


 だが――


 夕暮れ。人の気配が薄れた頃、一人の農民が、倉庫の前に立っていた。彼は周囲を見回し、音を立てぬよう麻袋の一つを持ち上げた。ずしり、と重い。

(……こんなにあるんだ。ひと袋くらい、いいだろう。祝福なんて、ただの儀式だ)


 そして彼は袋を肩に担ぎ、影の中へと消えていく。


 その夜、蓮は畑を振り返りながら、胸の内で静かに思った。花が咲き、ジャガイモは太り、問題なく収穫された。あとは――祝福を受け、正式に人々の食卓へ届けるだけだ。

(ひとまず、第一段階は成功だ)



 収穫から二週間が過ぎる。初夏の陽射しは強まり、街の石畳さえ温かく感じる。だが、蓮の胸の中には、涼しさではなく、何か得体の知れない落ち着かなさが居座っていた。


(もし祝福の儀に合格しなかったら…… いや、エリシアから聞いた話では、儀式は形式的なもので、実際には、儀式を受けると決まっている時点でたいていは大丈夫。信用されていない場合は、そもそも儀式を受けられないという決定になる。と、いうことらしいのだけど……)


 そうは思っても、祝福の儀まであと二日。気持ちが落ち着かない。倉庫に並ぶ麻袋は、きちんと冷暗所に保管されている。口も縛り、出入りも記録した。ここまで手順通りだ――そのはずだった。


 昼過ぎ、官舎の扉が乱暴に叩かれる。


「藤村蓮殿! 急ぎ、宮廷神殿へ!」


 門番ではない。息の上がった伝令の声だった。

 胸が嫌な音を立てる。


「……何があったんですか」

「“芋”で……人が倒れました。死者は出ておりませんが……腹を抱えて……」


 蓮は一瞬、世界の輪郭が歪むのを感じた。


(……まさか)


 足が勝手に動き、気づけば廊下を駆けていた。エリシアもすぐ後ろからついてくる。


「藤村殿、落ち着いてください」

「落ち着けるわけが……」


 神殿へ向かう道の途中、通りのあちこちで噂が走っているのが聞こえた。


「例の外来の芋だ」

「やはり呪いだ」

「祝福前に口にした者がいるらしい」


 蓮の背筋に冷たい汗が伝った。

 ――誰かが、勝手に食べた。

 収穫後にあった薄い不安が、一気に現実へと形を持った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ