◆第13話「ジャガイモの収穫とエリシアの過去2」
エリシアは静かに話を続ける。
「祖父は、飢饉の間も記録をつけ続けていました。領主としての義務だと言って」
エリシアの脳裏に、あの日の羊皮紙の感触が蘇る。幼い彼女が、震える手で書き写した祖父の日記。そこには、ただの数字ではなく、生々しい“最後”が刻まれていた。
『冬の月、四日。木こりのヘンリー、死去。』 ――巨木を軽々と担いでいた自慢の腕は、薪のように細くなっていた。身重の妻に配給の全てを譲り、自身は雪を食べて腹をごまかしていた末の、凍死だった。
『同、七日。粉挽きの娘、マリー、死去。』 ――七歳だった。エリシアとよく遊んでくれた笑顔の可愛い子。空腹に耐えかねて、父親の革靴を煮て噛み続け、喉を詰まらせて冷たくなっていた。
『同、十ニ日。赤子の泣き声が止む。』 ――母親の乳が出なくなり、三日三晩泣き続けた末の沈黙。母親も後を追うように、その夜に息を引き取った。
「領主館が売られる前に、私はその記録を……すべて引き継ぎ、書き写しました」
インクが滲んで読めない箇所がいくつもあった。それが祖父の涙の跡なのか、それとも書き写していた自分自身の涙だったのか、今となっては分からない。けれど、ペン先が紙を削る音と、寒さで感覚のなくなった指先の痛みだけは、今でも鮮明に覚えている。
「記録することしか……あの時の私には、何もできなかったから」
彼女は顔を上げ、蓮を見た。
「だから、藤村殿」
その瞳には、静かな決意があった。
「あなたの芋が、本当に人を救えるのか――
私は、それを見届けたいのです。記録係として、ではなく。あの日、救えなかった人々のために」
◆
しばらく、沈黙が続いた。蓮は、自分の胸の奥で何かが締め付けられるのを感じた。エリシアが背負ってきたもの。幼い日に見た、救えなかった命たち。
(……僕は、ただ芋が好きだから、これまで芋を育ててきた)
(でもエリシアは――)
やがて蓮は、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
彼は麻袋の山を見つめる。
「エリシア殿のおじい様が守ろうとした人々。その記憶を、僕も一緒に背負います」
その言葉に、今までとは違う重さがあった。
「藤村殿……」
「だから――」
蓮は真剣な顔で続けた。
「僕は、この芋を絶対に無駄にしない。正しく扱えば安全で、栄養があって、人を救える。それを、ちゃんと証明します」
エリシアは、小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
二人は再び、夕陽を見つめた。
◆
休憩時間が終わると、蓮とエリシアは農民たちを集めて次の指示をした。
「これらは、後日の祝福の儀のために保管します」
エリシアが周囲に告げる。
蓮は、集まった農民たちを見渡し、念を押すように言った。
「一つ、大事な注意があります」
場が静まる。
「ジャガイモは、日光に当たって緑色になると、体に悪い毒ができます」
「……毒?」
「はい。イモの芽や、緑色になったイモの部分は、絶対に食べないでください」
農民の一人が首をかしげた。
「味が落ちるだけでは……?」
「違います。腹を壊します。ひどいと、もっと苦しくなります。」
蓮の声音は真剣だった。
「だから、保管は必ず暗くて涼しい場所に。今日掘ったものは、倉庫に保管します」
エリシアが頷き、指示を出す。
「冷暗所を確保しました。全て、そちらへ」
◆
麻袋は、官舎の倉庫へと運び込まれた。石造りの壁に囲まれた、ひんやりとした空気。
「ここなら、問題ありません」
「ええ」
蓮は最後に、袋の口をしっかりと縛りながら、もう一度言った。
「祝福が終わるまでは、誰も手を出さないでください」
「承知しました」
農民たちは口々に返事をし、解散していく。
だが――
夕暮れ。人の気配が薄れた頃、一人の農民が、倉庫の前に立っていた。彼は周囲を見回し、音を立てぬよう麻袋の一つを持ち上げた。ずしり、と重い。
(……こんなにあるんだ。ひと袋くらい、いいだろう。祝福なんて、ただの儀式だ)
そして彼は袋を肩に担ぎ、影の中へと消えていく。
その夜、蓮は畑を振り返りながら、胸の内で静かに思った。花が咲き、ジャガイモは太り、問題なく収穫された。あとは――祝福を受け、正式に人々の食卓へ届けるだけだ。
(ひとまず、第一段階は成功だ)
◆
収穫から二週間が過ぎる。初夏の陽射しは強まり、街の石畳さえ温かく感じる。だが、蓮の胸の中には、涼しさではなく、何か得体の知れない落ち着かなさが居座っていた。
(もし祝福の儀に合格しなかったら…… いや、エリシアから聞いた話では、儀式は形式的なもので、実際には、儀式を受けると決まっている時点でたいていは大丈夫。信用されていない場合は、そもそも儀式を受けられないという決定になる。と、いうことらしいのだけど……)
そうは思っても、祝福の儀まであと二日。気持ちが落ち着かない。倉庫に並ぶ麻袋は、きちんと冷暗所に保管されている。口も縛り、出入りも記録した。ここまで手順通りだ――そのはずだった。
昼過ぎ、官舎の扉が乱暴に叩かれる。
「藤村蓮殿! 急ぎ、宮廷神殿へ!」
門番ではない。息の上がった伝令の声だった。
胸が嫌な音を立てる。
「……何があったんですか」
「“芋”で……人が倒れました。死者は出ておりませんが……腹を抱えて……」
蓮は一瞬、世界の輪郭が歪むのを感じた。
(……まさか)
足が勝手に動き、気づけば廊下を駆けていた。エリシアもすぐ後ろからついてくる。
「藤村殿、落ち着いてください」
「落ち着けるわけが……」
神殿へ向かう道の途中、通りのあちこちで噂が走っているのが聞こえた。
「例の外来の芋だ」
「やはり呪いだ」
「祝福前に口にした者がいるらしい」
蓮の背筋に冷たい汗が伝った。
――誰かが、勝手に食べた。
収穫後にあった薄い不安が、一気に現実へと形を持った。




