◆第12話「ジャガイモの収穫とエリシアの過去1」
初夏の風が、畑を渡っていく。白く、淡い紫を帯びた小さな花が、一面に揺れていた。
「……咲きそろいましたね」
エリシアの声に、蓮は頷いた。畝の上には、整然と並ぶジャガイモの株。その先端に、可憐な花が一斉に開いている。
「収穫まで、あと一ヶ月くらいです」
「花が終わってから、ですね」
「はい。この花が落ちる頃には、地面の下で本番が始まっています」
見習い魔道士のリオネルが、半信半疑の顔で畑を見渡した。
「……この下に、もう芋が?」
「もう、でき始めています。今は、栄養を溜めている最中ですね」
蓮は屈んで、土に軽く触れた。暖かく、しかし乾きすぎていない。踏込温床の実験で始まった畑は、今や自然の力で豊かさを育んでいる。蓮はジャガイモの花を見ながら言う。
「花は綺麗ですが、食べられません。実ができたとしてもやはり食用ではありません」
「少し、もったいない気もします」
エリシアが微笑む。
「花は収穫の合図です。もうすぐ、だっていう」
◆
それから一ヶ月。花はすべて落ち、畑の緑は少しずつ勢いを失い始めていた。
「――よし。今日は掘ります」
蓮の号令に、農民たちが一斉に鍬を手に取る。最初の一鍬が、土に入った。
ごろり。現れたのは、手のひらほどの、黄褐色の塊だった。
「おお……!」
「これが……芋……!」
次々と掘り返される土の中から、同じような塊が顔を出す。小さなもの、大きなもの、連なってついているもの。
「出たぞ!」
「こっちもだ!」
畑のあちこちで、歓声が上がった。
蓮は一つを手に取り、重さを確かめる。
「……いい出来ですね」
エリシアが記録を取りながら尋ねた。
「どれほどの収穫量になりそうですか?」
「植えた種イモの、少なくとも二十倍以上はあるはずです」
「……二十倍……」
「条件が良ければ、もっといきます」
農民たちが顔を見合わせ、ざわめく。
「二十倍だと……?」
「そんな作物、聞いたことが……」
「一つ一つは小さく見えますけど」
蓮は畝全体を指さした。
「これが、全部ですから」
◆
掘り出されたジャガイモは、籠に集められ、やがて麻袋に詰められていった。いくつもの袋が、ずらりと並ぶ。
「これは……すごい量だな」
「藤村殿の言った通りだ。本当に、二十倍以上……」
農民たちが口々に驚きの声を上げる中、蓮はふと、エリシアの様子がおかしいことに気づいた。彼女は麻袋の山を見つめたまま、動かない。羽ペンを持つ手が、わずかに震えている。
「エリシア殿?」
声をかけても、反応がない。その瞳は、確かに芋を見ているのに――どこか遠くを見ているようだった。
「……エリシア殿」
もう一度呼びかけると、彼女ははっと我に返った。
「す、すみません。少し……」
「大丈夫ですか?」
エリシアは小さく首を振り、いつもの落ち着いた表情を取り戻そうとする。だが、その目は――まだ、少しだけ揺れていた。
「……藤村殿」
彼女は、静かに言った。
「これだけの量があれば……冬を、越せますね」
その声音には、確認とも、祈りとも取れる何かが混じっていた。
◆
夕刻。
収穫作業が一段落し、農民たちが休憩しているなか、畑の縁に腰を下ろした蓮とエリシアは、沈みゆく陽を眺めていた。
初夏の空は高く、風は心地よい。だが、二人の間には――妙に静かな時間が流れていた。
「……エリシア殿」
蓮が口を開く。
「今日、何かありましたか?」
「いえ」
エリシアは首を振ったが、すぐに言葉を継いだ。
「……いえ、あります」
蓮は黙って待った。
しばらくして、エリシアはゆっくりと語り始めた。
「私の祖父は……小さな領地の領主でした」
◆
エリシアが七歳の時、祖父の領地で大飢饉があった。春の長雨で麦が腐り、夏の干ばつで豆が枯れた。秋には何も収穫できず、領民たちは蓄えを食いつぶした。
「冬が来る前に、祖父は蔵を開きました。
備蓄していた穀物を来年の種まで含め、すべて領民に配ったのです」
それでも足りなかった。
「十二月。雪が降り始めた頃から……人が倒れ始めました」
最初は老人だった。次に、幼い子どもたち。そして――働き盛りの大人たちまで。
「領民は痩せ細り、子どもたちは泣く力もなく……
春を待たずに、領地の三分の一が……」
エリシアの声が、わずかに震えた。
「祖父は最期まで、『これは領主の責任だ』と言っていました。領地を切り売りして、残った領民を養うために」
蓮は、何も言えなかった。
「私が記録官になったのは……」
エリシアは羽ペンを見つめる。
「あの日々を、忘れないためです」
彼女は少し自嘲的に笑った。
「もっとも……没落貴族の娘に、好ましい政略結婚の話などありません。記録官に就くというのは、生きるための手段でもありました」
畑には、穏やかな日常の風が吹いている。
麻袋の山は、黄昏の光を浴びて、静かに佇んでいた。




