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◆第10話「放課後の喧騒とドーナツ」

 午後三時。工場の始業を告げる重々しい鐘とは違う、軽やかな鐘の音が「学校」として使われている別棟から響き渡った。それは、一日の労働と学習からの解放を告げる合図だ。


「わぁぁーっ!!」

「一番乗りぃ!!」


 教室の扉が勢いよく開かれ、弾丸のようなエネルギーで子供たちが飛び出してくる。彼らは皆、サイズこそ不揃いだが、洗濯された清潔な作業服を着ている。かつてスラムの路地裏で、ボロ布をまとい、大人の顔色を窺って縮こまっていた「野良犬」のような面影は、もうどこにもない。


 彼らが向かったのは、工場の裏手に広がる広場――通称『校庭』だ。元々は資材置き場だった空き地を、蓮が「子供には遊ぶ場所が必要だ」と言って開放した場所である。そこには、既製品の遊具などない。あるのは、工場の廃材を工夫して作られた手作りの遊び場だ。使わなくなった巨大な木の糸巻き(ケーブルドラム)はテーブルや飛び石になり、表面を綺麗に磨いた鉄パイプを組み合わせたジャングルジムが陽光を反射して輝いている。隅には、建築用の砂を山盛りにした砂場まであった。


「おいリンツ! 昨日の続きだ、鬼ごっこするぞ!」

「待てよ! 今日は俺が鬼だ! 捕まえたらデコピンだからな!」


 子供たちはランドセル代わりの布袋を放り投げ、鉄と木の匂いが混じる広場へと散らばっていく。赤土の地面を蹴る音、甲高い笑い声。工場の煙突からは白い蒸気が穏やかに空へ昇っていく。ファビアンの工場が吐き出す黒煙とは違う、クリーンな排気だ。その白い雲の下で、子供たちの生命力が爆発していた。


 校舎の窓からその光景を眺めていたアンナが、ふぅ、と愛おしそうに息を吐いた。

「……信じられないわね。本当に、あの子たちなの?」

「ええ。見違えましたね」


 隣に立った蓮もまた、目を細めて頷く。

「少し前まで、あの子たちは腐りかけたパンの切れ端を巡って、血が出るまで殴り合いをしていた。……でも今は、ルールを守って遊んでいる」


「衣食足りて礼節を知る、ですね」

アンナが蓮の口癖を真似て微笑む。


「ええ。子供の仕事は『遊ぶこと』と『学ぶこと』だ。お腹いっぱい食べて、思い切り遊んで、そして学ぶ。その土台があって初めて、彼らは未来を作るまともな大人になれるんです」


 ひとしきり走り回り、額に健康的な汗をかいた頃合いを見計らったように、風に乗って甘く香ばしい匂いが漂ってきた。油で揚げた生地と、砂糖の焦げる匂い。暴力的なまでの誘惑だ。


「あっ! アシュレイのおっちゃんの屋台だ!」

「げっ、もう並んでる! 急げ!」


 遊びを中断した子供たちの足が、一斉に食堂の裏口へと向かう。そこには、即席で作られた屋台が湯気を上げていた。

「並べ並べぇ! 押すんじゃねぇぞ、この悪ガキどもが! ドーナツは逃げやしねぇ!」


 仁王立ちして怒鳴っているのは、給食係のアシュレイだ。顔に大きな刀傷が走り、腕は丸太のように太い元傭兵の料理人。その風貌は、子供なら泣いて逃げ出しそうな迫力があるが、なぜかここの子供たちには大人気だった。彼の手元にある大鍋では、きつね色のお菓子がジュワジュワと心地よい音を立てて踊っている。


「おっちゃん! 『イモ・ドーナツ』ひとつ!」

「俺も! 砂糖たっぷりで頼むよ!」

「はいよ、銅貨2枚だ。……ほら、熱いから気をつけて食え」


 子供たちはポケットから、それぞれの財布を取り出した。中に入っているのは、彼らが午前中の軽作業――商品の袋詰めや工場の掃除――で稼いだ「週給」の一部だ。誰かに恵んでもらった金じゃない。盗んだ金でもない。自分の手と足を使って稼いだ、正真正銘の「自分のお金」だ。銅貨を渡す彼らの手つきには、大人びた誇らしさがあった。


 アシュレイから手渡されたのは、サツマイモを練り込んだ生地を揚げた、特製のドーナツだ。少量とはいえ貴重な粉砂糖をまぶしたそれは、午後の陽を浴びて黄金色に輝いている。リンツは熱々のそれを、ハフハフと息を吹きかけながら頬張った。


「……んぐっ、熱っ! うめぇ~!」


 カリッとした外側の歯ごたえを抜けると、中は驚くほどモチモチしている。噛むたびに、サツマイモの濃厚な甘みと香りが口いっぱいに広がり、最後に砂糖のジャリッとした食感がアクセントを加える。労働の後の甘味は、脳髄が痺れるほど美味い。


「やっぱりアシュレイのおっちゃんのドーナツは世界一だぜ!」

 リンツが口の周りを砂糖だらけにして叫ぶと、隣にいた新入りの少年が、ゴクリと喉を鳴らした。彼はまだ工場に来たばかりで、最初の給料日を迎えていない。財布の中は空っぽだ。

「……いいなぁ。美味そうだなぁ」


 その視線に気づいたリンツは、迷わずドーナツを二つに割った。湯気が立つ半分を、新入りの手の上にポンと乗せる。

「ほら、半分やるよ」

「えっ、い、いいの? リンツ。これ、自分のお金で買ったんだろ?」

「いいってことよ。俺も最初は先輩に食わせてもらったんだ」


リンツはニカっと笑った。

「その代わり、給料が入ったら、次はとびきり美味い店を俺に教えてくれよな」

「……うん! ありがとう、リンツ!」


 新入りが頬張ったドーナツの味は、きっと一生忘れられないものになるだろう。それを遠目で見ていた蓮は、胸の奥が熱くなるのを感じた。奪い合うのではなく、分け与えること。それは、彼らに「余裕」が生まれた証拠であり、社会性という種が確かに芽吹いている証明だった。


「……いい光景ですね」

 蓮がポツリと呟くと、屋台の片付けをしていたアシュレイが、照れ隠しのように鼻を鳴らした。

「ふん。ガキどもが小銭を落としてくれるおかげで、俺の酒代が増えるってだけですよ」


憎まれ口を叩くアシュレイの目尻は、優しく下がっている。

「でもまぁ……あいつらが美味そうに食う顔を見てると、傭兵時代に血生臭い剣を振るってたのが馬鹿らしくなりますな。こっちの『武器おたま』の方が、よっぽど性に合ってる」


 アシュレイは、空になった大鍋を愛おしそうに叩いた。


 夕焼けに染まる広場で、リンツたちの笑い声が響く。長く伸びた影が、鉄パイプのジャングルジムと重なり合う。工場の煙突から昇る白い煙、油の匂い、そしてドーナツの甘い香り。それは、激動の産業革命を迎えようとしているソラニア王国において、最も平和で、最も豊かな時間の1ページだった。


 蓮はこの風景を守るためなら、どんな敵とも戦えると、改めて心に誓うのだった。

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