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◆第9話「賢者の戦慄と教育という魔術」

 それは、テオドールが泥のように眠り、蓮とグレゴリウスが二人でコーヒーを飲んで一息ついていた深夜のことだった。


 グレゴリウスは、蓮戸惑う理論について話をしているときに、蓮が黒板の隅に何気なく書き殴った『光の屈折と波長』の図をしげしげと眺めていた。

「……イモ屋。貴様、先ほど『プリズムによる分光』の話をしたが、あれは貴様の世界では、どの程度の魔道士が学ぶ秘儀なのだ? そもそも農学士のおまえが、なぜそんなことを知っている?」

「秘儀? いえ、あれはただの物理学の基礎ですよ。プリズムで光が七色に分かれることや、光が波の性質を持つことは……そうですね、僕の国では15、6歳の子供なら大抵知っています」


 グレゴリウスの手が止まり、カップがカチャリと音を立てた。

「……15歳? 貴族の英才教育を受けた者か?」

「いいえ。平民も貴族も関係ありません。国民全員です」


 蓮は真面目な顔つきになり、チョークで一本の線を描いた。

「僕の国では、国民全員に『義務教育』が課せられています。まず6歳から12歳までの6年間、そして15歳までの3年間。計9年間は、親の貧富に関わらず、全ての子供が学校に通い、読み書き、計算、そして理科(自然科学)を学びます。これは権利であり、義務なんです」


「9年間……! 平民のすべてにか?」

 グレゴリウスの目が驚愕に見開かれる。この国では、文字が読めるのは聖職者か商人、貴族のみ。農民が計算などできようはずもない。


「はい。そしてその後、希望者のほとんど――9割以上が『高校』という高等教育へ3年間進みます。僕が話した物理の話は、そこで習う内容です。さらにその後、専門的な研究をするために『大学』へ4年間。……僕はそこで農学を学びました」

 蓮は淡々と語った。

「6・3・3・4制。合計16年。それが、僕のような『ありふれた技術者』が作られるまでの工程です」


 グレゴリウスは、長い沈黙の後、深く長いため息をついた。その表情には、未知の脅威を目の当たりにしたような戦慄が走っていた。

「……恐ろしいな、貴様の国は」

「そうですか?」

「ああ。天才が一人生まれることなど、歴史上珍しくもない。だが、貴様の国は『平均値』が異常に高いのだ。路傍の石ころのような平民ですら、我が国の学士レベルの知識を持っているということだろう?」


 グレゴリウスは立ち上がり、窓の外の暗い王都を見下ろした。

「我が国では、魔導書を一冊読むのに、まず文字を覚えるところから始めねばならん。だが、貴様の国では、新しい技術書を一冊配れば、数百万人の国民が即座に理解し、実行に移せるということか……。その『基礎学力の土台』こそが、貴様の持つ魔道具やイモの知識よりも、遥かに恐ろしい国力だ」


 老賢者は、悔しげに、しかし憧れるように呟いた。

「教育とは、一部の特権階級が独占する宝石ではなく、国全体を舗装する石畳であるべきだったのだな……。でなければ、王国という名の馬車は速く走れん」


 グレゴリウスは蓮に向き直った。その目は、単なる研究者ではなく、国の行く末を案じる老臣の目になっていた。

「藤村。貴様が工場で子供らに文字を教えている理由が、ようやく分かった。貴様は、ただの同情でやっているのではないな?」


「ええ」

 蓮は頷いた。

「彼らが賢くなれば、より高度な仕事ができるようになります。そうすれば国が豊かになり、巡り巡って僕の商売も繁盛しますから」


「ふん、食えん男だ。……だが、正しい」


 グレゴリウスは、黒板の『屈折の図』を指でなぞった。

「我が国も、いつかそうあらねばならん。9年の義務教育……か。私が生きている間には間に合わんだろうが、種を蒔くことくらいはできるかもしれん」


 その時の会話は、グレゴリウスにとって、どんな魔法理論よりも衝撃的な「異界の叡智」との遭遇だった。彼が、アカデミーの門戸を広く平民に開放するよう王家に進言し認められるのは、ずっと後の話である。

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