◆第8話「泥だらけの賢者と異界の農学論」
テオドールに「野生種ジャガイモ」を託してから数週間後。蓮は再び、アカデミーにある第4研究室――通称「ジャングル」を訪れていた。
「……おお、藤村殿! 待っていましたよ!」
湿気た部屋に入るなり、泥まみれのテオドールが駆け寄ってきた。その手には、歪な形をした、しかし力強く脈打つような気配を纏った芋が握られている。
「できましたよ! 第一世代の試作品、名付けて『テオドール1号』です!」
蓮が受け取ると、それはゴツゴツとしていて見栄えは悪いが、ずっしりと重かった。
「……疫病菌への耐性は?」
「完璧です! あえて菌を植え付けた土壌で育てましたが、こいつの根は菌を弾き返しました。それでいて、デンプンの蓄積量は既存種の8割まで回復しています」
テオドールは、土魔法による「加速栽培」で、通常なら十年はかかる交配と選別を、わずか数週間でやってのけたのだ。
「すごい……。本当に魔法ですね」
蓮が感嘆すると、テオドールはかぶりを振った。
「いや、苦労しましたよ。あの野生種は気性が荒くて、なかなか既存種と『結婚』してくれなくて……。土中のマナを調整して、なんとかお見合いを成立させましたが、どうも法則性が掴めない。生まれてくる芋の形質が、バラバラなんですよ」
テオドールは首を傾げた。
「強い親と美味い親を掛け合わせても、必ずしも『強くで美味い子』にはならない。時には『弱くて不味い子』も生まれる。……土の声を聞きながら、当たりが出るまで試行錯誤するしかなくて」
その言葉を聞いて、蓮は無意識に呟いた。
「……メンデルの法則ですね」
「メンデル? なんですか、それは」
蓮は、近くにあった木の枝を拾い、地面の土に図を描き始めた。
「僕の故郷の知識です。親の性質が子に伝わる時、そこには明確な数学的確率が存在します。『顕性(優性)』と『潜性(劣性)』……。この組み合わせのパターンを表にしたものが、これです」
蓮が描いたのは、生物の授業で習う「パネットの方形(遺伝子組み合わせの表)」だった。
「AAとaaを掛け合わせると、第一世代は全てAaになります。ですが、その子供同士を掛け合わせると……」
テオドールは、瓶底眼鏡を光らせてその図を凝視した。最初は怪訝そうだったが、次第にその表情が驚愕へと変わっていく。
「……ま、まさか。土の声を聞かずとも、生まれてくる子供の性質が、計算で予測できると言うのですか!?」
「ええ。遺伝子という設計図の概念があれば」
そこから、蓮の「農学士」としてのスイッチが入った。
「テオドールさん。あなたが感覚でやっている『強い根』の選別も、F1品種(雑種強勢)の理屈を使えばもっと効率化できます。それに、土壌の栄養素ですが……」
「栄養素?」
「土魔法で活性化させるのもいいですが、植物が必要とする三大要素は決まっています。窒素(N)、リン酸(P)、カリウム(K)。この比率を成長段階に合わせて調整すれば、魔力消費を抑えて収穫量を倍増させられます」
テオドールが膝から崩れ落ちるようにして、蓮の手を掴んだ。その手はわなないていた。
「……窒素、リン酸、カリウム……。私はそれを『大地の三精霊』と呼んで感覚で捉えていましたが……まさか、物質として特定し、比率まで解明しているとは!」
テオドールにとって、農業とは「土との対話」であり、神秘的な儀式に近いものだった。だが、目の前の異邦人は、それを冷徹なまでの「論理と化学」で解体してみせたのだ。テオドールの目に、狂気じみた探究心の炎が宿った。
「……もっと。もっと教えてください、藤村殿」
「えっと、今日はもう遅いので、そろそろ帰らないと……」
「帰すもんですか!!」
テオドールは、敏捷な動きで研究室の扉に鍵をかけ、さらに土魔法で扉を岩壁で塞いでしまった。
「ええっ!?」
「この『連作障害』のメカニズムを聞くまでは、一歩も通しませんよ! さあ、あなたの世界の『化学肥料』とやらについて、朝まで語り明かしましょう!」
「ちょ、明日も工場が……!」
「工場なんてどうでもいい! ここには世界の真理があるんですよ!」
◆
翌朝。不審に思ったグレゴリウスが、魔法で強引に扉をこじ開けて中に入ると、そこには異様な光景が広がっていた。
壁一面に蓮が書いた化学式や遺伝子の図がびっしりと並び、その中心で、二人の男が泥のように眠っていた。テオドールは蓮の足にしがみつき、寝言で「……ハーバー・ボッシュ法……すげぇ……」と呟いている。蓮もまた、久しぶりに専門的な話ができた満足感からか、疲れ果ててはいるが安らかな顔で寝息を立てていた。
「……やれやれ」
グレゴリウスは呆れてため息をついた。
「やはり、変人が一人増えただけか」
後に、この夜に蓮が語った「メンデルの遺伝法則」と「リービッヒの最小律」の概念は、テオドールによって体系化され、王国の農業を根底から覆す『新魔道農学』の基礎となるのだが――それはまだ先の話である。




