第一部◆第1話「芋の書を抱いて異世界へ」
【はじまりのあらすじ】
大学の農学部出身で食品メーカーに勤める芋好きの藤村蓮は、念願の『世界芋類大百科』を古書店で入手した帰り道、突然倒れて異世界に転移する。見知らぬ街で兵士に保護され、宮廷の審問官ヴァレリオのもとへ連れて行かれた蓮は、「理解の呪」で言葉が通じるようになり事情を説明する。
しかしこの世界には芋類が存在せず、蓮の持つ百科事典は珍しがられるものの、彼自身の魔力測定では「土属性ゼロ」という結果が出てしまうため、農学者とは信じてもらえない。ヴァレリオは蓮に「三ヶ月以内に農学の実力を証明せよ。さもなくば国外追放」と告げる。
蓮は監視下に置かれ、下級貴族相当の官舎を与えられる。書紀のエリシアが記録係として毎日訪れることになり、蓮は自分の置かれた厳しい立場を実感する。芋のない世界で、魔法も使えない自分が認められるのか――不安に苛まれながらも、蓮は「踏込温床」という発酵熱を利用した農法で成果を出そうと決意する。
◆ ◆ ◆
藤村蓮は、自分が倒れた理由を何度考えても分からなかった。
食品メーカーのマーケティング部門で働きながら、休日は家庭菜園で土まみれ。大学は農学部だったが、研究職に進めるほどの成績ではない。しかし、いまの仕事にも特別な不満はない。ただひとつの楽しみといえば――芋である。じゃがいも、さつまいも、里芋、山芋……。芋類の形や味の違いを語り始めると、大学時代の仲間に呆れられるほどだった。そんな蓮がだいぶ前に古書店に入荷予約を頼んでいた、『世界芋類大百科』がついに届いた。もう絶版で、古書でしか手に入らない珍品である。
「お待たせしました。ずいぶん分厚くて……まるで大判の辞書ですね」
店員から手渡された瞬間、ずしりと腕に重さが伝わった。全ページカラー写真、品種ごとに詳細な解説、世界の芋文化まで網羅した夢のような一冊。蓮はまるで宝物を抱えるように胸に本を押しあて、店を出た。この週末にじっくり読もう。
ところが駅前の公園を横切る途中、急にめまいが襲ったのである。目の前の光景が波打ち、足元の感覚が崩れていく。
「……え? ちょ、待っ……」
言葉を言い終える前に、蓮は公園のベンチに倒れ込む。一瞬、百科事典が光ったような気がしたが、確かめるひまもなく蓮はそのまま意識を失った。
◆
目を開けたとき、知らない夜空が広がっていた。空には見たことのない星座。そして、周囲には古い石造りの街並み。街灯ではなく松明の光が揺れ、微かに焚き木と土の匂いが漂う。
「どこ……だよ、ここ……」
駅前公園ではないのは明らかだった。スマホを取り出すが、画面は真っ黒のまま反応しない。唯一の現実的な手触りは腕の中の『世界芋類大百科』だけだった。
混乱しながら暗い路地をさまよっていると、松明を持った兵士らしき男たちが現れた。
「――※◆◇△?」
「え、あの、僕……」
言葉が通じない。兵士たちは蓮のスーツを見て、帽子を持ち上げて顔を確かめる。
「……□▽、(身なりは悪くない。貴族か?)」
「(こんな夜中に外国からの客人を捕まえたとしたら、面倒だぞ)」
「(だが放っておくわけにも行くまい。春になったとはいえ、夜はまだ寒い。兵舎に連れて行こう。)」「(わかった。ああ、雑に扱うなよ。あとで訴えられても知らんからな)」
兵士たちは明らかに「関わり合いになりたくない」といった態度で、しかし乱暴には扱わず、蓮の腕を支えて歩き始めた。蓮は、牢屋ではなく兵舎の二階にある空き部屋へ案内された。
「(ここを使え。鍵はかけぬ。逃げても困るが、粗相があっても困る)」
蓮は状況が理解できないまま、震える手で毛布を握りしめ、深夜の見知らぬ官舎で眠れぬまま夜を明かした。
◆
翌朝、蓮は宮殿らしき建物へ連れていかれた。高いアーチの天井、大理石の柱。その中央に置かれた長卓の向こうには、黒衣をまとった威厳ある男――審問官ヴァレリオが座っていた。その傍らには若い女官が控えている。淡い金髪を束ね、膝の上には記録用の羊皮紙と羽ペン。彼女は後に蓮の理解者となる人物だが、今はただ冷静な目で蓮を観察していた。
「(まず、言葉が通じぬのでは話にならぬ。心を静めよ、“理解の呪”を施す)」
ヴァレリオが手をかざし呪文を唱えると、蓮の耳の奥がじんわり熱くなり、周囲の言葉が日本語のように聞こえ始めた。
「……聞こえる、理解できる……?」
「よし。それでは名を名乗れ」
蓮は深く息を吸い、できる限り丁寧に答えた。
「藤村蓮……です」
その瞬間、ヴァレリオの眉がぴくりと動く。
「“姓”があるということは、やはり平民ではないな。
さて藤村蓮よ、汝は深夜に市中を徘徊していた。事情を説明せよ」
蓮は正直に答えた。
仕事帰りだったこと。
取り寄せた本を受け取ったこと。
帰宅途中に倒れ、気づいたら見知らぬ街にいたこと。
だが当然、ヴァレリオは容易には信じない。
「異国から、我らの国ソラニア王国に転移して来たと申すか。荒唐無稽だな」
「分かってます。でも、本当に……!」
ヴァレリオは、蓮の所持品として回収された百科事典を手にとった。
「この書……図画が異様に精緻だ。写実魔法の産物か? それに何らかの魔力を感じる。」
「いえ、僕の世界では普通の印刷物で……」
「どこにそんな技術が……ふむ」
女官がページをめくるたびに、周囲のオブザーバーたち――官僚、魔術師、軍の文官――がざわめいた。
「この人物の絵は見事だ。まるで本物のようだ……」
「だが、この花や作物…… 我らの知るどれにも該当しないぞ」
「特にこの、土の上に転がって積み重なっている塊は……根か? 実か?」
蓮は説明したが、理解されない。この国には、人参や大根に相当する根菜類はあるものの、デンプンを含む芋類が存在しないようだ。ヴァレリオはしばし沈黙し、椅子にもたれかかった。
「よかろう。汝の言葉の真偽はさておき、知識量が尋常でないのは確かだ。
しかし、汝の魔力を測定したところ“土属性ゼロ”と出た」
「え……?」
「土の魔力なき者が農学を修めるなど、我らの理では理解できぬ。
ゆえに――藤村蓮、汝の能力を“証明”せよ」
「証明……?」
「この都市の農地で、何か役立つ提案をし、実際に成果を出してみせよ。
成功すれば、汝をただの漂着者ではなく、外邦の学識者として扱う」
蓮は呆然としたが、拒否権はなかった。
◆
取調べが終わると、ヴァレリオとオブザーバーたちは蓮を別室に移し、協議を始めた。
「国外の貴族である可能性が高い。粗末に扱うわけにはいかぬ」
「だが異端である危険もある」
「学識は本物と思われる。魔力はゼロだが、書物は価値がある」
「いずれにせよ、住居を与え監視下に置くべきだろう」
最終的に、蓮には下級貴族と初級魔道士に相当する居室が与えられ、監視下ではあるが一定の自由が許されることとなった。
「農学の実力を示す――それが条件だ。期限は、ひとまず3ヶ月とする。」
蓮は、薄暗い廊下を案内されながら、自分に課された試練の重さをひしひしと感じていた。
異世界で最初に求められたのは、戦いでも魔法でもなく ―― 農業だった。




