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白雪

作者: 南蛇井
掲載日:2025/11/07

白雲ゲレンデの朝は、いつもより少しだけ寒気を帯びていた。駐車場にはまだ霜が残り、リフトの稼働音がまだ来客の喧噪を待っている。だが、その日はいつもの活気ではなく、小さな「困りごと」が上がっていた。従業員が全員、休みたい、という困りごとである。


「先週の土日、フル回転だっただろ?」と、サトウ(所長)は言った。サトウは掌に年季の入った毛糸の手袋を握りしめ、ついでにため息も握りしめた。「体、休めてやりたい。人も減らして、経費も節約して、客足もほどほどにして……」彼の脳内では、経営と休暇の間に三十もの針金が渡っていたが、現実の世界ではそれを解くボタンはなかった。


ミホ(リフト係)は、天真爛漫に肩をすくめた。「予告出せばいいんじゃないですか? 何か、不安を煽るやつ。そしたら客来ないでしょ。そしたら休めるでしょ。」

ケンジ(整備班)は、雪上車の窓に指先を擦りつけながら考えた顔をした。「『施設点検のため臨時休業』とかならいいんじゃない? もっともらしい理由で。」


そこで、誰かが口にした言葉が空気を微妙に振動させた。

「爆破予告、ってどう?」と。


その言葉は、あまりにも突拍子もなく、そしてあまりにも現代的で、瞬時に場の空気をピンと張らせた。誰もがそれを聞いてから五秒だけ、実際に賢くなったような表情をした。五秒後にはまた普段の顔に戻ったが、その瞬間だけは心の中でコーヒーを飲んだ気分になった。


「は?」とミホ。

「お、おいおいサトウさん、冗談だろ?」とケンジ。

「違う違う、俺だって言ったのは冗談だ」と所長は手のひらを返すのがやや早かった。


それでも、話題は消えなかった。誰かが休みが欲しいと本気で言い、誰かが売り上げを心配し、誰かが怠け心に甘い言葉を寄越す。それらが混ざると、人間というものはときどき妙案を思いつく。


翌朝、掲示板に一枚の紙が貼られた。紙には赤いスタンプ風のマークが一つ、冗談めいた大きさで押してあり、その下に手書きでこうある。


「安全確認のため、臨時休業。詳細は後ほど。——管理部」


字は急ぎすぎて踊っていた。誰が書いたかは見当がつく。サトウの字ではなかった。ミホの字でもない。ケンジの字では、もっと温度があった。だれだろう、と三人は思ったが、それよりも掲示板の紙は客の注意を引いた。午前八時には、駐車場の端でお年寄りがスマホを確認し、若いカップルが顔を見合わせ、そして一人の外国人家族が困惑していた。噂は速かった。噂はサンドウィッチのパンのように軽く、しかも腹にたまる。


その日の午前中、電話が鳴った。中尾オーナーの声は、最初の「何故だ」の感嘆符でいっぱいだった。「なんだこれ! 休業だって? お前ら、何してんだ!」

サトウは言葉を選んだ。五分前までは自分が仕組んだかも、という気持ちがほんの少し胸をよぎっていたが、いい大人は他人を守るためなら自分を犠牲にするものである。彼は違う人間に成りきって、真顔で言った。「掲示板の紙かもしれませんが、拡散が早いのでご安心ください。状況確認中です。」


状況確認、という言い回しは理屈屋の救世主だ。事態はとりあえず『進行中』に分類され、次の一手を考える時間が生まれた。だが、その『時間』がずるずると伸びると、町は面白がり始める。老舗の喫茶店は「何が起きるか」推理会議を開き、子どもたちはスキー板を抱えたまま観察者となった。噂は買い物袋に入って配られる菓子のように、少しずつ甘みを増した。


午後になって、事態は想像以上にスリリングな方向に行った。警察が軽く顔を出し、聞き取りを始めた。ただし聞き取りのテーブルでのやり取りは、どこかほのぼのしていた。署員の一人がコーヒーをすすりながら言った。「まあ、爆破って言葉は出てこなかったですよね? 『臨時休業』で留まってる以上、まだギリギリでセーフ……って言い方はあれだが。」


その言葉に、サトウの心は冷水を浴びた。ギリギリでセーフ、で済むはずがない。彼はその夜、書類棚を開けて自分の名刺を見つめ、老眼鏡をかけてから深くため息をついた。自分たちの「ちょっとした悪ふざけ」が、外から見ると全然ちょっとじゃない。休みを取りたいという欲求は理解されるが、脅かす行為は別問題である。昔の漫画のように、白い目で見られるのは一瞬で終わるが、信用は粘土細工のように壊れやすい。


翌朝、サトウは掲示板の紙を剥がし、出入口に向かってマイクを握った。彼のスピーチはぎこちなかったが、誠実だった。客に謝罪し、誤解を招いた旨を話し、迷惑をかけた地元の人々に頭を下げた。そして、もっとも重要な一文を付け加えた。


「我々は休みたいだけでした。が、休みの取り方を間違えました。これからは、正規の手続きを踏みます。交代で休みを取り、雇用と安全を両立させます。」


その日、客は戻った。理由は複雑だが、誰も爆破を望んでいないことは明白だった。人は不安よりも面白さに吊り上げられるが、最終的に安全の方へと戻る。サトウたちは処分を免れたわけではない。小さな口頭注意と謝罪文の掲載が課された。だが彼らは、もっと大事なことを学んだ――休みは交渉で得るもので、欺瞞で奪うものではない。


終わりに、ミホが缶コーヒーを開けながら呟いた。「なんだ、結局ちゃんと話せば取れるんだね、休みって。」

ケンジは雪上車のタイヤを拭きつつ、「次に休みが欲しくなったら、スキー場中で一斉にカラオケ大会でもやるか」と言った。皆が笑った。笑いは軽いが、空気は確かに軽くなった。


そして掲示板の跡地に、小さな手書きの注意書きが貼られた。そこには消え入りそうな字でこうある。


「休暇は話し合いで。爆発的なアイデアは不要。」


時々、町の子どもがそれを指差しては大人に聞く。大人は顔を赤らめて、適当に笑って誤魔化す。だが誰もが知っていた――白雲ゲレンデの真の爆発力は、雪の下ではなく、従業員の集めるささやかなユーモアと、やりくりする情熱にあるのだと。

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