同棲
「えっと、ふつつかものですがよろしくお願いします」
「こ、こちらこそ?」
さらに季節は巡って、春休みに突入していた。
お母さんからの提案で、ボクとスズは今日から新学期までの間、スズの家で「お試し同居」をすることになった。
お母さんに交際をカミングアウトしてからはもう月の半分くらいスズの家にお泊りするようになったのだけれど、これまでは料理や洗濯などはお母さんに任せていた。そんな逃げ道を断ち切り、完全に自立した生活をしてみなさい、という試練だ。
どうしても無理な場合は頼っても良いと言ってくれたけど、折角なら完璧にやり遂げて、ボクらの「本気」を見せつけたい。
もちろんスズの両親からも許可は得ている。結局、一度別れたボクとヨリを戻したことを正直に話したら、スズのお父さんにはあきれ顔で溜息をつかれたそうだ。
「どうしよう、とりあえず家事の係とか決めた方がいいのかな」
「適当でいいでしょ。私がいつも通り料理するから、洗濯はお願いするわ。掃除は気が向いた時に二人でやりましょ」
そんなざっくりでいいんだろうかと思いつつも、ここは一人暮らし経験(といってもこの家での留守番だが)の長いスズの流儀に従う。
今までもお泊まりの度に多少の手伝いはしていたけれど、家事のすべてを、一から十まで自分たちだけで完結させるというのは初めての経験だった。
とにかく、スズにだけ負担をかけないようにしなきゃいけない。
こういう共同生活は、些細な価値観の違いが積み重なって亀裂が入るものだって、ネットの掲示板にも書いてあったし。
いくら今まで「半分同棲」みたいな生活をしていたからって、二十四時間、逃げ場のない状態で暮らし始めれば、きっとまだ見えていないズレが出てくるはずだ。
そう。そんなふうに、ボクはかなり気合を入れていたのだけど……。
三日目くらいで、ボクは呆気ないほどあっさりと感想を漏らしていた。
「……なんか、今までと全然変わんなくない?」
「そりゃそうでしょ。何億回うちに泊まりにきたと思ってんのよあんた」
「まあ、そうかあ」
億は言いすぎだとしても、実際、いつものお泊まりの時より若干やることが増えた程度で、劇的な変化は何一つ感じなかった。
お母さんが懸念していたのは、別々の大学に進学することによる「生活リズムの変化」だ。まだ制服を着て、同じ時間帯に動いている高校三年生の今のボクらには、摩擦を起こす要素すら存在しなかったのだ。
とりあえずこの三日間で、ボクとスズは同居人としての相性も最高だ、ということが証明された。
この分なら、進学してそれぞれのキャンパスライフが始まっても、大きな問題は起こらないだろう。
そう、タカを括っていた。
―――
「ごめん。スズ。ちょっと距離を取ろう」
「そんな! どうして! 私の何が悪いの!」
それから、さらに三日目。
ボクは精神的にも肉体的にも、限界を迎えていた。
「何が悪いってそりゃあ……」
ボクはベッドの下に無残に脱ぎ散らかされた、自分と彼女の衣服に視線を落とした。
ボクらは今、スズの部屋のベッドの上で相変わらずの全裸である。
そう、この一週間弱。ボクらはまたしても、あの冬休みと同じ「発情期の獣」に逆戻りしていたのだ。
「家事とご飯とバイトしてる以外の時間、常にセックスしてんじゃん。春休みの課題、全然進んでないよ。まずいよこれ」
「くっ……だって仕方ないじゃない。いつでも手が届くところに、祢子の肉体があるんだから」
「肉体て」
言わんとすることは、痛いほど分かる。ボクだってスズと肌を重ねるのは大好きだし、だからこそ彼女の誘いを一度として断れず、ズルズルと快楽に流されっぱなしになっていた。
ヤりたい盛りの高校生が一つ屋根の下で暮らし始めれば、こうなるのは必然だったのかもしれない。
だがしかし。
「もしセックスのし過ぎで志望校に落ちたりしたら、同棲どころじゃなくなるんだからさ」
「ぐっ……」
これ以上ない正論パンチを受けて、スズがオーバーに胸を押さえる。
「というわけで、物理的に距離を置こう。家庭内別居だよ」
「そんなぁ……」
「別に接触禁止ってわけじゃないよ。イチャイチャするのはお互い、やるべきことをきっちり終わらせた後にしようって話」
この世の終わりみたいな絶望顔を浮かべるスズだが、ここは心を鬼にするべき場面だ。
ボクだって、せっかくの同居生活でわざわざ別々の部屋に籠もるなんて、寂しくて死にそうなんだから。
「……わかったわよ。私だって、芸大がどれだけ狭き門かはわかってるし」
「よし。それでこそボクのスズ」
スズの頭を優しく撫でてやると、彼女は鼻を鳴らしながら、嬉しそうにボクの腕に顔を擦り付けてきた。くっ、可愛い。
しかし、ここで絆されて二回戦に突入しては本末転倒だ。ボクは誘惑を断ち切るようにベッドから這い出し、服を着る。
「それじゃ、和室を使いなさいよネコ。ちゃぶ台もあるし、小さいけどテレビもある。……しばらく使ってなかったから、掃除しなきゃだけど」
「ありがと。じゃあ、早速今からやるよ」
ボクは床に転がっていた下着を穿きなおし、隣の実家から持ってきた部屋着に袖を通す。
遅れてスズもベッドからまろび出て、床に散らばった自分の下着や衣服をゴソゴソと拾い集め始めた。
「……ねえ、寝る時は一緒よね?」
「そりゃ、当たり前でしょ」
下着をつけながら、不安げな上目遣いでボクを見つめるスズ。
しゅんとしている彼女は、いつにも増して保護欲をそそる。今すぐにでも抱きしめたい欲求を鋼の意志で抑え込み、ボクは彼女の部屋を後にした。
……今日の分の課題を全部終わらせたら、今夜は久しぶりにボクがタチやるからな。
そんな密やかな決意を、胸の奥に秘めながら。
―――
「ふぅ……」
和室の掃除を終えて、紅茶の入ったマグカップを片手に一息つく。
久しぶりに訪れた、心地よい静寂。
リビングのすぐ隣にある和室は、長らく物置状態になっていた。そこを二人で二時間かけて片付け、なんとか人間一人が生活できるスペースに整えた。
課題を広げるには十分なサイズのちゃぶ台と、型落ちの小さな液晶テレビ。
勉強と、最低限の暇つぶし。それだけなら、この簡素な空間で十分だった。
手伝ってくれたスズも、今は自分の部屋に戻って課題に向かっているはずだ。
一人きりになって寂しさを感じるかと思ったけれど、不思議と心は穏やかだった。
だって、一つ屋根の下に、確かにスズの気配を感じるから。
同じ家という閉ざされた空間。二、三枚の壁を隔てた先には、大好きなスズがいる。気が向けばいつでも会いに行ける距離に、彼女の日常がある。
今までと同じようで、決定的に違う。
これまでは、玄関のドアを開けて、共用廊下に出て、隣の家のチャイムを鳴らして……という「儀式」が必要だった。
でも今は、扉を一つ二つ開けるだけでいい。ボクらの間に、鍵のかかったドアなんて、もう存在しない。
その事実だけで、世界の見え方がまるで違った。
きっと、誰かと一緒に暮らすって言うのは、こういうことなんだろう。
もちろん、実際の大学生活が始まれば、こんなに広い部屋を借りる余裕なんてない。
せいぜい広めのワンルームか、ちょっと頑張ったって1DKくらいが関の山だろう。
それでも、お互いの生活リズムが変わっていく中で、こうして自分だけのパーソナルスペースを確保しなきゃいけない瞬間は必ず来る。
これはそのための、大切な訓練だ。
お互いに依存しすぎて潰れてしまわないように。それぞれの人生を、共に歩んでいくために――。




