母親
その日の夜。
いつものようにスズの家で夕食を済ませた後、ボクは空になったタッパーをエコバッグに詰め、自分の家へと戻った。
リビングに入ると、ダイニングテーブルでノートPCを広げ、忙しなくキーボードを叩いていたお母さんが顔を上げる。
「おかえり。今日はあっちでお泊りしないの?」
「ただいま。うん。今日は家でゆっくりしようかなって」
ボクはタッパーをエコバッグから出して水切りラックに並べる。背後でお母さんが「そう」と短く返して、また作業に戻る音が聞こえた。
ボクがスズの家に入り浸りなことは、当然お母さんも把握している。ただ、ボクらの関係をカミングアウトはしていないので、彼女の目には『姉妹のように仲が良い幼馴染』か、あるいはせいぜい共依存気味の親友くらいにしか映っていないはずだ。
お父さんが立ち上げたベンチャー企業を支えるため、日本で経理を一手に引き受けているお母さん。
自宅勤務とはいえ、時差のある海外拠点とのやり取りで夜遅くまで働くことも多い。ボクだけじゃなく、スズのことも実の娘のように育ててくれた、強くて聡明な人。もし『尊敬する人物は誰?』と聞かれたら、ボクは寸分の迷いなく『母親』と答えるだろう。
そんな人だ。だからこそ、ボクらの関係を知られることは怖かった。
「お母さん、今大丈夫?」
珈琲を飲んで一息ついているタイミングを見計らって、ボクは意を決して切り出した。
「ん、どうしたの?」
「あの、さ、進路のことで話があるんだけど」
お母さんは「あら」と少し意外そうな顔をして、ダイニングの椅子を勧めてくれた。
向かい合って座ると、途端に心臓の鼓動が速くなる。
「ボクね、大学に入ったら家を出て、スズとルームシェアしたいと思ってるんだ」
逃げ道を作らないよう、単刀直入に伝える。お母さんは回りくどい言い方は好まない人だ。
「ルームシェア? スズちゃんと?」
「うん。大学生になったら、二人で協力して暮らそうって話してて……」
「……ふうん」
お母さんは短く相槌を打つと、もう一度マグカップの珈琲を一口すすった。
子供の自主性を尊重してくれる人だし、頭ごなしに反対してくるようなタイプではない。
そう思っていたのだけど――。
「だーめ」
「ダメぇ!?」
意外だった。
まさか理由を詳しく話す前に、いきなりそんな軽い調子でダメ出しを食らうとは思ってもみなかった。
「な、なんで?」
「お金もったいないでしょ」
「そんな、大学になったら新しいバイト始めるよ?」
「実家にいてバイトしたほうが稼げるわよ? 引き続きりんさんのお店でお世話になればいいじゃない」
お母さんの言い分は、ぐうの音も出ないほど正論だった。『ふーでぃえ』は働きやすい職場だし、自立を謳うなら手元にお金を残す方が合理的だ。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
「も、もっと時給の良いところ探すし」
「同じことじゃないの。っていうかスズちゃん、大学はどこを志望しているの?」
「芸大に通いたいんだって。ここからだと一時間半くらい」
「通えないわけじゃないけど、少し遠いのね」
「そうなんだよ。だから――」
「でもあなたの志望校は、ここから30分くらいでしょう?」
その一言に言葉を詰まらせると、お母さんは困ったように眉尻を下げた。
「祢子。お友達とルームシェアって大変よ? そりゃあなたはしょっちゅうスズちゃんの家に入り浸ってるけど、お泊りすることと一緒に暮らすことは違う。最悪の場合、仲たがいして友達じゃいられなくなることだってあるんだから」
「そんなことないよ! ボクとスズは……その、親友なんだから」
この期に及んで、つい口からそんな嘘が出てしまったことに後ろ暗さを感じる。
でも、仕方ないじゃないか。ボクとスズが愛し合ってるだなんて、この人に言えるわけがない。
「うーん。大学生って、遊び盛りよ? スズちゃんだって彼氏の一人や二人出来るかもしれないのに」
お母さんは冗談めかした調子で言ったのだろう。
けれどその言葉は、ボクの心臓を鷲掴みにするような衝撃となって突き刺さった。
「そ、んなわけ――」
否定しようとしたけれど、その先が言えなかった。
結局、カミングアウトできないでいる後ろめたさが、どこまでもボクの足を引っ張っている。
「いい、祢子。違う大学に入るってことは、違うライフサイクルや違う交友関係が出来るって言うこと。これまでのようにはいかないのよ? スズちゃんといつまでも仲良しでいたいなら、おすすめはしないわ」
お母さんの言葉は、一般論としてはどこまでも正しかった。
普通なら。
ボクとスズが普通の友人関係で、ただの仲良しの友達なら、それはきっと耳を貸すべき助言だった。
ああ、まただ。
結局どこまで行っても『普通』という壁がボクらの前に立ちはだかる。
「どうしてもスズちゃんが心配なら、週末にお泊りするだけでも十分でしょ。もう少し、よく考えなさいな」
「……うん」
情けないことに、ボクはそれ以上食い下がることができなかった。
敗走するように、ボクは自分の部屋へと逃げ帰った。




