親愛
「せっかく来たんですから、何か歌っていきませんか? ネコ先輩」
「キミ、カラオケ苦手だろ」
「あは、ちゃんと覚えててくださったんですね」
奇しくもあの時と同じ部屋、同じ席で、ボクの正面に座っているマリちゃんは嬉しそうに笑った。
背景のモニターでは、知らないアーティストの宣伝映像がループしている。
「当たり前だろ。結局三人でカラオケに来ることなんて、一度もなかったし」
「……そうですね。もしかしたら先輩たちとだったら、きっと楽しい思い出になったかもしれません」
もはや叶わない夢だと、マリちゃんは一瞬だけ笑顔を曇らせるが、すぐに表情を戻した。
「スズと、別れたんだね」
「――はい。でも、お互い話し合って決めたことです。私はちゃんと納得していますよ」
マリちゃんはドリンクバーから持ってきたオレンジジュースを一口飲む。ストローを行き来する液体の動きを目で追う姿は、どこまでも落ち着いていた。
「最初から言ってたじゃないですか。スズ先輩は二者択一になれば必ずネコ先輩を選ぶ。その時が来たんです」
スズはボクらの関係についてずっと悩んでいた。誰かに二者択一を迫られたわけじゃなく、自分で自分を追い込んで、答えを出した。そして、マリちゃんはその決断を静かに、抵抗することなく受け入れたのだ。
綺麗に筋の通った、納得できる結末だ。ボクに口を挟む余地はない。
それでも。
「それでも……一緒に悩みたかったよ、ボクは」
「ごめんなさい。でも、私も元々スズ先輩と別れるつもりでしたから、結論は変わらなかったと思います」
ピシャリと、マリちゃんがそう言い切ったので、ボクは目を丸くした。
「――え?」
「たまたまスズ先輩が切り出したタイミングが早かっただけで、私とスズ先輩の思いは一緒でした。私の方の理由は二つあって、一つ目は私が随分前から決めていたことでした。『私を幸せにしてくれそうな人が他に現れたら、スズ先輩からは身を引こう』って」
「それって、真魚ちゃんのこと? 気づいてたんだ、真魚ちゃんの想い」
「確証はなかったんですけど、なんとなくそうなのかなって。ふふ、流石にあんなすぐ告白してくれるとは思ってなくて、別れてすぐ他の女と付き合う軽い女みたいになっちゃいましたけど」
マリちゃんは愛おしそうに目を細めた。その表情には、幼馴染に向ける親愛以上の熱が確かに宿っているように見えた。
「もう一つは、私がネコ先輩のことを好きになっちゃったから、です」
「ボクを……?」
「はい」
マリちゃんは、はにかむように微笑んだ。
「私、スズ先輩とネコ先輩の二人に、世界一幸せになってほしくなっちゃったんです。だから喜んで身を引いたんですよ。スズ先輩にフられたなんて思ってないんです」
むしろフってやったんだぞと。マリちゃんは言外に、けれど力強く言っていた。
「あとはネコ先輩にいつ受け入れてもらうか、というだけの話でした。無駄に思い悩ませちゃうなら、助監督業で大変な文化祭が終わってからの方がいい。二人でそう決めたんです」
「……三人で幸せになろう、とは考えなかったんだ」
マリちゃんの話には納得できる道理があった。でも結局、ボクが一番引っ掛かっているのはそこだ。
これまでボクたち三人で、十分幸せにやってきたじゃないか。その楽しかった時間を、二人から否定されている。そんな気分になってしまうのだ。
「……『そりゃなれるもんならスズの一番がいいけどさ……』」
「――っ」
ドクリ、と心臓が跳ねた。
それはかつて一度だけ、映研の部室で桂樹さんに漏らしたボクの本音だった。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったんです。でも、聞いてしまったんです。……聞いてしまったからにはもう、他に道はありませんでした」
マリちゃんはボクの目をまっすぐに見つめる。その瞳に、迷いはない。
「妥協した幸せでは、世界一幸せとは言えません。ネコ先輩には世界一幸せになってもらわないと困るんです」
「じゃあ、全部ボクのためだって言うの?」
「ちがいます。私のためです」
マリちゃんはキッパリとそう言い切った。
「私が、大好きなネコ先輩に、幸せになってほしい。これは私のエゴです」
「それを言うならボクだってマリちゃんに幸せになってほしいよ?」
「なりますよ? 真魚と」
思わず言い返すが、マリちゃんはあっけらかんと答えた。
「妥協して真魚を選んだ、なんて思わないでください。ちゃんと真魚に愛情ありますよ? そりゃあ『一番好きか』と聞かれたらまだ微妙ですけど、『一番私を幸せにしてくれる人だ』って確信してます」
「それはまた、すごい自信だな」
思わず僕の口から笑みが漏れそうになる。
「だって、ふふ……先輩、私、真魚に『世界で二番目に幸せにして』って言ったんです。そしたら、なんて返してきたと思います?」
あれ、これは……当ててほしいってより、聞いてほしいってタイプの惚気だな?
「……なんて返したの?」
「『それは出来ない。オレはお前のことを世界で一番幸せにしたいから』ですって。……きゃー」
頬を抑えて大げさに照れるリアクションをとるマリちゃんに、ボクは一気に毒気を抜かれた。
なんだよ、あの真魚ちゃんがそんなキザなセリフ吐けるようになったのか。
「はぁ……何がまだ微妙だよ。既に真魚ちゃんのことめっちゃ好きじゃん」
「ふふ、そうかもしれません。……だから、ネコ先輩」
マリちゃんは一転、真剣な表情でボクと視線を合わせた。
「スズ先輩と二人で、世界で一番幸せになってください。さもないと私の方が世界一幸せになっちゃって、私の望みが叶わなくなっちゃいますから」
「……」
この子は、本当に強い。そして優しい。
ボクたちが罪悪感を抱かないように、自分は自分で勝手に幸せになるから気にするなと、そう言っているのだ。
ここまで言われて、ウジウジ悩んでいるのは失礼というものだろう。
ボクは「はーっ」と大げさにため息をついた後、ドリンクバーのサイダーを一気に飲み干した。炭酸の刺激が、喉の奥のモヤモヤを洗い流していく。
「わかったよ。そのかわり、ちゃんと世界で二番目に幸せになれよ?」
「はいっ。もちろんです」
そう言って笑うマリちゃんは、いつもと同じ、天使みたいな笑顔だった。




