先輩と猿夢 後編
「それは、出来ません」
と、私は先輩の両肩をつかんで、グイっその体を遠ざけた。
ミズキ先輩はキョトンとした目で、私を見つめ返す。
「どうして?」
「私、あの二人を悲しませたくありません。何があっても。だから、ごめんなさい」
と、深々と頭を下げる。
「……」
しばらくの沈黙。そして――。
「ふふ、ふ……あははっ。あははははっ!」
と、無邪気な少女のような笑い声が響いてくる。
みると、ミズキ先輩はお腹を抱えて笑っていた。
「せ、先輩……?」
「ご、ごめんなさいスズちゃん。私、ちょっとした冗談のつもりだったのに。そしたらすごく真面目に断ってくれるんだもん」
「な……」
呆然とする私の肩を、ミズキ先輩はばしばしと叩く。
「もー、私も今彼女いるんだから大丈夫よ~。映画見る前からスズちゃんすっごい私のこと警戒してたでしょ」
「な……な……」
私は全身から力が抜けるのを感じて、その場にへたり込んだ。
「か、勘弁してくださいよ先輩!」
喚く私に、ミズキ先輩は手を合わせて「ごめんごめん」と謝る。
「ホントにごめんね。スズちゃん相変わらず打てば響いてくれるから。つい」
そう言って、私が立ち上がるのに手を貸してくれた。
「でも良かった。スズちゃん、思ったよりちゃんとしてたね。もし受け入れられてたらお説教するところだったわ」
私たちは横に並び、街を眺めている。
ミズキ先輩はまたヒマワリのような笑顔に戻り、私に笑いかけてきた。
「何ですか、思ったより……って」
「だって二股してるんでしょう? 私の知らないうちにすっかり女性にだらしなくなっちゃったのかなって」
「二股は……その、ちょっとした事故みたいなもんで……」
と、私は今までのいきさつを簡単に先輩に話した。
「成程。ネコちゃんが、ねー……」
と、先輩が遠い目をして、私たちの家のある方角に視線を向けた。
「それじゃあ、私のせいでもあるわよね~」
「それは……なんていうかその、少なくともあの一瞬は先輩のことガチで好きになってたと思いますけど……」
「あら、それは嬉しいけど、あんまり惚れっぽすぎるのは褒められたもんじゃないわよ」
と、先輩は目を細めて私を見た。
「ハイ……弁えてます」
「ふふ、やっぱり面白いわスズちゃん。あの時からちっとも変ってない」
そう言って、先輩は私の頬にそっと触れる。
「あの時私、本気でネコちゃんからあなたのこと寝取ってやろうと思ってたの」
「は!?」
その言葉に私は思わず数歩分横にずれて、先輩と距離を取る。
「ああ、逃げないで。ごめんってば」
「マジで勘弁してくださいよ……」
「若気の至りってやつよ。昔から私はあなたのこと可愛いって思ってたもの」
そう言って、先輩は少し視線を下に下げる。
「ちょっと後悔したわ。ネコちゃんは会うたびに睨みつけてくるようになったし、あなたとも結局うまくいかなかった」
先輩は再び私に視線を戻して、言葉を続ける。
「でも、良かったわ。私としてはちゃんとネコちゃんと復縁して幸せになってほしかったけど……」
「それは……その、いろいろ複雑なんです」
今度は私が視線を下に向ける番だった。
「私、ホントに選べなくて……その、二人とも大事って言うか……」
ミズキ先輩は、私のことをじっと見つめている。
その視線に、なんだか心の奥底を見透かされているような気がして、私は嘘がつけなくなっていった。
かぶりを振って、続ける。
「いえ……本当は逃げてるだけ、なんだと思います。結論をずっと先延ばしにしてて、ホントはどちらかを選ばなきゃいけないって思ってはいるんです。でも、ずっと迷ってて……」
街を見ると、いつの間にか、空がきれいなオレンジ色に染まっていた。
夕焼けに浮かぶ、見慣れた私たちの街。
その美しさは、今の私の醜さを反転しているようだった。
「一人選んで、どっちかを傷つけるのが怖いんじゃなくて、自分が傷つくのが怖いだけで……私……」
声が、震えてしまう。夕陽の眩しさに、涙腺が刺激されてしまう。
だめだ、バカ。泣くな。バカ。
法月鈴音、おまえに涙を流す資格があるわけないだろ。
「最低だ……私……。こんな半端者のくせに、迷ってる友達にも偉そうなことを言ったりして……」
不意に、のんの顔が頭に浮かんだ。
今日映画に来たのも本当は、あの時の私の言葉が本当に正しかったかどうか。そんな疑問を誤魔化したくて、逃げてきただけなのに。
「お友達にアドバイスするときは、ある程度自分のことは棚上げするものよ。スズちゃん」
ミズキ先輩は。私の頭をそっと撫でる。
「あなたがどちらも選ばない選択をして、それで相手の二人が納得しているなら、今はそれでいいじゃない。いつかあなたがどちらか一人を選ぶとしても、あなたが悩みぬいて出した結論なら、きっと二人とも納得してくれる」
「先輩……」
「私もね、今、自分のことをすごく棚に上げているのよ」
そう言って、ミズキ先輩は今度は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
さっき感じたような邪悪さではなく、かといって純真でもない。小悪魔のような笑み。
「私、本当は今日、スズちゃんに会いに来たの」
「え――?」
ミズキ先輩は目を閉じて、言う。
「スズちゃん、ここの映画館好きだったでしょう? ここでしかやってない、好きそうな映画の公開初日なら、もしかしたら来るかなーって思って、朝からずっとここで待っていたの」
ミズキ先輩は私の頭から手を離し、展望台の手すりに寄り掛かった。
「私、彼女いるって言ったでしょう? 本当は今日、スズちゃんと浮気して、その証拠写真を送って、別れてやろうと思ってた」
先輩は手すりの上に両腕を組んで、その上に顎を乗せる。
「は……? どうしてそんなことを……?」
「私が悪いのよ。あの人の愛情をずっと疑って、試すようなことばかりしていたの。それがエスカレートしていって、あの人の知らない女と寝たりして。あの人はしばらく何にも知らないままでいたけれど……とうとう気づかれて、ふふ……そしたら、しばらく距離を置こう、なんて」
先輩はその姿勢を保ったまま、私を見て、力なく笑みを浮かべた。
「ね、私もなかなかのクソ女でしょ?」
「……ええと……」
なんて返せばいいかわからないが、とりあえず相手の人に同情する私がいる。
私は今までずっと理想のミズキ先輩像を心に抱いていたのだが、今日再会してからどんどん崩れ続けていて、今の話でついに土台ごと粉々に砕け散った。
「そういう話って、普通はもうちょっと相手にも非があるように話すものなのでは……?」
「事実だもの。仕方がないわ。私、私のことが好きで好きで仕方ない人じゃないとダメみたい。だからまあ、普通にスズちゃんもダメね。三股とか論外だわ」
と、先輩は半目で私を見てくる。
「はあ、それ聞いてある意味安心しました」
不意に、先輩の服の中からバイブ音が鳴る。
「ん、電話かしら。……あ……」
ミズキ先輩はポケットからスマホを取り出し、その画面を見て固まった。
「電話、誰からです?」
「……彼女から、だわ」
ミズキ先輩はぼうっと画面を見つめながらしばらく逡巡し、意を決したように通話に出た。
「……もしもし、リヒトくん?」
「……えっ?」
何か今、聞き捨てならない名前が聞こえたような。
先輩は一瞬不思議そうに私を見るが、通話を続ける。
「……うん。今地元に帰ってて……うん……うん……そうね……」
そういえば先輩は神戸の大学に通っていて、例の、リヒトさんの地元も確か神戸……いやいや考えすぎだ。偶然似たような名前だっただけに違いない。
「……はあ?」
そんなことを考えているうちに、電話をしている先輩の声色が変わっていく。
「今なんて言いました? 私のこと許すとかほざいたんですか貴女。私が全部悪いとでも言いたいんですか? 貴女私のこと愛してるとか一度だって言ったことありました? ある? 足りないっつってんだよこの野郎! 私がその何十倍言ったと思ってるんですか? 私が髪型や香水変えても全然気づいてくれませんでしたよね! 付き合ってる間ずっと寂しい思いしてたんですよ私は!」
どんどん先輩の語気が荒くなっていく。
展望台にいる人はまばらだが、すっかり注目を集めてしまっている。
私は何とか身振り手振りで先輩のをなだめようとするが、ダメだ。眼中にない。
「お前はなんだよその辺の女の子にチヤホヤされて喜んでんじゃねぇよナンパ野郎が! デートの間も女とすれ違うや色目使いやがって顔がいいからってこの野郎! この間もこっそり年下のJKに会いに行ったの知ってんだからな」
えげつないモンスターと化した先輩はもはや私ではどうにもならないので、とりあえず距離を取って他人の振りをするか……。
ただ、今のセリフの中に今もう一つ聞き捨てならない情報が入っていたような……。
「もういいわよ顔だけのクソ女が! 二度と私の前にツラ見せんじゃねぇぞ! 死ね!!」
先輩はその勢いのままスマホを床に叩きつけた。
「うわーっ! 何してんすか先輩!」
私は慌てて先輩のスマホを拾い上げ、返そうとするが、受け取ってくれない。呼吸は荒く、整えるのに時間がいりそうだ。
不意に、バキバキに割れてしまった画面を、うっかり見てしまう。
目に飛び込んできたのは、『長谷川理人 通話終了』の文字。
(げえっ、噓でしょ!?)
『私は長谷川理人です。理系の人って書いて、リト。でも周りのみんながリヒトって呼ぶから、そのままハンネにしたんだ』
思い出すのはのんちゃんとリヒトさんの別れ際の光景。
いくらなんでもできすぎた偶然に、私はめちゃめちゃ動揺している。だが、今それが先輩にバレたら輪をかけてややこしくなるのは明々白々。
なんとか先輩に悟られないようにしないと、と先輩を見る。そして、すぐに杞憂だと理解した。
「あ……」
先輩は、立ったまま涙を流し、膝を落として、自分の体を抱きしめながら震えている。
私の動揺に気づいている余裕なんてあるはずがなかった。
「せ、先輩!」
私はミズキ先輩に駆け寄り、今にも崩れそうな体を抱き留めた。
「あ、スズちゃ……」
正直120%先輩が悪いとは思うけど、関係ない。こんな姿を見せられて黙って突っ立っていたら女が廃る。
「先輩、今は何も考えず思いっきり泣いてください」
「……スズちゃん……うぅ……」
ずっと憧れていた先輩――。あんな風に怒ったり、こんな風に泣いたりするのを私は知らなかった。
ミズキ先輩は控えめに私の背中に手を回し、私の胸の中で大声で泣いた。
―――
「今日はありがとうね、スズちゃん」
先輩が泣き止んで、ビルのエントランスまで戻ってくる頃にはすっかり日が落ちて暗くなってしまっていた。
「こちらこそ、会えてよかったです」
「うん……。ごめんね、情けない所見せちゃって。もともと別れるつもりでいたんだけど、つい熱が入っちゃって……わたし、すごいメンヘラみたい」
「あ、はは……」
こういうときはあんまり否定も肯定もしないほうがいいんだろうな。と、私は曖昧に笑う。
「じゃあ、今日はこれで。私は適当に外食して帰るから。またね、スズちゃん。縁があったら、また会いましょうね」
「……はい、先輩。もし次会ったときは、私の可愛い彼女を紹介しますよ」
「あっ、いいなあ。私は新しい人を探さなきゃなのに」
「ミズキ先輩ならすぐ見つけられますよ」
「ふふ、ありがと。じゃあね」
そう言って、ミズキ先輩は私たちの家とは反対方向――繁華街のネオンに向かって去っていった。
私も踵を返し、自宅へと歩き出す。
今日もネコのお母さんが晩御飯を用意してくれているはずだ。
これからのことも考えないといけない。
なにしろのんの想い人かもしれない人が、おそらく同性いける口で、たった今フラれたばかりのフリーであることを図らずも知ってしまった。かといってこれをそのまま話すのも違う気がするし……。
数歩歩いて、振り返る。
ミズキ先輩の姿はもうどこにもなかった。
結局、先輩とは連絡先も交換しなかった。
『縁があったら』なんて言ってたけど、もしかしたら、もう会うことはないのかもしれない。
それが、少しだけ寂しかった。
私はスマホを開き、アプリのグループ通話に繋げる。
呼び出し音が数秒鳴り、二人ともすぐに出た。
『ういー、どったの?』
『スズ先輩! ネコ先輩! こんばんは。どうかされましたか?』
通話口から聞こえるネコとマリの声に、心が落ち着く。安心感で満たされていく。
「うん。ちょっと二人の声が聞きたくなってね……」
私は二人との通話を繋ぎながら、再び家に向けて歩き出した。




