これが正解
私は家のドアを開けて中に入った。
靴を脱いで洗面所へ手を洗いに行くと、リビングのドアが開いていた。
「あら、おかえり梓」
「ただいま……」
「ドーナツがあるから手を洗っていらっしゃい」
「……うん」
お母さんは機嫌を直していた。
かくいう私も華月のおかげでだいぶ気が楽になった。
感謝しかないな。
まあ、かと言って許したわけじゃないけどね。
私は手を洗ってリビングに入った。
食卓には蓮華がいた。
「お姉ちゃんおそ〜い!」
「ごめんね、蓮華」
お母さんがキッチンでドーナツをお皿に乗せて、食卓に持ってきた。
「商店街のドーナツ屋さんに行ってきたの。梓、早速お友達ができたのね」
お母さんは嬉しそうに言った。
うちの親は決して毒親ではないのだ。
「向かいに同い年の人が住んでて、街の案内をしてもらってたの」
「よかったじゃない」
お母さんはパッと明るい顔になって言った。
そして、私の前にチョコのドーナツを置いた。
一口食べると甘い味が口に広がった。
やっぱりチョコは美味しい。
出されたドーナツを爆速で食べた蓮華は私のドーナツをじっと見ている。
「チョコも食べた〜い!」
「……」
ああ、またか。
お母さんは私のドーナツを見た。
私はドーナツの四分の一をちぎって、残りのドーナツを蓮華のお皿に置いた。
一口分のドーナツを食べて、私はリビングを出た。
これが正解。
こうすれば「お姉ちゃんなんだから譲ってあげなさい」って言われなくて済む。
これが正解なんだ。
◇◆◇
黒板にチョークが削れていく音が、シンとした教室に響く。
「はい、では自己紹介して」
「一条梓です。趣味は読書です。よろしくお願いします」
私はお辞儀をしつつ、教室内を見渡した。
嬉しそうな顔をした男子と微笑んでいる男子がいた。
あ、華月と誠也だ。
「質問のある人は挙手してね」
「はーい!」
元気よく手を挙げた女子が立ち上がった。
「その制服、第一中のだけど何で引っ越してきたんですか?」
「妹がいるんですが、暴れたりして近隣住民の迷惑になっていたので引っ越しました」
自分で言っておいて、どこか味気ない声だった気がする。
教室が一瞬静かになったあと、質問をしてきた女子が「あー……」とだけつぶやいた。
反応に困ったのだろう。
そりゃそうか。
自分でも場の空気をちょっと重くしたのはわかってた。
「はいはいは〜い!!梓の好きな食べ物は?」
全員がギョッとした顔で華月を見た。
いきなり転校生を下の名前で呼び捨てにする馬鹿がどこにいるんだ。
「えっと……」
「こらこら華月いきなり呼び捨ては駄目だろ?梓が困ってる」
お前もな?
人のこと言えないよ?
内心でツッコんだが、口には出さなかった。
教室が少し笑いに包まれる。
重くなった空気が、少しだけ軽くなった。
「チョコレートが好きです」
「趣味は?」
「……読書?」
小さな声だったけど、誰かが「へぇ」と頷いたのが聞こえた。
「あっ、もうこんな時間。一条さんは後ろのドアの近くにある空いてる席に座ってね」
「はい」
私は席に向かった。
華月と誠也は私に笑顔で手を振ってくれた。
「じゃあ、次は配るプリントと連絡事項ね〜」
◇◆◇
――昼休み
私は一人でお弁当を食べようとした。
教室の隅に座って、鞄からお弁当箱を取り出す。
開けた瞬間、少し笑ってしまった。
「……また卵焼き入ってる」
お母さんは何かというと卵焼きを入れてくる。
甘いやつ。
チョコが好きだから甘いのが好きだと思われてるみたい。
でも、これはチョコドーナツとは別の甘さ。
「おーい!梓!」
声がして、振り返ると華月と誠也が手を振っていた。
「こっちこっち!一緒に食べよ!」
私は少し戸惑ったけど、鞄を持って立ち上がる。
向かってみると、席が一つ空いていた。
ここに座っていいのかな。
私はそう思いながら椅子に座った。
「……ありがと」
誠也が弁当を開けながら言った。
「お、卵焼き入ってる!俺と一緒だな」
「それ、甘いやつ?」
「いや、辛いかもしんない。母さんはおふざけでわさびやら唐辛子やら入れるから」
華月が誠也のお弁当をまじまじと見る。
何やってるんだろう。
なにか食べたいものでもあったのかな?
「あ、これ唐辛子入りじゃね?」
「マジかよ……」
「……私辛いの好きだから交換しようか?」
私が提案すると誠也はパァっと笑顔になった。
そんなに辛いのが嫌なのか。
「そっちは何が入ってるの?」
「うちのは砂糖。甘いものが好きだと思われてるみたい」
「みたい?好きじゃないのか?」
「そんなにじゃない。チョコは好きだけど」
誠也と卵焼きを交換して口に入れると、じんわりと辛さが広がってくる。
いや、これじんわりどころじゃない。
「辛っ!!」
「やっぱ入ってたか。平気か?梓」
「平気だけどこれは強烈だね」
「じゃあ今日はハバネロソースだったかも。まぁ、ありがとよ」
誠也はちょっと照れたように笑った。
その笑顔を見て、私も自然と口元が緩んだ。
◇◆◇
――数日後の放課後
私は昇降口で靴を履き替えていた。
いつの間にか、隣に華月がきてしゃがんで靴を履いている。
「今日の授業どうだった?」
「社会の先生の話が長かった」
正直にそう言うと、華月は笑った。
「だろうな。あの人有名だもん」
「そうなんだ」
「今日はちょっと寄り道しないか?」
「寄り道……?」
「近くに本屋があるんだ。読書が趣味なら気に入るかもよ」
その言葉に、私は少し心が動いた。
本屋。
そういえば最近、じっくり本を眺めることもなかった。
「……うん、行ってみようかな」
「よし、決まり!」
夕暮れの街を私達は並んで歩いた。
意外と学校から近かったからすぐに着いた。
本屋の前には小さなベンチと自販機が並んでいる。
扉を開けるとふわっとインクと紙の匂いが広がって、私は無意識に深呼吸した。
「落ち着く匂いだよな」
華月がそう言って隣で立ち止まった。
私は静かにうなずいた。
壁一面に本が並んでいて、文庫、漫画、雑誌、絵本、文房具。
いろんな世界がここに詰まっている。
「ゆっくり見てきなよ。俺はあっちで暇つぶしてるから」
そう言って華月は雑誌コーナーに向かった。
私は店の奥、絵本の棚の前に立った。
指先が一冊の背表紙をなぞる。
昔、お父さんが買ってくれたことのある絵本。
今はもう蓮華の元へ渡ってしまった。
まだ小さかった頃、寝る前に読んでもらったのを思い出す。
その時の私には妹なんていなかった。
家の中は静かで、父と母は穏やかで、私だけを見てくれていた。
いつからだろう。
誰かのために我慢することが当たり前になったのは。
ノートのことも、ドーナツのことも、小さな我慢が積もって、私はどんどん自分の気持ちが分からなくなっていた。
「……もう、我慢するのやめたいな」
心の中でぽつりと呟いた。
帰り道、私の手には小さな文庫本が一冊あった。
買うつもりはなかったけれど、レジに持って行ってしまった。
「その本、面白そうだった?」
「うん、懐かしくて……買っちゃった」
「そっか。じゃあ今度、読み終わったら貸してよ」
「……いいよ」
ふと空を見上げると、赤色に染まり始めていた。
静かに歩く。
気まずさもなければ、気を遣う必要もない。
不思議と心が軽くなっているのを感じた。
「梓ってさ、なんか……変な意味じゃなくて、我慢しすぎじゃね?」
突然の言葉に足が止まりかけた。
「……なんでそう思うの?」
隣を歩いていた華月は、少しだけ顔を上げて空を見た。
雲の向こう側をじっと見つめるみたいに。
「うーん、なんとなく。話してるとさ、梓って普通にしてるように見えるけどほんとは違うんじゃないかなって思う時あるから。何かを我慢しているような……そんな感じがするんだよ」
まるで誰にも見られずに開かないようにしていた引き出しを、そっと開けられたような。
「我慢してると、気づかないうちに自分のこと置いてっちゃうよ」
「……うん」
私は文庫本を抱き直した。
カバーの角が少しだけ曲がっているのが気になったけれど、それもどこか自分みたいだと思った。
でも、私はやっぱり分からない。
ずっと我慢が当然だったから。