表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

其の三「梅雨空に 鈴の音聞いた 恋心」

 梅雨の時期に差し掛かり、此処九士(くじ)(ちょう)も連日連夜雨が降り続いていた。


 どんよりと重い灰色の雲が立ち込め、しっとりと町全体を濡らす。


 表通りも、人が少ない。


「邪魔したな」


 居酒屋「さくら」で酒を買った嗣之進(つぐのしん)は傘を開くと、美人で評判の女将さくらに見送られて店を出た。


 ちりん、ちりん。


 雨音に混じって、小さな鈴の音が聞こえて来る。


 辺りを見回そうとした瞬間、嗣之進は軽い衝撃を覚えた。


「おっと…」


 手拭いを被り、前も見ずに脇から走って来た若い娘がぶつかって来たのだ。


「申し訳御座いませんっ!」


 頭を下げる娘を見て、嗣之進は言った。


「何でえ娘さん、やけに濡れてるじゃねえか」


「いえ、どうぞお構い無く…」


「ああ、ちょっと待ちな」


 下に落ちた小さな赤い鈴を拾った嗣之進は、娘に手渡した。


「これ、落としたぜ」


「あ、有り難う御座います…では」


 娘は鈴を帯紐にくくり付けると、再び頭を下げて雨の中を駆けて行った。


 ちりん、ちりん。


 鈴の音が、徐々に小さくなって行く。


 色白の、綺麗な娘だった。


 この近所に、あのような娘がいただろうか。


 首を傾げつつ、嗣之進は傘を差して帰り道を急いだ。





 水生(みお)の国青空(あおぞら)白雲(はくうん)にある、九士(くじ)(ちょう)


 その中央を流れる早瀬(はやせ)川沿いに、世見(せみ)道場は建っていた。


 剣術を学ぶべく、沢山の子供達が毎日元気に通っている。


 道場の創設者である二人の内、一人は世良(せら)廉太郎(れんたろう)


 明るくとっつきやすい男ではあるが、女好きで惚れ易い性格が難点。


 一寸いい女を見ると、すぐに声を掛けたがる。


 だが、廉太郎程のいい男ともなると、彼自身が声を掛けるまでもなく、女達の方から寄って来るのであった。


 同じく創設者であるもう一人は、見須奈(みすな)頼乃輔(よりのすけ)


 真面目でしっかりしており、廉太郎とは正反対の堅物な男だ。


 いつもふらふらとして頼りない廉太郎の、御守り役でもある。


 彼は過去、剣術の他に拳法も学んでいた。


 なので道場では、剣の苦手な子や剣だけでは物足りない子達に、拳法も教えている。


 十五年前に故郷の風切(かざきり)藩が取り潰され、敢え無く浪人となってしまった二人がその二年後、生計を立てる為に建てたこの道場。


 朝昼夕と三回練習時間が設けられており、現在通っている門下生は七十七名に上る。


 門下生の内、七割は町人の子供で三割が武士や百姓の子供だ。


 二人で始めたこの道場も、今は二人を含め五人の師範と、二人の師範代を抱えるまでになった。


 まずは、一人目。


 無口で無表情、自分の事は決して語らない謎の男、大神(おおがみ)欣司(きんじ)


 八年前の春、早瀬川の河川敷に血で染まった櫻の花びらに、埋もれるようにして倒れていたのを、廉太郎と頼乃輔に拾われた。


 胸に大きな刀傷を負っていた為、二人はすぐに欣司を知り合いの医者に診せた。


 その時、咄嗟に見せた鋭い目付きと、抜いた刀から放たれた殺気、そして血の匂い。


 二人は何も訊く事無く、欣司に道場の師範にならないかと誘った。


 最初は怪しんでいた欣司も、文句を言わずに此処にとどまり、現在に至る。


 二人は、未だに欣司の事を何も知らない。


 彼が一体何者なのか、八年前のあの日何故早瀬川の河川敷に倒れていたのか、そして彼を斬った人物は今何処に。


 訊きたい事は山程あったが、子供達を相手に仕事はきちんとこなしていたので、今はそれでいいと思っている。


 次に、二人目。


 (つかさ)嗣之進(つぐのしん)は、此処青空藩白雲奉行所の与力をしている父親、良左衛門(りょうざえもん)の一人息子である。


 父親の口利きで、二十歳で同心となった嗣之進。


 だが、正義感の強い彼は上役の意見が間違っている場合でも、黙って頷かなければならぬ苦を強いられる奉行所勤めを負担に感じ、五年間勤めた後に辞職する。


 新たな職を求めて、口入屋(くちいれや)遊作屋(ゆさや)」に立ち寄った嗣之進は、主人の迅壱(じんいち)から世見道場の代稽古(だいげいこ)を紹介された。


 其処で嗣之進は、あっと言う間に道場の子供達の人気者となる。


 奉行所にいた頃から人に良く相談事をされたり、男やもめの同僚が夜勤の時にはその子供を預かったりしていたので、それらの経験が役に立ったとでも言うべきか。


 最初は一月(ひとつき)だけの臨時雇いだったが、二月(ふたつき)三月(みつき)と徐々に長引いて行き、一年後には正式に師範となる事を許されたのである。


 昔も今も、相変わらず子供にだけは甘い嗣之進だが、相手が大人となると話は別。


 物事をはっきり言い過ぎる傾向もある為、彼を慕う者と嫌う者とは、きっぱり二分されるのだった。


 そして、三人目。


 風の吹くまま気の向くままに、ぶらりと旅をしていた身寄りのない浪人、八重樫(やえがし)朔也(さくや)


 大きな屋敷の勝手口から残り物をくすねたり、百姓から握り飯を分けてもらったりして何とか食い繋いでいたのだが、ついに困り果てた朔也が三年前に叩いた門が、この道場だった。


 何でもするから食わしてくれと言う朔也を、廉太郎と頼乃輔は小間使いとして雇い、道場の掃除や皿洗いをさせるつもりだった。


 だが、朔也は根っからの怠け者らしく、どれをやらせても三日坊主。


 働きもしない者に、ただ飯を食わせる訳には行かないと、困り果てていたある夜。


 たまたま開いていた朔也の部屋の隙間から、中の様子を垣間見た廉太郎と頼乃輔は、思わず目を見開いた。


 自分の刀を手入れしていた朔也は、普段の物臭な彼とは違い、凄まじく強い気を放っているように感じた。


 小間使いよりは、遙かに役に立つであろう事を確信した二人は、それ以来彼をこの道場の師範として雇う事にしたのであった。


 続いて、師範代の一人目。


 青空藩旗本(はたもと)五十嵐(いからし)翔内(しょうない)の長男、鞍悟(あんご)


 十三年前、この道場が出来た頃から通っていた鞍悟は、去年その剣の腕を見込まれて師範代となった。


 素直で正直、上の者の言う事も良く聞く心優しい青年だ。


 しかし少々のんびりしている面があり、危なっかしい所も多々あるので、廉太郎達も心配で目を離せずにいる。


 そして、師範代二人目。


 青空藩旗本長谷(はせ)竜次郎(りゅうじろう)の長男、(わたる)


 鞍悟とは幼馴染みで、十二年前からこの道場に通い続けて来た彼は、今年師範代として引き抜かれた。


 のんびり屋の鞍悟とは正反対の性格である亙は、何事にも前向きに取り組み、諦めずに頑張り通す粘り強い青年である。


 だが自信過剰で向こう見ず、猪突猛進型なので何かと世話が焼けるのであった。


 とにかく、まだまだ新米の鞍悟と亙は、毎日休む事無く道場に通っては、子供達に剣の指導をしていた。


 残りの五人はと言うと、師範は一度にそう何人も要らないので、交代で教える事になっていた。


 ちなみに、道場の二階は鞍悟と亙を除く五人の寝所となっている。


 そして、彼らを語るのに忘れてはならない事実。


 世見道場には、裏の顔があった。


 それは、殺し屋。


 蒼い月夜の晩に多く現れるので、通称蒼い死神と呼ばれている。


 しかし、その事はその筋の者のみが知る事であって、道場に通う子供達や近所の町人達が知るような事ではない。


 新米の二人は師範代になった今も、その事実を知らされてはいなかった。


 だが二人とも、もう大人しく言われるがままに竹刀を振るだけだった頃の子供ではない。


 師範達が、道場以外の表沙汰には出来ない仕事を請け負っているであろう事は、嫌でも感じざるを得なかった。


 しかし十三年、あるいは十二年もの間、師範達を信頼してついて来た二人は、たとえそれが殺しであったとしても、決して間違った行いではないのであろう事を信じていた。


 だからこそ、敢えてこちらからは何も訊く事なく、今後も共に歩んで行こうと心に決めたのだ。


 勿論、二人は実際に人を殺めた事はまだない。


 廉太郎達も、二人が殺しの依頼を引き受けるか否かを決めるのは、俺達が死んでからでいい…と考えている。


 尤も、剣の腕も五人の師範に比べれば遙かに未熟な為、殺しはまだ無理だった。


 兎にも角にも、依頼が無い時の道場は至って平和であり、門下生達も伸び伸びと練習に勤しんでいるのである。





 まだ元服前の年若い男が、暮れ掛かった夜道をしとしとと降る雨に打たれながら、家に向かって歩いていた。


「やはり、番傘を持ってくれば良かった…」


 名は、若村(わかむら)友臣(ともおみ)


 世見道場の夕練習に参加している門下生で、通い始めてからもう十年が経つ。


 真面目で思いやりもあり、年下の子供達からも好かれている。


 父の臣匡(おみただ)は白雲奉行所の筆頭同心、一回り以上年上の兄靖臣(やすおみ)は与力と言う役人一家だ。


 今日も練習を終えた友臣は、人通りの少なくなった早瀬川沿いの土手を、一人急いでいた。


 絶え間無く降る霧のような雨は、友臣の髪や肩を徐々に湿らせて行く。


「くしゅっ…」


 友臣は、思わずくしゃみをした…その時。


 ちりん、ちりん。


 背後で、鈴の音が聞こえた。


「誰だ!」


 咄嗟に振り返った友臣の目の前には、若い娘が立っていた。


 年の頃も、友臣と同じくらいだろうか。


 ちりん、ちりん。


 娘の帯紐に、小さな赤い鈴が付いている。


 友臣は、慌てて言った。


「か、かたじけない!何処の曲者かと思い、つい怒鳴ってしまった…」


「いえ…あの、宜しかったらどうぞ」


 娘は、自分が差していた傘を友臣に差し出した。


「いや、しかし…」


「遠慮なさらずに…」


 戸惑う友臣に傘を押し付けると、娘は雨の中を走って行ってしまった。


 友臣が止める間もなく、娘の姿はすぐに見えなくなった。


 溜息をつき、ぎゅっと傘の柄を握る。


「一体、何処の娘さんだろう…綺麗なお方であったな…」


 頬の熱さを感じつつ、友臣は娘の去って行った道をいつまでも見つめていた。





 翌日。


 道場の帰り道、友臣は再び娘に出会った。


「あのっ!」


 今度は、友臣から声を掛ける。


 振り向いた娘は、驚いて言った。


「貴方様は、昨日の…」


「ああ、お会い出来て良かった。この傘をお返ししたかったのだが、何処の何方だかお訊きするのをすっかり忘れていて…是非とも、礼がしたい」


「お礼だなんて、そんな…」


 傘を受け取った娘は、困ったようにはにかんでいる。


 友臣は、ふと娘が手にしている薬の袋を見やった。


「御家族で、何方か病に(かか)った方でも?」


 娘は、薬の袋をぎゅっと胸に抱きしめて言った。


「弟が、体が弱くて…」


「しかし、それだけ沢山薬が買える御家柄なのだったら、弟君もすぐに良くなる事であろう…御両親は、何か御商売でも?」


 友臣の質問に、娘は沈んだ声で答えた。


「両親は、亡くなりました」


「それは、済まない事を!」


「お気になさらないで下さい」


 共に歩きながら、友臣は言った。


「私は、若村友臣と申すのだが…貴女の名は?」


「私は…りんと申します」


 友臣は、おりんを見つめた。


 おりんも、友臣を見る。


「今度、家へお寄り下さい!その、傘の礼もしたいので…」


「ですが、御武家様の御宅に私のような者が…」


「そのような事は、一向に構いません!もし気になるのでしたら誰にも見つからぬよう、私が取り計らいます故!」


 それを聞いて嬉しそうに頷いたおりんを見て、友臣は満面の笑みを浮かべた。


「では、私はこれで…」


 分かれ道で頭を下げたおりんは、足早に去って行った。


 友臣は、その後ろ姿をいつまでも見送った。


「おりんさん…か」


 今までにない胸の高鳴りを覚える、友臣であった。





 師範の廉太郎は、腕を組んで唸っていた。


 何やら、考え込んでいる様子である。


 視線の先には、友臣の姿。


 其処へ、朔也が帰って来た。


「おっ!皆、頑張ってやっとるな!」


 夕練習の門下生達を見回しながら、妙に上機嫌である。


「朔也、お前飲んで来たな?そうやって、自分ばっかり…」


 廉太郎が、拗ねたような顔をする。


 朔也は、笑って言った。


「はっはっは、御名答!ひっく…」


「何でもいいが、邪魔だけはするなよ…分かったら、さっさと部屋に戻ってろ」


「へいへーい、どうせ俺は邪魔者ですよーだ。ひっく…」


 不貞腐れながら、朔也はよろよろと二階へ上って行った。


 再び廉太郎は、友臣を見る。


 何処か上の空で、練習にも身が入っていない。


 此処数日間はそのような状態が続いていると、先日頼乃輔も言っていた。


「友臣」


 廉太郎は、友臣を呼んだ。


「え…は、はいっ!」


 我に返ったように返事をした友臣は、慌てて廉太郎の許へ駆け寄った。


「お前、最近集中力が散漫になっているようだが、何か気に掛かる事でもあるのか?」


 驚いた友臣は、焦って言った。


「い、いえ、そのような事は何も…」


「本当か?」


 廉太郎が、念を押して訊く。


「は、はい…」


 小さく頷く、友臣。


 廉太郎は、溜息をついた。


「だったら、きちんと練習に集中しろ。他の門下生達は皆、真剣に取り組んでいるのだ。一人でもいい加減な気持ちの者がいると、場の空気が乱れる。やる気がないのなら、今すぐ辞めてもらっても構わないのだぞ」


 友臣は、はっとして頭を下げた。


「も、申し訳御座いませんでしたっ!以後気を付けますので、どうぞお許しをっ!」


 必死に謝る友臣の肩を、廉太郎はぽんと叩いた。


「分かればいい。さあ、練習に戻れ」


「はいっ!」


 元気良く返事をして練習を再開した友臣ではあったが、やはり何処かおかしい。


 他の門下生達を指導していた鞍悟と亙も互いに顔を見合わせ、友臣の様子を黙って窺っていた。





 翌日の、昼餉の後。


「なあ、鞍ちゃん…」


 米が無くなったので廉太郎に使いを頼まれた鞍悟と亙は、道場の門下生でもある、お(ふゆ)の一家が営む米問屋「俵屋(たわらや)」から引き取った大きな米袋を背負って、道場へ帰る所だった。


 肩の米袋を担ぎ直しながら、亙に呼ばれた鞍悟が振り返る。


「最近の先生方は、人使いが荒くはないか?」


 雑用の量が日に日に増えて行くのが、亙は気に食わないらしい。


「まあ、わた坊…これも、仕方があるまいよ」


 鞍悟は、笑って言う。


「昼餉は道場で賄ってもらっているのだし、夕練習が長引いた日には夕餉まで馳走になっているのだ。その上お給金まで頂いているのだから、これくらいの使いをした所で罰は当たらんさ」


「それは、そうだが…」


 それ以上何も言えず、亙は口ごもってしまった。


 その時。


 鞍悟は突然立ち止まり、慌てて亙を路地裏へ引きずり込んだ。


 驚く亙に、鞍悟は言った。


「わた坊…ほら、あれ…」


 亙は、鞍悟が指差す方向を見た。


 其処には友臣と、同い年くらいの綺麗な娘の姿があった。


 二人で楽しげに、仲睦まじく歩いている。


 ちりん、ちりん。


 娘の帯紐に付いた小さな赤い鈴が、可愛らしい音を立てた。


「友臣の奴、いつの間にあのような綺麗な娘さんと…」


 何故か悔しがる、亙。


「見掛けない娘さんだな…」


 鞍悟が、首を傾げる。


 亙は、むすっとしながら言った。


「そろそろ、昼練習が始まる。ぐずぐずしていては、見須奈先生に叱られてしまうぞ…行こう!」


「え…わ、わた坊?」


 焦る鞍悟を置いて、亙はさっさと歩き出した。





 今日の練習も無事に終わり鞍悟と亙が帰った後、夕餉を食べながら五人の話題は友臣の事になった。


「はぁーっ?こ、恋煩いーっ?」


 朔也が、口から飯粒を飛ばして叫ぶ。


「おい、朔也っ!汚ないなあ、全く…」


 頼乃輔が顔を顰めるのを見ながら、嗣之進は言った。


「つい先程、帰り際に五十嵐と長谷から聞いたんですよ。若村が、綺麗な娘さんと真っ昼間っから町ん中歩いてたって…何でも、この近所じゃ見掛けない娘さんらしいんですがね」


「そうらしいな。俺も今朝、練習が始まる前に二人から聞いて驚いたよ」


 と、頼乃輔。


「へぇーっ。道理で最近、覇気がなかった訳だ…」


 そう言って、肩を竦める廉太郎。


 嗣之進は、話を続ける。


「実は俺も、その娘さんには心当たりがありましてね。この前、さくらで酒を買った帰り道にぶつかったんですよ。その時、小さな赤い鈴を落としたのを拾ってやりまして…確かに見掛けねえ顔だったし、五十嵐達も帯紐に赤い鈴を付けてたって言うんで、恐らくその娘さんに間違いはありません」


「赤い鈴ねえ…」


 ちびちびと酒を飲みながら、呟く朔也。


 欣司は、無表情で言った。


「何にせよ、下らん事に現を抜かしているような奴は、剣を学ぶ資格等ない…明日の道場は俺の番だ、みっちりしごいてやる…」


「おお、怖っ…」


 朔也は自分の肩を抱き竦め、震えて見せた。


 頼乃輔は、笑って言う。


「欣司、まあそう言うな。あの年頃と言うのは、ああ言う風に女子(おなご)に興味を持ちたがるものなのだ。誰しも、通って来た道ではないか」


「そうそう!廉ちゃんなんか、未だに女と見れば見境無し…」


「こら、朔也!」


 つい口を滑らせた朔也に、廉太郎は拳を振り上げた。


「だぁーって、ほんとの事だろーっ!」


 と、朔也。


 すると、皆をぎろりと睨みつけた欣司は突然立ち上がり、二階へ上って行ってしまった。


「あ…き、欣ちゃん?」


 拍子抜けした朔也が、階段の方を覗き込む。


「どうしたんだ、欣司は…」


 頼乃輔が訊くと、嗣之進は首を傾げた。


「さあ…しかし、大神さんほど女が似合わねえお人もいませんからねえ」


 廉太郎は、腕を組んで言った。


「俺には、分かるぞ…ありゃあ、本人の知らない所で相当の数の女が泣いているな」


「かーっ!流石は廉ちゃん、もてる男は違うねえ!もしそれが本当なら、普段あんな格好つけちゃってる欣ちゃんてえお人も、隅にゃあ置けねえわなあ?」


 そう言って、朔也はぐいっと酒を飲み干した。


 頼乃輔は、溜息をつく。


「まあ恋煩いも悪いとは言わんが、とにかく友臣には道場での練習の時くらいは、しゃきっとしてもらわねばなあ…その娘さんにのめり込んで練習が疎かになり、欣司に殺されてしまっては元も子もないし…」


「こ、殺すって…欣ちゃんが?まさか、そんなあ!あは、あはははは!」


 と朔也は笑ったが、嗣之進は真面目に言った。


「いや、大神さんならやりかねねえな…」


「嘘っ…」


 ごくりと唾を飲み込む、朔也。


 嗣之進は、酒を注ぎながら言う。


「あまり酷いようなら、我々からも若村とその娘さんに、注意した方がいいんじゃねえですかい?」


「んな、大袈裟な…」


 そう言う朔也に、廉太郎は首を横に振って見せた。


「いや…いくら練習とは言え、あのように心此処にあらずでは、大怪我もしかねない。剣の道に、色恋沙汰は御法度なのだ」


 それを聞いて、肩を竦めた朔也は手酌で酒を注ぎ、再び一気に飲み干した。





 翌日。


 欣司の怒りを何とか抑えて、無事一日の練習を終えた鞍悟と亙は、友臣と共に帰った。


 友臣の心の内を探る為、廉太郎の考えで此処はやはり年の近い鞍悟と亙に任せよう、と言う事になったからだ。


 三人は道場を出ると、水溜りの残る早瀬川の土手を歩き始めた。


「しかし…久しぶりで御座いますね、先生方」


 友臣からそのように話を振られた鞍悟は、笑って言った。


「よしてくれよ、友臣…練習さえ終わってしまえば、私達は昔の通りだ。なあ、わた坊?」


「え…あ、ああ、勿論だ」


 慌てて、亙も頷く。


 友臣は、安心したように微笑んで言った。


「では、鞍さんに亙さん…こうして三人で帰るのも、一年ぶりくらいでしょうか」


 亙も、思い出しながら言う。


「去年、鞍ちゃんが師範代になって以来だから…やはり、一年ぶりだな。三人で遅くまで先生方に稽古をつけてもらい、この早瀬川に映る月を見ながらよく帰ったものだ」


「懐かしいですね…」


 そう言って、友臣は夜空を見上げた。


「なあ、友臣…」


 鞍悟は、遠慮がちに訊いた。


「お前、何か悩み事があるのではないか?その…頼りないかもしれんが、私達で良かったら相談に乗るぞ」


 鞍悟にそう言われ、友臣は俯いた。


「まあ、無理にとは言わん…しかし十年前からの付き合いではないか、我々三人は。少しでも、お前の役に立てたらと思っているのだ」


 亙もそう言って、友臣の肩に手を置いた。


 顔を上げた友臣の頬は、心無しか赤く染まっている。


「お二人には、敵わないなあ…」


「友臣、遠慮無く打ち明けてみろ!」


 亙にそう言われて、友臣は静かに口を開いた。


「まず最初に、お訊きしたい事が御座います」


「何でも、訊いてみろ!」


 亙は、すっかり兄貴風を吹かせている。


「お二人は、心に決めた女子がおりますか?」


 鞍悟と亙は、目を丸くした。


「そうですよね、お二人にそのようなお方がいらっしゃらない訳が無い。野暮な事をお訊きしてしまいました、申し訳御座いません」


 謝る友臣を見て、顔を見合わせる鞍悟と亙。


「でしたら、きっとお二人にはお分かりになるのでしょうね…しかし、私は初めてなのですよ、このような気持ちは!私はあの方の事を想うと夜も眠れず、飯も喉を通らず、読み書きをやっても剣をやっても、何もかもが身に入らないのです!」


「恋…したのだな?」


 鞍悟にそう言われて、友臣ははっとした。


「そうか…これが、恋と言うものなのですね?何て切なく苦しく、甘いものなのだろうか!」


 空に向かって叫ぶ友臣を、鞍悟と亙が唖然としながら見つめる。


「ですが、あのお方とどのように接したら良いのか分からないのです!どうも、意識してしまって…」


「だが、この間はあんなに楽しそうだっ…あ、つまり、その…」


 口ごもる亙を制して、鞍悟は言った。


「偶然見掛けたのだ、綺麗な娘さんと歩いている所を…」


 途端に、友臣は顔を赤らめた。


「御存知だったのですか?何だ…お二人とも、人が悪いなあ」


「楽しそうにしているなとは思ったが、まさかお前があの娘さんに想いを寄せているとは…ははは!」


 そう言って、鞍悟は引きつった笑みを浮かべた。


「だが…あの様子から言って、娘さんの方も満更ではなさそうだったな」


 亙にそう言われて、友臣はぱっと顔を明るくした。


「そう思われますか、亙さんっ?」


「えっ?あ、ああ…」


 亙が頷くと、鞍悟も続けて言った。


「私もそう思うぞ、友臣。しかし…見掛けない顔だったが、どちらの娘さんだ?」


 友臣は、思い出しながら言う。


「詳しい事は存じませぬが、確か大波(おおなみ)(ちょう)にある成美屋(なるみや)に奉公しているとか…」


「大波町…何でまた、この町に来るように?」


 鞍悟の質問に、友臣は答えた。


「あの方はおりんさんと仰るのですが、弟さんが一人いらっしゃって。体が弱いそうなのですが、診察代が莫迦にならない。其処で、近所でも評判だった九士町の永翠(えいすい)先生に診て頂き、以来ずっとお世話になっているらしいのです」


北条(ほうじょう)先生のお噂は、二つも向こうの大波町にまで広まっているのか…」


 亙が驚くと、鞍悟も頷いて言った。


「あの先生は、良心的なお方だろう?適切な処置を取って下さるし、貧乏な百姓でも芋一個で見て下さる…噂が広まるのも、当然だよ」


 すると。


 ぽつり、またぽつりと雨が降って来た。


「あ、雨ですね…鞍さん、亙さん。私の拙い話を聞いて頂き、誠に有り難く存じました。傘も持ち合わせておりませんので、今宵は此処で失礼致します…では!」


 二人はすぐに叫んだが、走って行った友臣の姿は既に雨に煙って、見えなくなっていた。


「おい、鞍ちゃん…本降りになって来たようだぞ」


 雨粒を払いながら、亙は慌てて近くの軒下に駆け込んだ。


 小降りだった雨は、段々強まって来る。


 続けて軒下に入った鞍悟は、息をついた。


「傘、持って来て良かった。わた坊入れよ、送って行こう」


 肩を竦めた亙は、素直に礼を言った。


「ああ、すまんな」


 二人は一つの傘に入り、雨の中を歩き出した。





 翌日。


 昨日の友臣の件を報告する、鞍吾と亙。


「やはり若村の奴、あの娘さんの事が…」


 嗣之進は、にやりと笑った。


「友臣曰く、何をやっても身が入らないと言った状態だそうで…なあ、わた坊?」


 門下生の竹刀を手入れしながら、鞍悟が亙に同意を求める。


 亙は竹刀を構え、ひたすら打ち込みをしながら言った。


「全くっ、あの舞い上がりようっ…宰様にもっ、お見せしたかったですよっ!」


「どうした長谷、やけに機嫌が悪いじゃねえか」


 嗣之進が、ちらりと亙を見る。


「なっ、何を仰っているのですか、宰様っ!私はこの通り、心乱れる事無く常に平常心を保つよう、日頃から心掛けておりますっ!誤解を招くような発言は、お控え下さいっ!」


「何でえ、そう言いながらも普段以上に息巻いてるじゃねえか…」


 鞍悟は、嗣之進の耳元でそっと囁いた。


「恐らく、友臣に先を越されて悔しいのですよ。私もわた坊も、恥ずかしながらそのようなお方はまだおりませぬ故…」


「何か言ったか、鞍ちゃんっ!」


 亙が、敏感に反応する。


「いや、別に。さてと、そろそろ夕練習の門下生達がやって来る頃だ…」


 鞍悟は、逃げるようにして奥の部屋に入って行った。


 眉間に皺を寄せる亙を見ながら、嗣之進は思わず吹き出していた。





 その頃、朔也は一人でさくらに来ていた。


「女将、酒!」


「ねえ、八重樫様…ちょいと、飲み過ぎじゃないの?」


 使用人のお(たみ)が、心配そうに言う。


 朔也は、へらへらと笑った。


「いいんだよ、これくらい…最近、雨が続いてんだろ?だから遠出も出来ねえし、かと言って道場に籠もってたって、自分が教える日以外は暇だし。となると、此処に飲みに来るくらいしか楽しみがねえんだよなあ」


「はい、八重樫様」


 酒を運んで来たさくらが、朔也に酌をする。


 さくらに注いでもらった酒を、ぐいと飲み干す朔也。


 銚子を置いたさくらは、沈んだ声で言った。


「世良様は、どうしていらっしゃるの?此処最近、とんと御無沙汰じゃないのさ…」


「はぁーっ?」


 朔也は、不機嫌そうな声を出した。


「ったく、何処の店の女も世良様世良様って…皆、廉ちゃん目当てかよ!たまには『八重樫様は、どうしていらっしゃるのかしらぁ!今すぐにでも、お会いしたいわぁ!じゃなきゃ、あたい死んじゃうーっ!』くらい、言われてみてえもんだぜ!」


「だって八重樫様、こっちが見飽きるほど何度もいらっしゃるんだもの」


 そう言って話に入って来たのはさくらの娘、おはるだった。


「っんだよ、おはる…相変わらず、はっきり言っちゃってくれるねえ」


 朔也が苦笑いすると、おはるは胸を張って言った。


「これも、はっきり言えるわ。世良様は、役者になってもおかしくないくらいの美形。でも、八重樫様は…そうね、強いて言うなら冴えない浪人ってとこかしら」


「それ、今のまんまじゃん…」


「まあ、そう言う事。世良様のようになりたいんなら、まずは内面から磨いたら?」


 言うだけ言って、おはるは奥へ戻って行った。


「くっ…十も下の娘に此処まで言われて、言い返せない自分が虚しい」


「そう、落ち込まないで下さいな。八重樫様には、八重樫様のいい所があるんだから…多分。まあ、よくは分からないけど。だから元気出して頂戴、ね?」


 そう言って朔也の肩をぽんと叩いたさくらも、奥へ戻って行く。


 一瞬考え込んだ朔也は、更に落ち込んだ。


「あの親子に、揃って莫迦にされたような気が…あーあ、どうせ俺は冴えねえ浪人ですよーっだ!」


 愚痴っぽくなって来た朔也を見て、お民は呆れながら他の客の相手を始めた。


 朔也は酒を飲みながら、ふと窓の外を見た。


 向かいの店の軒下に、一組の男女が雨宿りをしている。


 二人ともまだ若く、楽しそうに喋りながら薄暗い空を見上げていた。


「けっ!餓鬼のくせに、雨ん中いちゃいちゃしやがって…生意気なんだよっ!」


 朔也は立ち上がり、黙って窓の外へ唾を吐きかけた。


 ちりん、ちりん。


 微かに、鈴の音がする。


 目を凝らしてよく見ると、女の帯紐に小さな赤い鈴が付いていた。


 はっとした朔也が、女の顔をもっとよく見ようと窓にしがみついた時、二人は寄り添うようにして雨の中を駆けて行ってしまった。


「あっ…だぁーっ、くそっ!」


 悔しそうに舌打ちをした朔也は、席に戻って酒を注いだ。


「人違いかなあ…だが此処らじゃ見ない娘だったし、あの赤い鈴…」


 朔也はあの赤い鈴を見て、先程の若い女が友臣の相手ではなかったのかと、瞬時に思ったのだ。


 しかし、友臣ではない別の若い男と一緒にいるのを見て、急に確信が持てなくなったのである。


 雨で煙る表通りを見つめながら、朔也は再び酒を飲み始めた。





 鞍悟と亙は、開いた口が塞がらなかった。


 朔也は、口を尖らせる。


「何だよ…俺の事、疑ってんのか?」


「そう言う訳では、ありませんが…」


 鞍悟は、口ごもりながら言った。


「八重樫殿はその時、お酒を召し上がっていらしたんですよねえ?」


「だから、何だ!」


 朔也は、踏ん反り返って言う。


「酔っ払いの言う事は、信用出来ないってか?」


「出来ませんねっ!」


 亙は、きっぱりと言い切った。


「あんな綺麗で人の良さそうな娘さんが、そのような事をなさる筈がないっ!それに第一、友臣が!友臣が、あまりにも、その、可哀想ではありませんかっ!あのように、真剣に想い詰めている、友臣が…」


 それっきり黙り込んでしまった亙を見て、朔也は言う。


「でもよお、確かに帯んとこに赤い鈴付けてたんだぜ?此処らじゃ見掛けねえ娘だったし、雨で霞んでよく見えなかったけど綺麗な顔立ちしてたぞ…多分。あれは絶対、友臣のこれだって!」


 自信あり気に小指を突き出して見せる朔也に、鞍悟は言った。


「分かりました。ではそれが仮にその娘さん、つまりおりんさんだったとして…本当に、別の男といたのですね?」


「ああ、本当だ。何つーか遊び人風の、柄の悪そうな男だったなあ…けど、娘の方も楽しげに笑ってたぞ」


 朔也の話を聞いて、亙は拳を握り締めた。


「くそっ!身分も(わきま)えず、武士である友臣を莫迦にしおって…あの娘っ!」


「まあ、おりんさんにどう言った事情があるのかは存じませんが…この事は、友臣には黙っておいた方が良さそうですね」


 鞍吾の意見に、朔也も同意する。


「ああ、そうだな…おい、わた坊!お前も、絶対に言うなよ!」


「分かってますよっ!」


 朔也に怒鳴った亙は、立ち上がって打ち込みを始めた。


「八重樫殿にだけは、言われたくないっ!」





 朔也達が、そんな話をしていた頃。


 その真上である道場の二階では、廉太郎と頼乃輔が部屋の掃除をしていた。


「こう雨が続くと、今のような一瞬の晴れ間を見計らってしか掃除が出来んから、不便だな」


 そう言って窓の外をぼーっと眺めている廉太郎に、頼乃輔が注意する。


「口はいいから手を動かせ、手を。先程から、窓の外を眺める事しかしていないではないか」


「ははは…まあ、そう言うな」


 笑いながら道場の表門を見下ろした廉太郎は、慌てて頼乃輔を呼んだ。


「よ、頼さん!」


「今度は、何だ…庭の紫陽花に止まっていた蝸牛が、空でも飛んだか?」


 頼乃輔はそう言って、ぱたぱたと羽ばたく真似をして見せた。


 しかし表情は真剣で、瞳の奥は怒りに満ちている。


 溜息をついた廉太郎は、頭を抱えて言った。


「分かった分かった、俺が悪かったよ。頼むから、機嫌を直してくれないか…この通り!」


 手を合わせて頭を下げる廉太郎を見て、頼乃輔は肩を竦めた。


「いや、廉さんを駆り出した俺が悪かったのだ。普段なら嗣之進に手伝ってもらう所だったのだが、今日はお父上に呼び出されて番屋へ行ってしまっただろう?だから朔也よりは役に立つであろうと、廉さんに頼んだのだ。しかし…どうやら、俺の見込み違いだったようだな」


「おいおい!」


 廉太郎は、慌てて言った。


「それ以上の皮肉は、勘弁してくれよ。朔也と同類…いや、それ以下だと思われた時点で俺は既に、最も重い制裁を与えられたと言っても、過言ではないんだぞ?」


「それ、下にいる朔也が聞いたら何と言うやら…」


 頼乃輔は、笑いを堪えている。


「そんな事より早く、こっちへ来てみろ」


 廉太郎に手招きされ、頼乃輔は渋々窓に近寄った。


「何だ、何処に蝸牛がいる?」


 廉太郎は、むっとして言った。


「頼さん、しつこいぞ…ほら、あれ見てみろ」


 頼乃輔は、廉太郎が指差す方向を見た。


 道場の表門の所で、友臣と若い娘が立ち話をしている。


「夕練習までは、まだ時間があるだろうに…友臣の奴、もう来たのか?」


「頼さん、俺が言いたいのはそう言う事ではないんだがなあ…」


 苛つき始めた廉太郎を宥めて、頼乃輔は言った。


「冗談だよ…あの娘か?赤い鈴を付けた、友臣のお相手と言うのは」


 頷く廉太郎。


 友臣達の様子を見ながら、頼乃輔は言った。


「確かに、綺麗な娘さんだな。友臣も、嬉しそうな顔をしているし…まあ、似合いの二人ではあるが」


「しかし、だからと言って練習を怠っていいと言う理由にはなら…」


 其処まで言い掛けた廉太郎は、急に黙り込んだ。


 不審に思った頼乃輔が、顔を覗き込む。


「何だ…どうした?」


 廉太郎は此処から少し離れた所に建っている、小さな空き小屋の方を見て言った。


「彼処の、軒下に立っている男…」


 頼乃輔も、そちらを見る。


 確かに、男が立っていた。


 まだ若い、遊び人風の男だ。


「誰だ、一体…心無しか、友臣達を見張っているような気もするのだが」


「俺も、そう思った」


 頼乃輔の言う事に、廉太郎も同意する。


 男は、軒下に突っ立っているだけのように見えたが、時々ちらちらと友臣達の様子を窺っていた。


 無論、二人は話に夢中で全くと言っていいほど、男の存在に気付いてはいない。


「まだ若いくせに、妙に柄の悪い男だな…友臣やあの娘さんが、何か厄介な事に巻き込まれていないと良いのだが」


 そんな頼乃輔の心配を余所に、廉太郎は何やら一人でにやけている。


「頼さん、あれ見てみろよ」


 頼乃輔の肩に手を置いた廉太郎は、再び窓の外を指差した。


 男が立っている小屋の、更に向こう…土手沿いに二、三並んでいる地蔵の前に、何と欣司がしゃがみ込んで、花を供えているではないか。


「欣司の奴、自分が地蔵に花を供えるような人間かどうかってのをきちんと考えた上で、あのような行動を取っているのだろうな?」


 頼乃輔が真剣な表情で訊くと、廉太郎は笑いを必死に堪えて答えた。


「頼さん、そう言うのを愚問を言うのだよ…きちんと考えていたら、あんな事する訳がない」


「しかしあの様子を見るに、欣司は大分前からあの若い男を尾行していたと見える…其処ら辺の勘の鋭さは、流石と言うべきか」


 頼乃輔は、感心しながら欣司の様子を窺った。


 廉太郎も、頷いて言う。


「確かに。こう言う時の欣司の洞察力と言うか野生の勘は、凄まじいものがあるからなあ…」


 二人は暫くの間、外の様子を眺めていた。





 料理茶屋「壽美屋(すみや)」の暖簾が、ひらりと捲れる。


 入って来たのは、嗣之進だった。


 この店は、忍びの里出身で今は依頼で密偵を務める鬼一(きいち)と、同じく元忍びのお壽美(すみ)夫婦が二人で切り盛りしている。


「嗣さん、一人?」


 使用人のお三音(みね)が訊くと、嗣之進は逆に訊き返した。


「何でえ、お三音…お前も、一人か?」


「だってえ…連日のこの雨で、客足もぱったり途絶えちゃってさあ。あんまり暇なもんだから、女将さんってばお由奈(ゆな)ちゃんとお璃乃(りの)ちゃんに、ずっと休みあげられなかったから、四、五日ゆっくりしてらっしゃい、なんて言っちゃうんだもーん」


 嗣之進は、側の椅子に腰掛けた。


「じゃあ、二人とも暇取ったってえ訳かい?」


「そう。当の女将さんも、親分の仕事を久しぶりに手伝うんだとか言って、二人でどっか行っちゃうし…店の方は、あんた達三人で何とかやって頂戴だなんて、ちょっと無責任過ぎない?」


 そう言って、お三音は口を尖らせている。


 肩を竦めながら、嗣之進は誰もいないがらんとした店内を見回した。


「で、風佑(ふうすけ)飛朗(とびろう)は?」


「風さんは真面目だから、奥で座敷の掃除。飛さんはいい加減だから、自分の部屋でごろ寝してる」


 嗣之進の質問に答えながら、お三音は茶を出した。


 この店で働いている面子の内、まだ年若いお由奈とお璃乃は事情を知らないが、お三音、風佑、飛朗の三人はその名を轟かす忍びの鬼一の弟子でもある。


 彼らは蒼い死神である五人の密偵として、常に協力を惜しまない心強い味方だ。


「ところで…久しくお顔見てないけど、皆さん元気?」


「ああ…特に、朔也はな」


 それを聞いて、お三音はすぐに朔也の顔を思い浮かべた。


「いいなあ、朔さんは…こんな雨の日でも、お構いなしに元気一杯だなんてさ」


 嗣之進は、にやりと笑った。


「それ…正直、褒め言葉にはなっちゃあいねえよなあ?」


「あ、やっぱり?」


 お三音も、ぺろりと舌を出す。


 その時、二階から階段を下りて来る足音がした。


「お三音、戸口が開く音がしたが誰かお客さ…あれ、宰の旦那っ?」


 寝惚け眼の、飛朗だった。


 嗣之進は、笑って言う。


「よう、飛朗…何て顔、してやがるんでえ。この雨のせいで、薄暗いから気が付かなかったのかもしれねえが、お天道様はとっくに昇ってる時間なんだぜ?」


「はあ、お恥ずかしい限りで…」


 恐縮しながらお三音の隣に腰掛けた飛朗は、向かいに座る嗣之進に訊いた。


「それより旦那、昨日見掛けましたよ。あっしの見間違いじゃないなら、番屋へ参られましたよねえ?」


「えーっ!ば、番屋へ?」


 驚いたのは、お三音だ。


「ちょっ…嗣さんっ!まさか、何か悪い事しちゃったの?」


「する訳ねえだろ、莫迦野郎」


 そう言って笑った嗣之進は、ふと小声になった。


「それが、久しぶりに父上に呼び出されちまってなあ…」


「よ、与力の宰様に…ですかい?」


 目を丸くした飛朗が、お三音と顔を見合わせる。


 嗣之進は、頷いて言った。


「父上が、何気無しに言うんだよ。同心に戻らないか、ってな…」


『えーっ?』


 飛朗とお三音は、同時に声を上げた。


「それで嗣さん、何て答えたの?」


 お三音が恐る恐る訊くと、嗣之進は言った。


「んなもん、断わったに決まってるじゃねえか。嫌でやめたんだ、二度と戻る気はねえよ」


 飛朗は、腕を組んで唸る。


「それにしたって、宰様も旦那が同心をやめてからこの五年間、一度だってそんな事仰らなかったってのに、何故今頃になって突然…」


「いや、それには訳があってな…」


「訳?」


 お三音が、訊き返す。


 嗣之進は、頷いて言った。


「二人とも…黒蜘蛛(くろぐも)、って覚えてるか?」


「確か十二、三年前に現れた、盗賊集団ですよね?」


 そう答えたのは、奥の座敷の掃除を終えた風佑だった。


「おう、風佑か…精が出るな」


 嗣之進に頭を下げた風佑は、隣に腰掛けた。


「で、その黒蜘蛛がどうかなさったのですか?」


 茶を一口飲んだ嗣之進は、静かに話し始めた。


「風佑の言った通り、黒蜘蛛は十三年前に現れた盗賊だ。多い時で五十人くらいいた奴らは、金持ちの家に夜中忍び込んでは、金品を奪って行く…父上達も駆り出され、当時は役人が総動員で張り込んだんだが結局捕まらず、その後十年もの間黒蜘蛛は悪事を働き続けた」


 お三音達は、黙って嗣之進の話を聞いている。


「しかし三年前、黒蜘蛛の隠れ家を奉行所に密告した男がいたんだ。黒蜘蛛の一味だった、平三(へいぞう)だ。十年間やりたい放題やって来た黒蜘蛛は、とうとうお縄になった」


「でも確か、死罪は免れたんでしたよねえ?」


 飛朗の言う事に頷いた嗣之進は、話を続ける。


「何しろ、この藩のお奉行は情に厚い。食うのにも困っているような家から盗んだ訳でもねえし、殺しをした訳でもねえってんで三年の遠島を申し渡した。密告した平三も、何やかんやで青空藩追放で済んだしな」


 話を聞きながら何気に頷いていたお三音は、はっとした。


「ちょ、ちょっと待って…って事はさあ、ひょっとしてそろそろ島から帰って来るんじゃないの?」


「問題は、其処よ」


 嗣之進は、難しい顔をする。


「奉行所は、黒蜘蛛が島から戻るのを恐れていやがる。必死に駆けずり回ったあの十年間の苦労を、また味わわなければなんねえのかってな。だったら、最初っから死罪にしときゃ良かったじゃねえかって思うだろ?」


 黙って頷く、三人。


「だが、お奉行のお決めになった事には逆らえねえ。だから、こっちも黒蜘蛛共がこの三年で改心した事を信じて、出迎えるしかねえんだよ。お陰で役人達は、総動員で見張りを固めてやがる」


「それで、旦那にも同心に戻れと?」


 その飛朗の台詞に、風佑は驚いた顔をした。


「え…宰さん、そのような話が出ているのですか?」


「ああ、まあな。でも、きっぱり断わってやった。こう言う上の連中が決めた事が原因でとばっちりを食うのは、いつも俺達下っ端の役人だった…あんなもどかしい生活を送るのは、もう御免なんだよ」


 そう言って肩を竦めた嗣之進に、お三音も頷いて見せる。


「そうだね、そう言う鬱憤を溜めとくのも体に良くないし…あ、そうだ。嗣さん、お酒にする?」


 風佑も、慌てて立ち上がる。


「も、申し訳ありません。折角この雨の中、足をお運び下さったと言うのに、何のお構いも致しませんで…」


 しかし嗣之進は、首を横に振った。


「いや、実はな…大分話が逸れちまったが、今日はお前達に頼みてえ事があって来たんだ」


 それを聞いた飛朗は、とんと胸を叩いた。


「そう言う事でしたら、何でも仰って下さい。此処んとこ店に籠もりっきりで、体も鈍ってたんすよ」


「そいつぁ、丁度良かった。頼みてえ事ってのはな…」


 嗣之進は顔を寄せ、声を潜めて話し始めた。





 雨は、止む気配がない。


 昨日、道場前で友臣とおりんを張っていた男を尾行していた欣司は、今日もその男を捜して人通りの少ない雨の大波町を歩いていた。


 何故なら昨日、男はあれ以上何もせずにそのまま自分が住んでいるらしい大波町の長屋へ、大人しく帰ってしまったからだ。


 其処で欣司は、今日もその男を捜して尾行する事にしたのだ。


 しかし、先程立ち寄った長屋には既に男の姿はなかった。


「畜生…」


 欣司は、苛立っていた。


 この付近にいないとなると、男はまた昨日のように九士町へ、足を伸ばしているのだろうか。


 欣司が九士町へ戻ろうと踵を返した時、後ろから声を掛けられた。


「おお、大神殿じゃあねえですかい」


 白雲奉行所同心、岡林(おかばやし)忠之丞(ちゅうのじょう)だった。


 忠之丞の脇に立っていた、大波町目明しの籐太(とうた)も頭を下げる。


「御無沙汰しております、大神の旦那!」


「どうした、この雨ん中…ついに、道場追い出されたのか?」


「莫迦を言え!お前達こそ、此処で何をしている」


「私らか?私らはなあ…」


 欣司に訊かれて、忠之丞は懐から細長い小箱を取り出した。


 蓋を開けると、其処には紫陽花の花をあしらった薄青色の簪が入っていた。


「一寸、珍しい簪だろう?」


「この大波町にある成美屋と言う小間物屋は、このように他の店にはないような造りのものが数多く売られていると、評判がいいのです」


 と、忠之丞に続いて籐太が言う。


「成美屋?」


 欣司が、眉間に皺を寄せる。


「何処かで、聞いた名だが…」


 欣司は、必死に思い出そうとしていた。


「そう籐太から聞いてな、私も前から成美屋で亜紀(あき)に何か買ってやりたいと常々思っていたもんだから、今日こうして籐太に案内してもらったのだが…いやあ、噂通りいい品ばかりで迷ったよ」


 そう言って笑った忠之丞は、簪の入った箱を大事そうに懐にしまった。


 亜紀と言うのは十四歳になる忠之丞の一人娘で、亡くなった妻恵以(えい)の忘れ形見である。


 子煩悩で面倒見が良く、女房を誰よりも大事にしていた忠之丞は、番屋でも理想の父親として有名ではあったが、最近では年頃の娘の扱いに手こずっているようだ。


「で…何の話だったかな?」


「何の話も、しておらん…」


 忠之丞にそう答えた欣司は、すたすたと歩き出した。


「お待ち下さい、大神の旦那!忠の旦那、例のお話を…」


 籐太にそう言われ、頷いた忠之丞は欣司を引き止めた。


「いいか大神殿、よーく聞けよ。道場の連中にも、伝えておいて欲しいのだが…十日後の朝にな、黒蜘蛛が島から帰って来るんだよ」


「黒蜘蛛って…世間を騒がせた、あの黒蜘蛛か?」


 欣司は、目を丸くした。


 忠之丞は、頷いて言う。


「まああいつら、殺しだけはしねえ主義だったが…しかし、この三年でどう変わったかは分からねえ。改心してくれてりゃあ問題はないが、そうでない場合も考えて奉行所でも、見回りを強化する事に決まった」


「用心に越した事はないでしょうから、道場の皆さんも子供達の事を気を付けてやって下さい」


 籐太にも念を押され、欣司は大人しく頷いた。


「それじゃあ、またな」


 軽く手を上げた忠之丞は、雨の中を歩いて行った。


「失礼致します」


 籐太も頭を下げ、忠之丞の後を追う。


 欣司も、九士町へ向かって歩き始めた。


「黒蜘蛛か…当時は、相当話題になったもんだが…」


 と、考え事をしていた時。


 何と、路地裏から昨日の男が出て来たではないか。


 男は手拭いを被り、濡れながら前方を走って行く。


 欣司は見失わぬよう、急いで男の後を追った。





 頼乃輔と朔也は、町医者北条(ほうじょう)永翠(えいすい)の許を訪れた。


「ひゃーっ!凄い雨だな、こりゃあ…」


 戸が開いた途端、朔也が飛び込むようにして入って来た。


 永翠は、頭を抱える。


「此処は雨宿りついでに団子でも、と言う茶屋ではないのだが…」


 続けて入って来た頼乃輔は、永翠を見て言った。


「おう先生、いなすったか…どうやら、往診の時刻ではなかったようだな」


 肩を竦めて立ち上がった永翠は、箪笥の抽斗から手拭いを取り出し、頼乃輔と朔也に投げて寄越した。


「取り敢えず、それで体でも拭いたらどうだ」


「おお、有り難い!」


 手拭いを受け取った頼乃輔は、髪の毛や着物を拭き始めた。


 早々に拭き終えた朔也は、部屋に上がった。


「なあ、永ちゃん…今日こそ、まともなお茶出してくれんだろうなあ?」


 永翠は、笑って言う。


「何を、言っとるか。あの薬湯は、体に良い漢方薬が何種類も入っているのだぞ。本来なら金を払ってもらわねばならん所を、長年のよしみでただで出してやっているのだ。礼を言われこそすれ、文句を言われる筋合いはないと思うが…」


「えーっ!あんな糞不味いもん、金出して買う奴の気が知れねえよーっ!」


 手拭いを丁寧に畳んで永翠に返した頼乃輔は、朔也の隣に座った。


「今日は、そのような論議をしに来た訳ではなかろう」


「と言う事は…また、何かあったのか?」


 鋭く永翠が察すると、頼乃輔は静かに頷いた。


「実は…おりんと言う娘について、訊きたい事があるのだ」


「おりんねえ…聞いた事あるな」


 永翠は棚から診療記録の帳面を取り出し、ぺらぺらと捲り始めた。


「おりん、おりん、と…あった、やっぱりそうか。大波町から来た娘の事だろう、弟が体が弱いと言う」


「そう、それだ」


 頼乃輔が頷くと、永翠は腕を組んだ。


「訊きたい事があると言ったが、正直期待に副えるような事を答えられるかどうかは、分からんぞ」


「永ちゃんの知ってる事なら何でもいいんだ、言ってみてくんな」


 朔也にもそう言われて、永翠は診療記録を見ながら話し始めた。


「大波町に住んでおり、家族は弟の平太。両親は…病で亡くなったらしい。平太は生まれつき体が弱く、今も体調が思わしくない」


 その時、戸口が開いて誰かが入って来た。


「いやあ、凄い雨で参りまし…あれ、世見道場のお師匠さん方ではありませんか。まさか、何処か具合でも悪いので?」


 永翠御用達の薬種屋「富貴屋(ふうきや)」で、主人夏貴(なつき)の助手をしている達巳(たつみ)だった。


「なあ、達…これが、具合悪そうに見えるか?」


 そう言って立ち上がった朔也は、其処ら中を飛び回って見せた。


「八重樫!お前が風邪も引かんような体である事は、医者の私が一番よく知っているのだ。頼むから、跳ね回らんでくれ。埃が立って、敵わん…」


 永翠にそう言われて、素直に大人しくなった朔也ではあったが、やがて首を傾げ始めた。


「あのさあ…風邪も引かんような体って、どう言う事?」


 必死に笑いを堪える頼乃輔を見ながら、永翠は咳払いをして言った。


「も、物の例えだ、深い意味は無い…それよりどうした達さん、何用だ?」


 話を振られた達巳は、上がり框に腰掛けた。


「今日は夏貴が忙しいので、私が代わりに御用を聞きに…」


「ああ、それはわざわざ済まなかったな。今日は…ああ、そうだ。達さん、おりんと言う娘はお前さんも知っているね?」


 永翠に訊かれ、達巳は頷いた。


「ええ、存じております。帯紐の所に赤い鈴を付けてらっしゃる、綺麗な娘さんですよねえ?」


「そうだ。なあ達巳、その娘について何か知っている事があったら、教えてくれないか?」


 頼乃輔の言う事に驚いた達巳は、思わず声を潜めた。


「えっ…あの娘さん、何か訳ありなのですか?」


「いや、そう言う訳ではないのだが…」


 頼乃輔が口ごもると、達巳は思い出しながら言った。


「確かに、少しおかしい所はあるのかも…私共は一つ二つ向こうの町でしたら、直接患者さんの所へ薬を届けているのですよ。おりんさんは大波町に住んでらっしゃるんで、薬が出来次第お宅へお届けしますからと言うのですが、必ず出来るまで店で待って自分で持って帰ると仰るのです」


「家に寄せたくない理由でも、あんのか?」


 朔也の意見に、達巳は首を横に振った。


「何か九士町に薬を貰う他にも用事があるらしく、どうせその時刻まで待たなければならないのだったら、うちの店で待たせてもらった方がいいと仰って。私共としましても届ける手間が省けますので、それはそれで大変有り難いとは思っておりますが…」


 頼乃輔は、達巳に訊いた。


「おりんが薬を取りに来る時刻と言うのは、いつも決まっているのか?」


「ええ、大体夕暮れ時ですよ。薬が出来るまで待っていらして、店を出られるのは暮六ツくらいですかね」


「頼ちゃん、その時刻って…」


 達巳の話を聞いた朔也は、すかさず頼乃輔を見た。


「ああ、道場の夕練習が終わる頃だ…」


 そう呟いて、頼乃輔は何やら考え込み始めた。





 夕餉を食べながら、廉太郎は皆に訊いた。


「で、どうだった?何か、成果はあったのか?」


「俺の方は、お三音達におりんの事を調べるよう頼んで来ました」


 そう言った嗣之進に、朔也が訊く。


「それより嗣ちゃん、昨日の親父さんの話。あれ、本当にちゃんと断わったんだろうなあ?」


「何度も、同じ事を訊くんじゃねえや。きっぱり断わったって、昨日も言っただろうが」


「でもよお…」


 嗣之進の答えに納得出来ない朔也を見て、廉太郎はにやけながら言った。


「どうした朔也、嗣之進がいなくなったら淋しいか?」


「ばっ…莫迦野郎っ!そんなんじゃねえよっ!」


 朔也は不貞腐れながら、酒を一気飲みしている。


「おい、廉さん」


 頼乃輔は、笑って言った。


「からかうのはよさんか。この五人の内、誰が欠けたってこの道場は成り立たんのだ…無論今此処にはいないが、鞍悟や亙もな」


「頼ちゃん…いい事言うなあ!」


 朔也が、笑顔で頼乃輔の背中を叩く。


 頼乃輔は、咳き込みながら言った。


「ところで欣司…お前の方は、どうだったのだ?あの男、見つかったのか?」


 欣司は、静かに言った。


「朝から晩まで、賭け事三昧。あっちで駄目なら、こっち…其処ら中の賭場を転々とするばかりで、あの娘との接触は一度もなかった」


「おっかしいなあ…その男と、俺があの時見た男が同一人物なら、男とおりんはただならぬ関係の筈なんだぜ?あんな雨の日に、仲良さそうに雨宿りしてたんだからさあ」


 朔也の意見に、嗣之進も頷く。


「まあ、同一人物ならな。しかし、証拠はまだねえ。もう少し、調べてみた方が良さそうだな」


「もし同一人物だったとしたら、友臣はおりんに二股を掛けられてたって事になるな…酷な話だが」


 廉太郎がそう言うと、頼乃輔も唸りながら腕を組んだ。


「しかし…最近の若い娘は、思い切った事をするものなんだなあ。あのおりんと言う娘だって、誠実で真面目そうに見えたのだが」


「人は、見掛けに寄らんと言う事だ」


 ふとそう呟いた欣司に、朔也が言う。


「ふーん、成程。確かにそうかも…欣ちゃんだって、普段はむすっとしたおっかない面してるけど、こうやって門下生の為に一肌脱いでやったりしてるもんなあ」


「それはてめえにも言えるんだよ、八重樫」


 かっと目を見開いた欣司が刀を抜くより早く、嗣之進の手が飛んで来た。


 叩かれた額を摩る朔也を見ながら、廉太郎と頼乃輔は同時に吹き出した。





 翌日、道場に客人が訪れた。


「おーい、いますかね?」


「はい…あっ、認二(にんじ)さんに禄彦(ろくひこ)さん!」


 鞍悟が、出迎える。


「わた坊!十字屋(じゅうじや)さんが、いらっしゃったよ!」


 それを訊いた亙は、すぐさま玄関へ駆け寄った。


「お二人とも、よくいらっしゃいました!さあ、こちらへ」


 客人は、刀鍛冶「十字屋」の認二と禄彦だった。


 二人はこの近所では評判の刀鍛冶で、家庭用包丁から武士の刀まで何でも打つ事が出来る。


 蒼い死神と呼ばれた五人の刀も、何とこの二人が打ったのである。


 今日認二と禄彦は、以前から頼まれていた鞍悟と亙の刀がついに出来上がったので、道場まで届けに来てくれたのだった。


「見須奈さん、どうも」


 奥の部屋に入った認二は、頼乃輔に頭を下げた。


 続けて、禄彦も頭を下げる。


「まあ、座ってくれ」


 頼乃輔はそう言って二人を座らせると、早速本題に入った。


「で、お二人がわざわざ道場に出向いて下さったと言う事は…出来たのですね?」


 認二は、頷いて言う。


「ええ、出来ましたよ。今回も、上出来です…なあ、禄?」


「当たり前だ」


 禄彦も、自信あり気に言い切る。


 頼乃輔は、笑いながら頷いた。


「そうかそうか、それなら結構。では…道場の方ででも、見せてもらいましょうか」


 皆は、場所を道場に移した。


「まず、こちらが五十嵐さんのです」


 認二は、真新しい刀を鞘から抜いた。


散霞(ちりがすみ)と書いて、散霞(さんか)(けん)です。さあどうぞ、五十嵐さん」


 認二に刀を差し出された鞍悟は、それを恐る恐る手に取って見た。


「ゆ、夢のようです!先生方のと同じ職人さんの手で造られた刀を、この私も持つ事が出来るなんて…」


 続けて認二は、もう一つの刀を引き抜いた。


「こちらが、長谷さんの。影破(かげやぶり)と書いて、影破(えいは)の剣です」


 認二から刀を受け取った亙は、興奮して言った。


「す、素晴らしいですよ、見須奈先生っ!剣から溢れ出て来る気を、ひしひしと感じる…今の刀は家に返して、すぐさまこの刀に持ち替えさせて頂きますっ!」


 頼乃輔は、静かに微笑んだ。


 因みに。


 廉太郎は、華縁(はなえにし)と書いて華縁(かえん)の剣。


 頼乃輔は、護風(まもりかぜ)と書いて護風(ごふう)の剣。


 欣司は、乱絶(みだれだち)と書いて乱絶(らんぜ)の剣。


 嗣之進は、明空(あけのそら)と書いて明空(めいく)の剣。


 朔也は、虚夢(うつろゆめ)と書いて虚夢(きょむ)の剣である。


「では、二人とも異存が無いようなので、約束通りその剣は差し上げる事としよう」


 頼乃輔の言葉に、目を丸くする二人。


「心配せずとも、金はきちんと道場から十字屋に払う」


「しかし…」


「それでは、申し訳が立ちませぬ!」


 納得出来ない二人に、頼乃輔は言った。


「申し訳無いと思うのなら、これからも門下生達の面倒をきちんと見てやってくれ…いいな?」


『はいっ!』


 二人は、揃って頷いた。


「あ、そう言えば…」


 其処で認二が、思い出したように言った。


「お宅の門下生の、ほら…何て言いましたっけ、与力の若村様の弟さん」


「友臣の事か?」


 頼乃輔の言う事に頷いて、認二は話を続ける。


「そうそう、友臣さん。いやあ、あの方もお若いのに隅に置けませんねえ。五十嵐さんと長谷さんも、うかうかしていると先越されちまいますよ」


「ど、どう言う事ですか?」


 きょとんとした顔で、鞍悟が訊く。


 認二は、にやけながら小指を突き立てた。


「これですよ、これ。今し方、明門寺(めいもんじ)通って此処まで来たんですけどね…境内の裏で、友臣さんと若い娘さんが逢引してたって訳ですよ。また相手の娘さんが豪い別嬪でね、あれは将来美人になりますよ」


「認」


 禄彦は止めたが、認二のお喋りは止まらない。


「まあ、いいじゃないか…いやね、まだ若いのに今からあんな事しているようでは、先が思いやられるって事を言いたいんですよ。あの様子では友臣さん、相当あの娘さんに惚れ込んでますねえ。道場でも、練習が身に入ってないんじゃないですか?図星でしょう?」


 頼乃輔は、引きつった笑みを浮かべている。


 認二は、立ち上がって言った。


「ほんと、年頃の子供抱えていると苦労しますねえ…お察し致します。それじゃあ、俺達はこれで」


 禄彦も立ち上がり、頭を下げて言った。


「相済まぬ…」


「いやいや、気にするな」


 頼乃輔も立ち上がり、戸口まで見送りに出る。


 鞍悟と亙は、声を揃えて言った。


『有り難う御座いました!』


 認二は、上機嫌で言う。


「刀は、定期的に研ぎに来て下さいよ。こちらの道場の方なら、安値で研がせて頂きますんで」


「それでは、御免」


 禄彦も再び頭を下げ、二人は道場を後にした。


「こんにちは」


「先生、こんにちは!」


 それと入れ替えに、昼練習の子供達が入って来る。


「鞍悟、亙。危ないから、刀をしまって来なさい。昼練習、始めるぞ」


『はいっ!』


 頼乃輔に返事をした鞍悟と亙は、急いで奥の部屋へ入って行った。


「友臣、今日もおりんと会っていたのか…」


 頼乃輔は、妙な胸騒ぎを覚え始めていた。





 嗣之進は、再び番屋を訪れていた。


 しかし、今日は父親に呼び出されたのではない。


 嗣之進を呼び出したのは、白雲奉行所与力の若村靖臣…友臣より一回り以上も上の、歳の離れた兄である。


「おう。よく来たなあ、嗣」


「若村様…」


 元上役でもある靖臣の前に久しぶりに正座した嗣之進は、静かに言った。


「父が何を申したかは存じませんが、私は同心に戻る気は…」


「ほう、宰さんも久々に息子を番屋に呼び出して、何用かと思えば…そんな事、頼んでいなさったのかい?」


「は?」


 靖臣の答えに、嗣之進は拍子抜けした。


 靖臣は、肩を竦める。


「そうかいそうかい、宰さんも弱気な事を…こりゃあ、年のせいかねえ」


 嗣之進は、眉間に皺を寄せた。


「あの…私をお呼びになったのは、その事ではないので?」


 靖臣は、笑みを浮かべた。


「話ってのは他でもねえ、我が若村家の次男坊の事よ」


 嗣之進は、はっとした。


「と、友臣…様の?」


「ま、そう言うこった」


 靖臣は、茶を一口飲んだ。


「此処最近、どうもたるんでるようでな。飯も喉を通らねえようだし、夜も眠れず、何言ったって上の空だ。たまに剣の相手にもなってやるんだが、あんな腕じゃあ話にもなりゃしねえ…まさかてめえら、手え抜いてるんじゃあるめえなあ?」


「いえ、決してそのような事は…」


 嗣之進が否定すると、靖臣はにやりと笑った。


「だったら、原因は友臣自身にある訳だが…俺に一つ心当たりがあってな、同じ年の頃の娘と一緒にいるのを、一度か二度見掛けた事がある」


「は、はあ…」


「なあ、嗣…お前さんその娘の事、何か知らねえかい?」


 嗣之進は、どうしたものかと考えあぐねていた。





「あ、欣さんに朔さん…お待ちしてましたよ。さあ、こっちに座って」


 壽美屋にやって来た欣司と朔也を、お三音が席に案内する。


 風佑は、茶を出して言った。


「早速ですが、ちょっと驚くべき事が分かりまして…おりんと言う娘、大波町の成美屋に奉公していると確かに言っていたのですよね?しかし…店の者に訊いてみた所、おりん等と言う娘はいないと言われてしまいまして」


 風佑の話に、欣司と朔也は目を丸くしている。


 お三音は、続けて言った。


「それがね、私見ちゃったの…あの子、掏摸(すり)よ」


 欣司と朔也は、もはや言葉も出なかった。


「あっしも、この目でちゃんと見たんすよ。成美屋寄った帰りにね、赤い鈴ぶら下げた綺麗な娘が向こうから歩いて来るじゃねえですか。こりゃあおりんに間違いねえってんで暫く見張っていましたら、大店の商人風の男の懐からすれ違いざまにこう…すっ、とね」


 と掏る真似をする飛朗を見て、欣司は腕を組んだ。


「あの女…全て、嘘だったと言うのか…」


「しかも富貴屋の夏っちゃんとこで、友臣の練習が終わる時刻まで見計らってんだろ?最初は、ただ単に友臣に会いたいが為かと思ってたけど、嘘をついてたとなると…その行動も、怪しく思えてならねぇなあ…」


 朔也はそう言って、難しい顔をしている。


「この話、まだ続きがあるんだけど…掏った後、路地裏に入ってったおりんちゃんは、何だか柄の悪そうな若い男と二人で財布の中身、勘定してたの。ほんと、人って見掛けに寄らないのねえ」


 と溜息をつくお三音に、朔也が身を乗り出す。


「それってひょっとして、遊び人風の男じゃなかったか?」


「えっ…まあ、確かに遊び人風ではあったけど。朔さん、知ってるの?」


「あの時、俺が見た男だ…なあ欣ちゃん、やっぱ今までの調べからして男は全部、同一人物だって!」


 お三音の話を聞いて、確信を持つ朔也。


 欣司も、頷いて言った。


「ああ、間違いないようだな。めん引き(女掏摸(おんなすり))の上に、身分を偽り二股…ふん、餓鬼のくせにふざけた事しやがる」


 風佑は、静かに言った。


「では、その男についても詳しく調べてみます」


「おう、頼んだぜ!」


 朔也は、ぽんと風佑の背中を叩いた。





 明門寺の和尚光英(こうえい)は、雨の中訪れた廉太郎を手厚く迎えた。


「お一人とは、珍しい。雨の中わざわざお越し下さるとは、実に慈悲深いお方じゃ…と言いたい所ですが、無論仏を参りに来たのでは無いのでしょうな」


「ええ、残念ながら…」


 廉太郎は、出された茶を一口飲んだ。


「して、今日はどのような御用で?」


 光英に訊かれ、廉太郎は答えた。


「我が道場の門下生が一人、こちらへ足繁く通っているようなのですが…無論、仏に参る為では無く」


 光英は、茶を啜った。


「もしや、若村様の所の…」


「やはり、御存知でしたか…」


 廉太郎は言った。


「和尚、二人がどのような事を話していたか…教えては、頂けませんかな?」


 光英は立ち上がり、開いていた障子戸を閉めると再び座った。


「実に初々しく、こちらが赤面してしまうほどの仲睦まじい会話でしたよ。本当に、心の底から相手の方を好いているように、見受けられましたな…少なくとも友臣殿の方は、ですがね」


 廉太郎の眉が、ぴくりと上がる。


「で、では、相手の…おりんの方は違う、と仰るので?」


 光英は、再び茶を啜った。


「それは、分かりませぬ。それこそ、あの娘さん本人に訊いてみなければ…しかし、友臣殿ではない方とお会いになっていたのも、事実なのですよ」


 廉太郎は、はっとした。


「そ、それは、若い遊び人風の男では?」


 光英は、考えながら言った。


「まあ、そのような男であったかもしれぬ。とにかくまだ若いと言うのに柄が悪く、あまり近付きたくはない男であった事は、確かじゃな」


 廉太郎は、腕を組んだ。


「やはり、おりんとあの男は知り合いか…」


「世良殿…」


 光英は、真剣な表情で言った。


「おりんと言う娘とあの男、詳しい事は分からぬが何やら良からぬ事を企んでおる…友臣殿の身辺を、十分に警戒なさるが良い」


 廉太郎は、静かに頷いた。





『お早う御座いますっ!』


 翌朝、揃って道場にやって来た鞍悟と亙は、すぐさま今日の師範である嗣之進に駆け寄った。


『宰様っ!』


「何でえ、朝から二人しておっかねえ顔しやがって…」


 嗣之進が、嫌そうな顔をする。


 鞍悟は言った。


「宰様…昨日も、番屋へ参られたそうではありませんか!」


「八重樫殿のお話では、同心の件はきっぱりお断りしたとの事…それでは昨日は、一体何をなさっていたと言うのですかっ!」


 亙も、息巻いている。


 嗣之進は、溜息をついた。


「てめえらは、俺の世話女房か…餓鬼じゃねえんだ、俺が何処で何しようと俺の勝手だろ?」


『そうは、参りませんっ!』


 鞍悟と亙は、揃って言い切った。


「いいですか?この道場で良識のある師範は、見須奈先生と宰様だけなのですよ?其処の所を、しっかり自覚なさって頂かないと…」


 鞍悟に続いて、亙も言う。


「その通りですっ!それだと言うのに、此処で宰様がいなくなってしまわれたら、この道場は一体どうなってしまうのですかっ!いくら、見須奈先生がしっかりなさっているお方だとは言え、たったお一人であの三人の面倒を見られると言うのは…はっきり申し上げて、無理であると断言致しますっ!」


 嗣之進は、頭を抱えた。


「わ、分かった分かった…分かったから、少し落ち着いてくれ。俺は同心には戻らねえし、昨日呼び出されたのも全く別の事なんだよ」


 それを聞いた鞍悟と亙は、ほっと胸を撫で下ろした。


「良かった、これで今日からゆっくりと眠れそうです…なあ、わた坊?」


「ああ、そうだな!」


 鞍悟に頷いて見せた亙は、嗣之進に訊いた。


「それでは宰様、昨日はどのような御用だったので?」


 嗣之進は、昨日の事を思い出しながら言った。


「それが…昨日は、若村様に呼ばれてな」


 鞍悟と亙が、顔を見合わせる。


「では…まさか、友臣の事で?」


 鞍悟の言う事に、嗣之進は静かに頷いた。


「若村様も、弟君の様子がおかしい事に気が付いていたらしいんだ。おりんと一緒にいる所も、見たと仰っている。それで俺に、おりんについて知っている事を言えと…」


「何か、若村様にお教えしたのですか?」


 そう訊く亙に、嗣之進は首を横に振って答えた。


「いや…大体俺自身、大波町に住んでいて両親は他界、体の弱い弟が一人いて成美屋に奉公してるって事しか、知らねえんだぜ?」


 黙り込む、鞍悟と亙。


「ああ、そう言やあ…」


 嗣之進は、思い出したように言った。


「いいか、二人とも。今から言う事は、決して若村には喋るんじゃねえ。口が裂けてもだ…約束出来るか?」


 二人が頷くのを見て、嗣之進は小声で言った。


「やはりおりんは例の男と若村、二股掛けていたらしい。しかも、成美屋に奉公なんかしちゃいねえ…めん引きだったんだよ」


 それを聞いた鞍悟と亙は目を丸くし、唖然とした。


 嗣之進は、腕を組んで言う。


「おりんは身元を偽り、二股を掛けてまでも若村と会っている。明門寺の和尚の話じゃ、おりんとあの男は良からぬ事を企んでいると言うし…若村の身に、何もなきゃあいいんだがな」


「それが、本当なら…私は、おりんさんを許せません!」


 拳を握り締める鞍悟を見て、亙も言う。


「無論、私もです!こうなったら、私も友臣の為に一肌脱いで…」


「まあ落ち着け、長谷…」


 腕捲りして立ち上がろうとする亙を押さえて、嗣之進は言った。


「立ち上がるのは、まだ早い。引き続き調べなきゃなんねえ事は、山程あるんだ。おめえらの気持ちもよく分かるが、今はとにかく若村の身辺に気を付けてやってくれ。絶対、余計な事は言うんじゃねえぞ…いいな?」


 鞍悟と亙は、素直に頷いた。





「ご、御免下さい…」


 ある日の、昼練習後。


 今日は休みを取っている筈の友臣が、改まった様子で道場を訪れた。


 竹刀を片付けていた鞍吾が、振り向く。


「どうした、友臣…今日は、休みではなかったのか?」


 亙は、門下生の一人が練習中に足を痛めてしまった為、家まで送りに行っている最中である。


「その…少々、御相談したい事が御座いまして…」


 友臣は、言いにくそうに口ごもっている。


「何だ…まさか、先日の女子の件ではあるまいな?」


「ち、違いますっ!」


 鞍吾の言葉を真っ赤な顔で否定した友臣は、遠慮がちに言った。


「あの…稽古代の事で、御願いが…」


 眉間に皺を寄せる、鞍吾。


「明日が、その…この度の、支払い期日となっておりますよね?」


 友臣は、小声で言った。


「申し訳ないのですが…三、四日、待っては頂けませんでしょうか?」


 鞍吾は、目を丸くした。


「何だ…若村家で、何か困り事でもあったのか?」


「そう言う訳ではないのです…御用意は既にしてあったのですが、私の不注意で土間にぶちまけてしまいまして…数銭程、足りませんで…探せば出て来る筈ですので、その間だけお待ち頂ければと…」


 遠慮がちな友臣を見て、鞍吾は笑った。


「そのような事、お安い御用だ。ほお…いつもしっかりした友臣も、やはり恋に現を抜かすとそのような失敗もやらかすのだな?」


「か、からかうのは、お止め下さいっ!」


 再び顔を赤らめた友臣は、深く頭を下げた。


「御許し下さり、感謝申し上げます!それでは…」


 道場を出て行く友臣を見ながら、鞍吾は腕を組んだ。


「只今、戻りました!」


 裏口から、亙の声がする。


 黙って考え込んでいる鞍吾の顔を、亙が覗き込む。


「どうした?何か、あったのか?」


「ああ、わた坊…いや、友臣の奴がな…」


「友臣?れ、例の件かっ?」


 意気込む亙を、鞍吾が宥める。


「いや、稽古代の支払いを数日待ってくれと…」


「何だと?今までそのような事、一度も無かったではないか!」


「用意はしてあったのだが、土間にぶちまけてしまったとかで、足りない分を探す間だけ待って欲しいと…」


「何だ、それだけの事か」


 そう言って竹刀の片付けを始める亙に、鞍吾は言う。


「それだけだと…思うか?」


「それ以外に…何かあるのか?」


 逆に亙に問われて、鞍吾は首を傾げた。


「うーむ…分からん」


「何だ、それは」


 笑いながら、亙は片付けの続きを始める。


 鞍吾も何か引っ掛かる事がありつつも、それに倣った。





 霧谷(きりたに)神社に着いた友臣は、手水鉢の前におりんが立っているのを見付けた。


「おりんさん!」


 慌てて駆け寄ると、おりんは顔を上げてにっこりと笑った。


「お待たせ致しました…ん、どうしたのですか?手水鉢の前で…」


「ほら、御覧になって下さいませ」


 手水鉢には溢れんばかりの、空と同じ色をした紫陽花が飾られていた。


「これは、素晴らしい!この梅雨の時期に相応しい、風流な仕様ですね」


「この御地蔵様も、可愛らしいでしょう?」


 真ん中に、小さな地蔵菩薩が据えられている。


「そうですね…誠に、可愛らしい…」


 しかし、其方の方が…そう言いたかった自身に照れながら、友臣はおりんを見た。


「おりんさん…」


「はい…」


「あ、その…な、何か、甘い物でも食べに行きませぬか?」


 おりんは驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


「はい、喜んで」


 満面の笑みを浮かべた友臣は、襟元を正して社を指差した。


「では、手を合わせてからで宜しいですか?」


「ええ」


 二人は賽銭箱の前に立ち、鈴緒を共に掴んで本坪鈴を鳴らした。


 手を叩き、友臣はおりんの幸せを一心に祈った。


 そして、願わくば自分と…。


「何をそのように、熱心に祈られているのですか?」


 途中で、おりんに遮られた。


「えっ?あ、ああ…皆様の幸せを…」


「まあ…友臣様は御優しく、とても慈悲深い御方なのですね?」


 おりんにじっと見つめられ、友臣は胸の高鳴りを必死に抑えた。


「そ、そのような事はっ…では、参りましょうか?」


「はい」


 二人は鳥居を抜けると、甘味処「月田屋(つきたや)」へ向かった。





「いよいよ、不味(まず)い事になっているようですよ…頼の旦那」


 女掏摸師(おんなすりし)ではあるが、壽美屋同様蒼い死神の密偵を務めるおもよが、そう呟いた。


 おもよと常に行動を共にしている、鍵師(かぎし)千郎太(せんろうた)も黙って頷く。


 頼乃輔と欣司は、目を見開いた。


 此処は隣町、飛沫(しぶき)(ちょう)にある三角稲荷。


 まだ朔也が世見道場に来る前、此処の御供え物である油揚げを盗み食いして、腹を壊したとか壊さなかったとか言う逸話のある神社だ。


 お三音は掏摸の事情に詳しいおもよ達に、おりんの調べを頼んでいたのだ。


 その報告をすべく、誰にも聞かれぬようわざわざ此処まで、皆で足を運んだと言う訳である。


「不味い事…とは?」


 神妙な面持ちで、欣司が訊き返す。


 おもよは、言いにくそうに口を開いた。


「旦那方、その…まさかとは思いますけど、友臣さんが…道場の御稽古代を、滞納なさっているのは御存知…ですよねぇ?」


 思わず、頼乃輔と欣司は目を見合わせた。


 おもよが、苦笑いする。


「あら…これは、益々不味いねぇ…」


「どう言う事なんだ、おもよ!」


 声を荒げる欣司に、おもよは身を竦める。


「い、命だけは、堪忍しておくれよ?大神の旦那!」


「それに、悪いのはおもよじゃないだろう?落ち着け、欣司」


 慌てて欣司を宥める、頼乃輔。


 黙ったままおもよを庇う様に立ちはだかる千郎太を見ると、欣司は顔を背けて唾を吐き捨てた。


「それで、だ…おもよ、今の話は誠か?」


 頼乃輔の質問に、おもよはゆっくりと頷いた。


「それがねえ…あの二人、ちょいちょい道場の練習後に霧谷神社で会ってるようでね…友臣さんが銭の入った袋を、おりんに渡しているのを見ちまったんですよ…」


 眉間に皺を寄せる、頼乃輔。


「御二人の会話を、ちょいと聞かせてもらいましたら…どうやら、弟の平太の容態が思わしくないとかで…永翠先生以外の医者にも診せているらしく、薬代が莫迦にならないってんでね、友臣さんに相談したら御自分が出すだなんて仰って…」


「気に入らねえ…」


 欣司が、苦い表情で呟く。


「そう言やあ、おりんは掏った後の銭を遊び人風の若い男と二人で勘定してたって話だが、それらしき男は見掛けたのか?」


 頼乃輔に訊かれ、おもよは頷いた。


「友臣さんの銭袋を、大波町の海辺に建ってる襤褸(ぼろ)小屋…彼処がどうやら、二人の寝所になっているようですが…其処に持ち帰って、確かに勘定していましたよ」


「そんな所に、二人で?」


 驚く頼乃輔に、欣司が言う。


「大波町で出入りしていたあの長屋は、違ったのか…」


「彼処は博打仲間の寝所で、男の方が時々出入りしていたってだけのようです…更に驚いたのが、その…ねえ?」


 おもよに突然目で合図された千郎太が、珍しく頬を赤らめている。


 相変わらずの形相で睨みつける欣司を見て、おもよは言った。


「い、嫌ですよ、大神の旦那…そんな鬼みたいな顔で聞くような話じゃ、ないんですよ」


「だから、何なんだ!」


「ですからね、あの二人…どうも、夫婦(めおと)じゃないかって…」


 再び目を見合わせる、頼乃輔と欣司。


「銭の勘定が終わると、お互いあっと言う間に素っ裸ですよ…」


 おもよの話を聞きながら、千郎太は咳払いをしている。


 欣司の表情は益々恐ろしい物に変わり、頼乃輔は溜息をついた。


「成程な…何にせよ、友臣を救ってやらねばならんが…恐らく、真っ正直に話した所で受け入れはせんだろうな…」


 おもよも、静かに頷く。


「まあ…それが、恋…って奴、ですからねぇ…」


「いやあ、参ったな…」


 頼乃輔は、腕を組んで考え込んだ。


 千郎太は、何かを訴えかけるかのようにおもよを見つめている。


「ははは…流石、千郎太らしいねぇ…」


「どうした」


 欣司に訊かれ、おもよはふふっと笑った。


「友臣さんなら、必ず分かってくれる筈だって…千郎太は、そう言いたいようですよ」


 千郎太は、黙って頷いている。


 頼乃輔も、肩を竦めて言った。


「そうだな…あいつも武士の子、今が友臣にとって何かを乗り越えるべき時期なのかもしれん…一旦、話を持ち帰らせてくれ」


 おもよと千郎太は、揃って頷いた。








 数日後。


 九士町は、早い時刻から町の至る所に役人の姿が多く見られた。


「んーっ…ひおひおはらあ…ふん…」


 甘味処「月田屋(つきたや)」。


 善哉(ぜんざい)の餅を頬張りながら、朔也が何やら呟いている。


「食うか話すか、どちらかにせんか」


 向かいには、苦笑いの嗣之進。


 茶を流し込みながら、朔也は言う。


「いや、だから…いよいよだなあ…って」


 格子窓から外を覗き、嗣之進も頷く。


「大分、警戒しているようだな…」


「嗣ちゃんの親父殿もかい?」


「ああ…再度、道場の子供達にも行き帰りに気を付ける様、念を押されちまった」


 ふーん…と言いながら、朔也はもう一杯茶を頼んだ。


「お(つき)ちゃん、御茶!」


 月田屋の女将、お月はすぐに茶を持って来た。


「はい、八重樫の旦那。それより…何だか今日は、朝から物騒ですよねえ…やっぱり、あの噂は本当なんですか?宰の旦那なら、内情御存知なんでしょう?」


 神妙な面持ちで、お月が訊いて来る。


 嗣之進も茶を一口飲むと、小声で言った。


「町の連中を怖がらせたくはないが、噂は本当だ。とは言え、奴らの本拠地は大波町だ。戻ったばかりで九士町まで足を延ばす事はまずあるめえが、用心に越した事はねえってんで御役人達は見廻っているんだろう…」


「って事は、黒蜘蛛一家は本当に戻って来るんですねえ…盗みばかりで殺しはしなかったって言うけど、三年も閉じ込められてちゃあ人間、どう変わっちまうかなんて誰にも分かりゃしませんものねえ…」


 お月は、不安そうに格子窓の外を見つめる。


「んむ…大丈夫だろ?これだけ見回り派手にしてりゃあ、ふぬ…嘗ての勢いも、何のそのだ。(かしら)が御縄になった事で、んぐ…大分御執心だった手下共が自害したって言うし…今から再結成するには、人員が足りねぇや…ふん…」


 椀に残った小豆をかき込む朔也を見て、お月は呆れたように言う。


「流石は八重樫の旦那、こちらも気が抜けちまいますよ…」


「ところで、お月」


 嗣之進は、小声で訊いた。


「我が道場の、若き優等剣士の事だが…」


「ああ、若村様の弟さん?」


 お月はきょろきょろしながら、嗣之進に囁いた。


「先日も、いらっしゃってましたよ…赤い鈴の娘さんと、一緒に…」


 嗣之進は、腕を組んで唸る。


「お支払いは、いつも若村様の弟さんの方で…いえね、それは別に構わないのですけれど…変な話、うちとしては商売ですから支払って頂ければそれで…ですけど、問題は御二人がいらっしゃる度に、必ず向かいの路地裏から柄の悪い若い男が見張ってるって事なんですよ…」


「認めたかねえが…んぐっ…いよいよ、決まりだな」


 げえっぷ…と下品な音を立てながら、朔也が茶を飲み干す。


「汚え食い方してんじゃねえや、八重樫…ったく」


 懐から懐紙を取り出した嗣之進は、朔也に向かって放り投げた。


「おおーっ、流石は嗣ちゃん!」


 小豆の皮の付いた口を懐紙で拭いながら、朔也はお月に訊く。


「んで、お月ちゃん…その男に、心当たりはねえのかい?」


「それがね、実は…一度、その男と赤い鈴の娘さんが二人で此処に来たんですよ!」


「へえ…それで?」


 朔也が、話を促す。


「私もね、盗み聞きする訳じゃあないんですけど…まあ、気になるじゃないですか?そうしたら…男の名前は、権作(ごんさく)…って言うらしいですよ?あの娘さんが、そう呼んでらっしゃったから…」


 嗣之進が、何やら考え込む。


「銭は、たんまりお持ちのようでしたよ?うちの中でも、割とお高い物を頼んでらしたし…勿論、きちんとお支払いして行かれて…」


「まあ…金には、困ってねえだろうな…」


 小さく呟く、朔也。


 と、その時。


 突然、店の外が騒がしくなって来た。


土左衛門(どざえもん)だ!土左衛門が上がったぞ!」


 三人は、思わず顔を見合せた。


「やだ…黒蜘蛛と、関係なきゃいいけど…」


 途端に、お月が身を竦ませる。


「心配すんな、御役人に任せときゃあ安心だ。じゃあこれ、お代」


 立ち上がった嗣之進は、代金を机に置いた。


「お月ちゃん、美味かったぜ!」


 朔也もそう言って、刀を差し直す。


「毎度。御二人とも、お気を付けて」


 お月に見送られ、嗣之進と朔也は現場へ向かった。





 早瀬川の支流、汐見(しおみ)川は大波町を流れて日ノ出海(ひのでかい)へと続いている。


 その汐見川の下流で、水死体は発見された。


 忠之丞は、茣蓙(ござ)に寝かされた土左衛門を調べている。


 籐太は、周囲に群がる野次馬達を追い払うのに必死だ。


 光英の話を聞いて大波町まで足を延ばしていた廉太郎は、野次馬達の間から顔を覗かせた。


「嫌だねえ…黒蜘蛛と、関係があるのかい?」


「たまたま川に落ちて、流されただけならいいんだが…」


「大体、何処の誰なんだ?死んだ男は…」


 ひそひそと人々が噂話をする中、廉太郎は後ろから肩を叩かれた。


「其方にも、野次馬根性があったとはなあ…」


「おっと…これはこれは、宰殿…大御所の御登場、ですか…」


「大袈裟な事を、言うでない」


 控えめに笑ったこの男こそ嗣之進の父であり、此処青空藩白雲奉行所の筆頭与力、宰良左衛門である。


「して、世良殿…このような所まで、何用かな?」


「いえね、たまたま通り掛かりましたら、土左衛門が上がったと言うじゃありませんか。万が一顔見知りだった場合、御役人様にも何かお役に立てる事があるかと思いまして…」


 廉太郎の戯言に笑いを堪えた良左衛門は、人込みから抜け出すよう合図した。


 少し離れた日ノ出海の波打ち際で、良左衛門は言った。


「実はな…あれは、平三だ…」


 廉太郎が、眉間に皺を寄せる。


「何処かで、聞いたような…」


「黒蜘蛛を、我々に密告した男だよ」


 その良左衛門の言葉に、廉太郎は目を見開いた。


「じゃ、じゃあ、平三は黒蜘蛛に?」


「ああ、恐らくな…」


 廉太郎は腕を組んで、土左衛門の方を見た。


「って事は、黒蜘蛛は密告された恨みを、娑婆に出て来たと同時に晴らそうと…」


「虎視眈々と、狙っていたんだろうなあ…」


 良左衛門が溜息をついた、その時。


「おい!子供だ!子供が、見つかったぞ!」


 その声に、良左衛門と廉太郎は目を見合わせた。


 良左衛門は廉太郎の肩を軽く叩くと、すぐさま汐見川の下流へと走って行った。


 川を(さら)っていた役人達と良左衛門が、何やら耳打ちし合っている。


「廉ちゃん!」


 其処へ、朔也が駆け寄って来た。


「朔也?何で、こんな所に…」


「そりゃあ、こっちの台詞!わざわざ九士町から、土左衛門見に来た訳じゃねえんだろ?」


「この間の光英和尚の話を裏付ける何かが見つからんもんかと、大波町まで来たらこの騒ぎよ。で、お前は一人か?」


 廉太郎に訊かれ、朔也は顎で野次馬の塊の方を指した。


「彼処…嗣ちゃんも、一緒」


 野次馬達に紛れて、顔と顔の間から嗣之進がこちらをちらちらと覗いている。


「あいつは、何であんな所に隠れているのだ?」


「それは、彼処…」


 今度は、汐見川の下流の方を顎で指す朔也。


「あ、成程…」


 廉太郎が納得した目線の先には、良左衛門。


「普段、あまり親子で並ぶ姿を見掛ける事は先ず無いが…こうして見るとしっかり者の嗣之進も、何やら頼りない子供のようで意外な一面を垣間見てしまったな」


 笑いを堪える廉太郎に、朔也は耳打ちした。


「ところで、廉ちゃんよぉ…気付いてたか?」


「何が?」


「やーっぱ、気付いてなかったか…」


 肩を竦めた朔也は、廉太郎を野次馬の中まで引っ張って来た。


 挙動不審の嗣之進と、合流する。


「よお、嗣之進…父親に見つからぬよう隠れるとは、お前も中々可愛い所があるじゃないか」


「からかわないで下さい、世良さん!そんな事より、八重樫…話したのか?」


「いんや、これから」


 首を横に振った朔也は、砂浜の更に向こうに見える寂れた小屋を指差した。


「ほら、廉ちゃん…あれが、例の小屋」


 首を傾げる廉太郎に、朔也は言う。


「だからあ、おもよ達の話にあっただろ?おりんと若い男の、住処(すみか)…」


 廉太郎が驚くと、嗣之進は小声で囁いた。


「騒ぎに紛れて中を覗いてみたんですがね、(もぬけ)の殻でしたよ…」


 すると、また野次馬達が騒ぎ始めた。


「可哀想に…まだ、ほんの子供じゃないか!」


「何処の子だろうねえ…」


「先に上がった男と、関係あるのか?」


 先程の土左衛門の隣に、子供の水死体が寝かされる。


 その時。


 ちりん。


 鈴の音が聞こえた気がして、廉太郎達は辺りを見回した。


 すると少し離れた反対側の野次馬達の中に、何とおりんの姿があるではないか。


 土左衛門を見つめたまま、口に手を当てている。


 その目からは、一筋の涙が零れていた。


 顔を見合わせる、三人。


 子供の懐から何やら取り出した良左衛門は辺りを見回した後、廉太郎の姿を見つけて目で合図した。


「筆頭与力様がお呼びだ」


 廉太郎がそう言った時、再び鈴の音が聞こえた。


 ちりん。


 おりんの姿が、いつの間にか消えている。


 嗣之進は、隠れるように言った。


「じゃあ俺は父上に見つからぬよう、おりんの行方でも追いますよ。何か分かりましたら、後で御報告下さい」


「分かった。気を付けてな」


 廉太郎に頷いて見せた嗣之進は、人込みに紛れて姿を消した。


「親子対決が見られるかと思ったのに、つまんねえの…」


 ぶつぶつ呟く朔也に、廉太郎は笑って言った。


「宰親子は、見世物じゃねえんだぞ?さてと…宰殿、どうかなさいましたか?」


「世良殿…おお、今度は八重樫殿も御一緒かな?」


「どーも、親父殿!御無沙汰!御無沙汰!」


 偉そうに振る舞う朔也を、すかさず廉太郎が(たしな)める。


 しかし、良左衛門はそれを遮って言った。


「気にせんでも良いのだ、世良殿。普段から頭を下げられる事が多い立場である故、八重樫殿のような存在があるとこちらも気が紛れる」


「はあ…そう言う物ですかねえ…」


 納得出来ない廉太郎を横目に、朔也は良左衛門の肩を叩く。


「さっすが、親父殿!いやあ、人の上に立つ男はこうでなきゃなあ!がはははは!」


「お前…いい加減にしろよ?」


 引きつった笑顔を浮かべる廉太郎を宥め、良左衛門は先程子供の懐から取り出した物を見せて来た。


「これを、見て頂きたいのだ…場所は確か、九士町であったな?」


 廉太郎と朔也が、覗き込む。


 水に濡れて良くは見えないが、今にも千切れそうな封筒に滲んだ墨で書かれていた文字は、確かに『北条永翠』と読めた。


「何で、永ちゃんとこの薬袋がっ?」


 驚く朔也。


「身元を洗い出す為にも、北条先生にはこちらまで御足労願わねばならんな…」


 良左衛門はそう言ったが、廉太郎は整った顔を歪めた。


「その必要は、ないかもしれん…」


「何だ、世良殿…あの子供について、何か知っておるのか?」


 良左衛門の質問に答える前に、廉太郎は朔也に訊いた。


「ほら、朔也…先程の、おりんの涙…」


 少し考え込んでいた朔也は、途端に目を見開いた。


「ま、待ってくれ!じゃあ、まさか、あの子は…っ?」


「ああ…おりんの弟、平太かもしれん…」


 廉太郎の言葉に、良左衛門は首を傾げるばかりであった。





 同じ頃、壽美屋でも欣司がお三音達から報告を受けていた。


「何だと?平三が死体で?」


「そう…黒蜘蛛の事を御役人に密告したあの平三が、死体で見つかったって…大波町は、大騒ぎらしいわよ」


 お三音がそう言うと、風佑も頷いて報告する。


「どうやら死体は、後頭部に大きな岩でで殴られたような跡があったとかで、完全なる殺しと断定されたようです。その後、川浚いの御役人達が子供の死体も一緒に見付けまして…」


 眉を顰める、欣司。


「子供の懐の中に何やら入っていたらしく、何と世良さんと八重樫さんが筆頭与力の宰様と話し込んでおられました」


 風佑の報告に、欣司は怒りを堪えるかのように固く目を閉じている。


 話を、飛朗が続ける。


「俺の方は、野次馬の中におりんの姿を見付けましてね。どうやら、宰の旦那…あ、嗣之進さんの方ですがね、同時に気付いたようでおりんの後を追い始めましたんで、俺も後を付けて行ったんですよ」


「で、どうなった?」


 欣司が訊くと、飛朗は首を横に振って答えた。


「途中、宰の旦那と合流しまして…挟み撃ちも試みたんですが、おりんの奴は煙のように消えちまいましてねぇ…ありゃあ、素人の仕事じゃあありませんぜ?」


「ねえ、欣さん!子供の懐の中に、何が入ってたと思う?」


 お三音に訊かれて、黙り込む欣司。


「何と、永翠先生んとこの薬袋が入ってたんだよ!今、おもよちゃん達がこっちへ向かってると思うけどね、恐らく死体の子供はおりんの弟の平太なんじゃないかって…」


 その言葉に欣司が目を見開くのと、壽美屋の戸が開くのが同時だった。


「邪魔するよ」


 入って来たのは、おもよと千郎太だった。


「あ、二人とも!入って入って!今、丁度話していた所なの!お茶淹れるから、座って頂戴な!」


 お三音に迎えられて、おもよと千郎太は椅子に腰掛けた。


「で、おもよ…どうだったんだ?」


 欣司に訊かれ、茶を一口飲んだおもよは静かに言った。


「間違いありませんよ…死体の子供は、平太。おりんの弟です。それに…どうやら、二人は…あの、平三の暦とした子供だったようです」


「何っ?」


 驚く欣司。


 お三音、風佑、飛朗も目を見合わせる。


「どう言う事だよ、おもよさん!」


 飛朗が訊くと、おもよは静かに溜息をついた。


「どうもこうも、無いんだよ…黒蜘蛛ってのは、盗みは働いても殺しはしなかったってのが売りだった筈だろう?」


「まあ、そのように聞いているな…」


 頷く風佑。


「それがね、内部ではとんでもない掟が蔓延っていてさ…盗みに入るに当たり、三度失敗した者は死を持って償えって…」


「何、それ…」


 お三音が、身を竦める。


「平三は黒蜘蛛一家の中でも、特に臆病風を吹かす事で有名だったようだよ…子煩悩で女房も大事にしていたようだし、そもそもが盗賊になんて向かない男だったのさ」


「でも、平三は生きていたじゃないか。その掟と今回の死が、どう関係あるってんだ?」


 飛朗の質問に、おもよは辛そうに答えた。


「平三は、三度失敗を犯した…平三の身代わりになったのは、女房だったんだよ」


「酷い…」


 呟くお三音。


「御陰で、平三は一家に残る事を許された。だけどもう、平三の心はその時点で決まっていたんだろうね…いつか密告して、自分も子供と共に足抜けするって…」


「密告してからの平三は、どうやって生きていた?」


 今度は、欣司が訊く。


「おりんと平太を連れて、男手一つで逃げ回るのには限界があった様で…殺された女房の知り合いが、例の大波町にあるって言う成美屋に勤めてたらしくて…」


「ああ、小間物屋の?」


 お三音に頷いて見せたおもよは、話を続ける。


「平三は必ず迎えに来ると言い残して、その知り合いに子供達を預けたらしいの。その後、御沙汰通りに青空藩を追放されたって訳」


「成程…それでおりんは、自分は其処に奉公してるだなんて嘘を付いた訳か…」


 納得する、風佑。


「だけどある日、遊び人風の若い男が子供達を迎えに来た…」


 欣司が、眉を顰める。


「平三に頼まれて迎えに来たと、男は言ったそうだよ。知り合いは、安心して二人を男に預けた。色々調べて、ようやくこの男の正体を突き止めたよ…」


「何者なんだ!」


 声を荒げる、欣司。


 おもよは、ゆっくりと口を開いた。


「黒蜘蛛一家、頭の権太夫(ごんだゆう)の息子…権作ですよ」


 皆は、驚きのあまり言葉を失った。





 雨の夕暮れ。


 いつもの通り、夕練習の帰りに霧谷神社でおりんと待ち合わせていた友臣。


「お、おりんさん?」


 姿を現したおりんは、ずぶ濡れだった。


 友臣が慌てて駆け寄り、傘を差し出す。


 おりんの目は真っ赤に腫れ上がり、歩き方も覚束無い。


「どうされたのですか!こんなに濡れて…」


 黙ったまま、友臣の腕の中にもたれ掛かるおりん。


「何処か、悪い所でも…?」


「い、いえ、何でもありません…」


「何でもない訳、ないだろうっ!」


 いつも優しい友臣が、大きな声を出す。


 おりんは驚いて、顔を上げた。


 友臣は、真剣な顔でおりんを見つめている。


「私は、いつも貴女の身を案じているのだ!今の私には…何よりも、貴女が大事なのです!」


 真っすぐな穢れの無い、力強い眼差し。


 何故かおりんは、頬を染めつつもその目を見つめ返す事が出来なかった。


 友臣の腕を、おりんは力無く押し返した。


「おりん、さん…?」


「友臣様…私の家に、来ては頂けませんか?」


 突然のおりんの誘いに、友臣の顔は明るくなった。


「よ、良いのですかっ?」


「はい…家の者にも、会って頂きたいので…」


「それは、是非とも!」


 二人は友臣の傘に入り、大波町へ向かって歩き始めた。





 夕餉時。


 今日は鞍吾と亙も手伝って、七人分の膳を用意した。


「そうか…友臣は、きちんと返して来たのか…」


 頼乃輔が呟くと、亙は憤慨して言った。


「まだ、黙っていなくてはならないのですか!先生方!」


 稽古代の一件を、鞍吾と亙は廉太郎達に打ち明けていた。


 おもよ達からの報告によれば、その金はそっくりそのままおりんの手元に渡り、あの遊び人の男と二人で山分け勘定をしていたと言う。


「若村は、何処から銭を工面したのか…」


 腕を組む嗣之進に、鞍吾が答える。


「恐らく、心配性でしっかり者の友臣の事ですから、自分の小遣いでも貯めていたのでしょう。其処から出したのではないかと…」


「私は、悔しいと言っているのです!」


 相変わらず、亙は声を荒げる。


「長年の友が、とんでもない女狐に化かされていると言うのに、何故黙って見ていなければならないのですか!」


「気持ちは分かる。お前だけじゃない、我々だって友臣は幼き頃より大切に育てて来た大事な門下生だ。悔しいのは皆、同じなのだよ」


 廉太郎はそう言って宥めるが、亙は聞かない。


「でしたら、尚更ではありませんか!早い内に手を打たねば、取り返しのつかない事に…」


「うだうだうだうだ、煩えんだよ!」


 そう怒鳴ったのは、欣司だった。


 皆が、静まり返る。


「おい、長谷…若村の糞坊主は、自業自得なんだよ!いいか?今回の件は、あの黒蜘蛛が絡んでいやがるんだ!おいそれと簡単に動けねえ事くらい、分かるだろうが!その空っぽの頭で、ちっとは考えやがれ!」


 そして、突然欣司は立ち上がった。


 亙が、びくっと体を震わす。


「…ちっ」


 舌打ちをした欣司は、部屋を出て行こうとした。


「おい…何処へ行くんだ、欣司!」


 頼乃輔に訊かれ、欣司は振り向かずに答えた。


「飯が、不味くなった…出て来る」


 ぱたん、と襖が閉まる。


 再び、沈黙が訪れた。


「はのはあ…ひんひゃんほ、はあひへて…」


「八重樫…頼むから、口ん中のもん飲み込んでくんねえか?」


 最初に沈黙を破った朔也に、嗣之進が呆れ口調で言う。


 朔也は口の中の物を茶で流し込むと、息を整えて言った。


「まあさあ、わた坊…気にしねえでも、ああ見えて欣ちゃん色々考えてくれてると思うからさあ…分かってんだろ?」


 また、自分の悪い癖が出た…そう思った亙は、黙って頷いた。


「わた坊、八重樫殿の言う通りだ…とにかく、私達は友臣の無事を祈ると共に、他の門下生達の面倒を精一杯見ようではないか。後の事は、先生方にお任せしよう」


 鞍吾はそう言って、亙の肩を優しく叩いた。


 ようやく亙も納得し、頭を下げた。


「本当に、申し訳御座いませんでした。また私は、気ばかりが()いてしまって…」


「其処がお前の良い所だろう、亙?」


 廉太郎が笑顔でそう言うと、朔也は楊枝を歯に当てながら呟いた。


「しかしなあ…そうは言うものの、どうやって友臣の目を覚まさせりゃいいんだ?」


「靖さんは、友臣の事を何処まで御存知なんだろうか…」


 頼乃輔も、考え込んでいる。


「どうやら気になる女子がいるようだと言う事は、御報告させて頂いたんだが…だったら無粋な真似はいくら弟とは言え、しねえよ…なんて仰っていたが、平三と平太の死体が上がった件から、黒蜘蛛とおりんの関係も役人同士ですぐに伝わっちまうだろうし…」


 嗣之進がこの間、靖臣に呼び出された時の事を思い出しながら言う。


「何故だか、今回の事は酷く嫌な予感がして堪らないのです…」


 ふと呟いた鞍吾に、頼乃輔も同意する。


「実は、俺もなのだ…」


「いずれにせよ、平三の事で黒蜘蛛一家が完全に娑婆に出て来た事が確実となったのだ。近い内に、状況が一変するような何かが起こりそうだな…」


 廉太郎の言葉に、皆は頷かざるを得なかった。





「お!おうおう!其処の!誰かと思えば、大神じゃねえか!」


 薄暗い夜道をひたすら歩き、欣司は松水町まで来ていた。


 欣司が振り返ると、其処には同心と目明しが立っていた。


「こんな時刻にいくら見回りとは言え、若い女を連れ回すとは…相変わらずの奔放ぶりだな、井ノ宮(いのみや)


「いやいやいやいや!その台詞、そっくりそのままお前に返してやるよ!」


 豪快に笑うこの男、白雲奉行所同心の井ノ宮(いのみや)正虎(まさとら)である。


 自由奔放、我が道を行く、正直な物言い、強気な姿勢、正に名の通り『白雲の虎』と呼ばれている。


「ですが虎様、大神様はいつでもあたしを女と認めて下さるんですよ?それが、とっても嬉しくって!」


 男のような恰好をしているが、正真正銘女であるみづは此処松水町で目明しをしている。


 日ノ出海沿いにあるこの松水町は、海風から町を守る為の松ノ林(まつのばやし)と呼ばれる松の木の林に囲まれている。


 みづはその松ノ林の入口に赤ん坊の頃、捨てられていた。


 たまたま見回りをしていた役人達に拾われて、みづは番屋の人間達に育てられた。


 よってみづが女だてらに目明しになったのも、自然の流れだったと言えよう。


 ちなみにみづの名は、松水町の一文字を取って名付けられた。


「ちっ…相変わらず、口だけは達者だな…」


 欣司が舌打ちすると、みづは嬉しそうに笑った。


「誉め言葉と受け取っておきますよ、大神様!」


「ところで大神、お前に会うのも久しぶりだが…そんな事より、そもそも何で松水町に居やがるんだ?しかも、こんな時刻に…」


 正虎が驚いた顔で言うと、欣司は小声で訊いた。


「お前らも、知ってんだろ…平三の件」


 正虎とみづが、目を見合わせる。


「死体が上がったのは、この汐見川の下流…俺は、奴が投げられたのは見つかった大波町ではなく、反対側の岸である此処松水町じゃねぇかと見てる…」


 欣司の発言に、正虎は嬉しそうな歓声を上げた。


「流石は大神、やっぱり俺の目に狂いはねぇ!世見道場の中で、俺が一目置いてんのはお前だけだ、大神!光栄に思えよ?」


 正虎は、欣司の背中を思い切り叩いている。


 みづは、呆れた顔をした。


「またそれですか、虎様…大神様、困ってらっしゃいますよ?」


「いいんだよ、みづ!こいつは、照れてるだけだ!」


 正虎は、更に欣司の背中を叩いて豪快に笑っている。


 欣司は、正虎の手を振り払って言った。


「いい加減にしねえか、この糞力(くそぢから)野郎が!」


「あ?ああ、すまんすまん!」


 一頻り笑った後、正虎は真面目な顔で言った。


「ちょっと、松ノ林の入口まで付き合ってくんねえか?」


 みづも、黙って頷く。


 欣司は、大人しく従う事にした。





 そろそろ就寝の時刻だが、欣司は戻って来ない。


「欣ちゃん、迷子になって泣いてんじゃねえの?」


 畳に寝転がり、尻を掻きながら朔也が言う。


 廉太郎は、笑いを堪えた。


「やめろ、朔也…」


「まあ、大神さんに限って心配する事はねえとは思いますがね…それにしたって、遅くないですかい?」


 嗣之進は、格子窓から外の様子を見る。


 その時。


「頼もう」


 道場の戸を叩く音と共に、何者かの声がした。


 皆が、顔を見合わせる。


「俺が出よう…」


 頼乃輔は、音を立てずに立ち上がった。


 廉太郎は裏口へ、嗣之進は頼乃輔の後ろに付く。


 朔也は寝そべったまま、小指で耳をほじっている。


「誰だ」


 頼乃輔が声を掛けると、表からは丁寧且つ静かな返事が聞こえた。


「夜分に、済まない…白雲奉行所同心、縁風寺(えんぷうじ)と申す」


「白雲町目明し、鸞丸(らんまる)で御座います…」


 予想外の来客に、頼乃輔と嗣之進は思わず顔を見合わせた。


「どうぞ…お入り下さい」


 頼乃輔がそう言うと、道場の戸が開いて二人の人物が入って来た。


 白雲奉行所同心、縁風寺(えんぷうじ)龍源(りゅうげん)


 物静かで口数も少なく、何事にも動じない落ち着いた佇まい。


 流れる剣捌きはその名の通り、龍の如し。


『白雲の龍』と呼ばれ、正虎と正反対の性格から二人は『白雲の龍虎同心』等と揶揄されている。


 元々僧侶であった龍源は、武家の養子となって今の地位に着くと言う、異色の同心である。


 目明しの鸞丸は、龍源の寺である縁風寺に住み込みで奉公していた小坊主だったが、龍源が養子に出されると自分も側仕えとしてお供させてくれと言って、聞かなかった。


 やがて、龍源が同心になると同時に鸞丸を目明しにし、共に白雲町の安全を守っていると言う訳である。


 部屋に入って来た二人を見て、廉太郎と朔也はぎょっとした顔をした。


「その御顔は…どのような意味合いを、持たれておるのかな?」


 龍源が、静かに問う。


 廉太郎は、引きつった笑顔で答えた。


「い、いや…特に、意味は無いが…」


「では、八重樫殿はこれ如何に?」


「はあ…光英の(じじい)と言い、俺この手の人間苦手なんだよねえ…」


「朔也!」


 耳をほじりながらそう言う朔也を、頼乃輔が窘める。


 龍源は、ふっと微笑んだ。


「正直で、宜しい…私は、八重樫殿のような男は嫌いでは御座らん…」


「まあ、立ち話もなんですから…取り敢えず、座りませんかねえ?」


 嗣之進の言う事に頷いた皆は、畳に腰を下ろした。


 早速、廉太郎が尋ねる。


「で…白雲町の御二人が、わざわざ隣町の九士町へ何の御用で?」


「そうだよお…しかも、世見道場なんかに…用、ないでしょ?」


 寝転んだままの朔也の尻を、頼乃輔が叩く。


「迷惑は、承知の上。しかし、少々急を要するのでな…実は我々も休んでいた所を、急遽呼び出されたのだ」


「な、何があったんです?」


 神妙な面持ちの、嗣之進。


 龍源に目で合図され、鸞丸が口を開いた。


「当奉行所筆頭同心であられる若村臣匡様の御次男、友臣様が未だ戻られておりません」


 これには、流石の廉太郎達も背筋が凍った。


「待ってくれ…それは、誠かっ?」


 動揺する、頼乃輔。


「ええ、残念ながら…」


 鸞丸は、冷静に答える。


 廉太郎は、腕を組む。


「本日の夕練習を無事に終え、そのまま道場を出た。勿論、御役人方からは黒蜘蛛の件もある事だから、門下生には十分注意するよう忠告は受けたが…友臣の剣の腕は、若いながらも確かだ。それに、帰り道には…」


「帰り道に…何か、あるのかな?」


 龍源が訊く。


 朔也は、あっさりと答えた。


逢引(あいびき)


「なっ…あ、あい…っ」


 鸞丸が、頬を染める。


「あらあ?鸞ちゃん、可愛いっ!」


 からかう朔也の尻を、頼乃輔が叩く。


「その女子(おなご)の方に、何か心当たりはおありか?」


 再度龍源に尋ねられ、廉太郎は言った。


「…いや」


 龍源は、じっと廉太郎を見つめた。


 廉太郎も、龍源を見つめる。


 暫くして、龍源は立ち上がった。


「邪魔をした…帰ろう、鸞丸」


「よ、宜しいのですか、龍源様…」


 慌てる鸞丸に頷いて見せた龍源は、道場の戸を開いた。


「今宵は大雨、海が荒れる…松の林から晴れ間が出るよう、祈っておりますぞ…」


「御免下さいませ、師範の皆様…」


 二人は頭を下げ、道場を出て行った。


「どうしますか?世良さん、見須奈さん…」


 嗣之進が訊く。


 廉太郎と頼乃輔は、顔を見合わせた。


「考えている暇は、あまり無い様だ…一先ず、俺は壽美屋へ行く」


「廉さんがそっちなら、俺はおもよ達を呼んで来よう」


 二人がそう言うので、嗣之進は朔也の尻を引っ叩いて言った。


「だったら俺らは、大神さんを追うぞ!」


「えーっ!追うったって、何処行ったかも分かんないの捜すなんて、面倒臭ぇよぉ…」


 そんな朔也を宥めるように、廉太郎は言った。


「さっきの、龍さんの言葉…あれに、何か手掛かりがある…」


 はっとする、嗣之進。


「よし…では皆、行こう」


 頼乃輔の言葉に、皆は頷いた。





 欣司は、松ノ林入口の人気の無い場所で正虎達から話を聞いていた。


「松水町を根城に?」


 顔を顰める、欣司。


 正虎は頷いた。


「大波町は、元の根城だ。奴らが出て来ると知って、役人達がたむろするのは目に見えてる。だから、出て来た後は川向こうのこの松水町に腰を据えようと、頭の権太夫は息子の権作を泳がせて色々と策を練ってたと言う訳よ」


「餓鬼共は、一緒に捕らえられなかったのか…」


 欣司の質問に、みづが答えた。


「何だかんだ言って、子供達は直接盗みには関わっちゃあいませんからねえ…白雲奉行所の情の厚さが、裏目に出たと言うか何と言うか…出て来た後の受け皿作りを、子供達に任せていたとはねえ…」


 溜息をつきながら、欣司が訊く。


「だったらこの松水町の何処かに、奴らは既に身を潜めているんだな?」


「それで、私達も見廻りを強化していた所なんですよ?」


 と、みづ。


「わざわざ、平三や小さな平太坊を殴ったとみられる血の付いた岩が、松水町側の川岸に置いてあった辺り…どうも奴らが、わざと俺等役人に見せつけてるようにしか見えねえんだよ…てめえらに貰った恩は、殺しで返してやるってな…」


 神妙な面持ちで、顎を摩る正虎。


 すると…しとしとと、雨が降って来た。


「あ、雨…虎様、傘ないわよ?」


 みづに言われて、正虎は空を見上げた。


「そうだな…じゃあ、大神…そう言う訳だから…」


「どう言う訳だ…」


 冷めた目で、欣司は正虎を見る。


 正虎は豪快に笑いながら、欣司の肩を叩いた。


「ま、世見道場の連中にも宜しく言っておいてくれ。みづ、行くぞ!」


「はい!それでは大神様、また」


 みづも頭を下げ、二人は雨を避けるように小走りで松水町の路地裏へと消えた。


 と、その時。


「あ、いたいた!迷子の迷子の、欣司坊~!」


 途端に、欣司の眼差しが鋭くなる。


「はいはい、迎えに来てあげた事の礼なんかいいって!」


「おい、八重樫…それくらいにしておけ。大神さんを、見てみろ」


 朔也と、嗣之進である。


 龍源の言葉を頼りに、二人は松水町まで欣司を捜しに来たのだ。


「しっかし龍ちゃんの奴、よく此処が分かったよなあ…やっぱ、坊主ってのは食えねえや!」


 朔也はそう言って、肩を竦めている。


「龍…?縁風寺が、どうした」


 欣司に訊かれ、嗣之進は答えた。


「縁風寺さんと鸞丸が、わざわざ道場までいらっしゃいまして…どうも、友臣の奴がまだ戻ってないとかで…」


 かっと目を見開く、欣司。


「休んでた所を呼び出されて、捜し歩いてたんだとよ」


 欠伸をしながら言う朔也に、欣司は反論する。


「九士町を探すなら、富田(とみた)全吉(ぜんきち)がいるだろうが!」


 富田とは、富田(とみた)眞一郎(しんいちろう)…白雲奉行所同心で真面目一辺倒、いつも蒼い死神の尻拭いをさせられている。


 尤も、本人にその気は全くない。


 そして、全吉とは九士町の目明しである。


 人はいいが気が弱く、尻拭いで機嫌を損ねた眞一郎の宥め役だ。


「あの二人は、黒蜘蛛の方で手一杯でしょう…どちらかと言うと、役人達は主に九士町、浮羽(うきはね)(ちょう)、大波町辺りの警戒を強めてますから…それで、手が空いていそうな白雲の縁風寺さん方に頼んだんじゃねえですかね…」


 欣司の疑問に、嗣之進が答える。


 その時。


 雨の音が町全体を覆っているにも拘らず、独特の音色がその隙間を縫って轟いた。


 鳥の声にも、耳鳴りにも似た、直接頭に響いて来る笛の音。


「あ、千ちゃんだ」


 朔也が、きょろきょろと辺りを見回す。


 千郎太の指笛。


 緊急時や、招集時、伝達時等に千郎太が吹く。


 気を集中し、神経を研ぎ澄ませている者のみに届く、千郎太の(わざ)である。


「友臣が、見つかったのかもしれねえな…大神さん」


 嗣之進が、欣司を見る。


 欣司は頷くと、音の鳴る方向へと駆け出した。


 二人も、その後を追う。





「おりんさん…これは、一体…ど、どう言う事…ですか…」


 唖然とする、友臣。


 おりんに連れられて、友臣がやって来たのは大波町の海岸沿いにあるあの襤褸小屋であった。


 中に入ると、見ず知らずの若い男…黒蜘蛛の頭である権太夫の息子、権作が立っていた。


「ようこそ、我が家へ…俺は黒蜘蛛の頭、権太夫の息子で権作ってんだ。こいつは俺の女房の、おりん。此処まで御案内するのに、何か粗相はありませんでしたかねえ?」


 この男が、あの黒蜘蛛の頭の息子?


 しかも…男は、確かにおりんを『俺の女房』と言った。


 おりんは何か言おうとして、口を噤んだ。


「済まない…私の聞き違いかもしれないが、その…おりんさんが、其方の…」


 友臣に尋ねられ、権作は途端に声を荒げた。


「耳の穴かっぽじって、よーく聞けよ?この女は、俺の女房だって言ってんだよ!それを色目使われて、てめえはのこのこついて来たんだろ?ああ?」


 権作は、乱暴に友臣の襟元を掴んだ。


「やめて、権作さん!」


「煩えんだよ!黙ってろ!」


 おりんが止めようとすると、権作はその頬を平手で叩いた。


 よろけたおりんが、床に倒れる。


「おりんさんっ!」


 駆け寄ろうとする友臣の顔を、権作が殴る。


「くっ…」


 友臣が口の端を手の甲で拭うと、血が付いた。


「何回言わせれば、気が済むんだ?こいつは、俺の物なんだよ!俺がどうしようと、俺の勝手だろ!分かりますかあ?御武家さん?」


 莫迦にしたような口調で、友臣の顔を覗き込む権作。


 刀の柄に手を掛けようと思いつつも、友臣はおりんが気になって仕方が無い。


「おりん、さん…貴女は、私を…私を、騙そうと…」


「友臣様、そ、それは…っ」


 慌てて立ち上がるおりんを制し、権作は言う。


「てめえは俺等黒蜘蛛一家を御縄にしやがった、役人の息子だ!精々、恨みを晴らさせてもらおうじゃねえか!全ては、こちらの思惑通り…そうとも気付かず、この女にすっかり御執心とは…筆頭同心の息子が、聞いて呆れるなあ?」


 権作は、腹を抱えて大笑いしている。


 おりんはその隣で、自分の体を抱き竦めて黙ったままだ。


 友臣は静かに深呼吸をし、ゆっくりと刀の柄を握った。


「ほおーっ…やろうってんですかい?それなら、こっちにも考えがありますよ?なあ、親父!」


 権作がそう叫ぶと、襤褸小屋の戸が開いた。


 何と…中に入って来たのは、黒蜘蛛の頭である権太夫その人であった。


「御初に御目に掛かります、若村の旦那の御子息殿…私目はその節、貴方の御父上に大変お世話になりました、黒蜘蛛を取り仕切っております権太夫と申します…」


 権太夫は、丁寧に頭を下げた。


 そして隣にいた権作の体を抱き寄せ、肩を叩く。


「よく我慢したなあ、権作!」


「親父!よくぞ、御無事で…っ!」


 親子は手短に再会の挨拶を交わし、権太夫はおりんに言った。


「おりん、お前も権作を助けて良くやってくれた…だがなあ…」


 おりんの顎をくいっと持ち上げ、権太夫はにやっと笑った。


「お前の父親、平三のした事は許される事じゃねえ…悪いが、落とし前は付けさせてもらった。まあ…平太の糞坊主が何気を起こしたんだか、飛び出して来たのは想定外だったがなあ…」


「それで…っ、それで平太も一緒に殺したって言うんですかっ!」


 目を潤ませて、おりんが叫ぶ。


 顎を掴んだ手を振り払って、権太夫は言った。


「殺したくて殺した訳じゃねえさ…てめえの親父と一緒に逝きたがったから、ちょいと汐見川に向けて背中を押してやっただけじゃねえか…あんな病弱な骨みたいな体じゃあ、生きてたって良い事もなかったろうから、丁度良かったんじゃねえか?」


 そう言って、親子は揃ってそっくりな笑い方をした。


 おりんが、固く拳を握る。


 目からは、涙が一筋零れ落ちた。


「血も涙も無い、親子め…っ」


 友臣の、柄を握る手が怒りで震える。


「まあまあ、落ち着いて下さいな…こんな襤褸小屋では、刀を振るうのもままならない…さあ、外へどうぞ…」


 権太夫はそう言って、戸を開けた。


 共に外へ出ると、其処には黒蜘蛛の残党が月の光に照らされた海岸に立っていた。


 ざっと数えても、三十人は下らない。


「残念ながら、今の黒蜘蛛はこれで全部です。しかし、ようやく娑婆に出られましたので、体が鈍っちまって仕方ねえ…どうです、若村の御子息殿。こいつらの、遊び相手になってやっちゃあくれませんかねえ?どうぞ、貴方様は御自慢の刀を振るって下さいよ。こっちゃあ、素手でやらせてもらいますから…まあ、その代わり…容赦はしませんがねえ…」


 黒蜘蛛の連中も、にやにやと笑いながら友臣を見ている。


 手足を回したり、指の関節を鳴らしながら、準備を整える。


「友臣、様…っ」


 おりんが、小さく呟く。


 友臣はおりんを横目で見た後、泣きそうな顔で微笑んだ。


 おりんの目から、また涙が溢れる。


「分かりました…御相手、致します…」


 そう言って、友臣は刀を抜こうとした。


 その瞬間、権作が後ろから友臣を羽交い絞めにした。


「なっ…ひっ、卑怯なっ!」


 もがく友臣に、権作は言う。


「悪いが、こちとら武士じゃねえんだ!卑怯上等なんだよっ!」


 権太夫は、大笑いする。


「がっはっはっはっは!流石は俺の息子、やるじゃねえか!野郎共、やっちまいな!」


 黒蜘蛛一家は、一斉に友臣に飛び掛かって行った。


 顔、腕、腹、足、ありとあらゆる部分を殴られる友臣。


 やがて抑え切れなくなった権作が手を離すと、友臣は砂浜に倒れ込んだ。


 そんな友臣を、容赦無く集団で蹴り続ける黒蜘蛛一家。


「おい!殺すんじゃねえぞ!適当に、切り上げろ!」


 おりんは口に手を当て、嗚咽を堪えている。


 そして…。


 動かなくなった友臣を見て、権太夫は黒蜘蛛一家を止めた。


「やめろ!楽しみは、取っておけと言っただろうが!全く…娑婆に出た途端、これだ…先が思いやられるぜ…」


 権太夫は、友臣を仰向けにした。


 咳き込んだ友臣の口から、血が吐き出された。


「よしよし、まだ生きているな…さてと、じゃあてめえら!今後の、俺達の動きだが…」


「今後、お前達が動ける事は…果たして、あるかな?」


 何処かから、声がする。


 黒蜘蛛一家は、辺りを見回した。


「よくも、我々の可愛い門下生を…許さん!」


「誰だ!」


 権太夫が叫ぶ。


「てめえらの罪を棚に上げて、関係ねえ若者を巻き込むとはな…流石は、天下の黒蜘蛛一家様だぜ…虫唾が走る」


「ふ、ふざけんな!黒蜘蛛を莫迦にするんじゃねえっ!」


 権作も、警戒しながら大声を上げる。


「莫迦は、どっちなんだか…島に流されて、一体何を学んで来たのよ…」


「煩い、煩い、煩い!おい!姿を見せろ!」


 狂ったように喚き散らす、権太夫。


 すると…。


 海岸向こうの松ノ林の中から、五人の男が現れた。


「煩えのは、貴様らの方だろうが!その汚え減らず口を、今すぐ利けないようにしてやるから、大人しく跪きやがれ!」


 欣司がそう言って、刀を抜いた。


 蒼い月の光が刀に反射し、権太夫の目を突き刺す。


「くっ…眩しいっ!何だ!何者なんだっ!」


 目を細める、権太夫。


「若村…っ」


 嗣之進が、友臣の姿を見て顔を顰める。


「よく、頑張ったな…流石は我らの門下生、誇りに思うぞ…」


 頼乃輔もそう呟き、刀を構える。


「取り敢えず、おもよ達に手当て頼もうぜ」


 朔也の言う事に頷いた廉太郎は、松ノ林の中に待機しているおもよと千郎太に合図を送った。


 その時。


「うぉぉーっ!!!」


 おもよ達が松ノ林から飛び出すのと、権作が懐から小刀を取り出すのが同時だった。


「友臣さんっ!」


 おりんが駆け出し、更に船着き場の船に身を潜めていたお三音、風佑、飛朗の吹き矢が飛び交う。


 一体、何が起こったのか…。


 その場にいた誰もが、混乱した。


 やがて、静寂が戻って来る。


 其処にあったのは、気絶したままではあるが無事な友臣。


 三本の吹き矢が見事急所に突き刺さり、既に息絶えている権作。


 そして。


 腹を刺され、血を流しているおりんの姿だった。


「ご…権作?権作…おい!権作!権作っ!」


 権太夫は慌てて息子に駆け寄り、自分の手元に引き寄せる。


「お、おりん?おい、何があった?おりん!」


 廉太郎が、おりんを抱き起こす。


「権作、さん、が…友臣様、を…さ、刺そうと、して…」


 おりんの言葉に、廉太郎は静かに頷く。


「そうか…友臣を、守ろうとしてくれたのだな…礼を言う」


「い、え…私は、そのように、礼を、言って頂ける、ような人間では、御座いま、せん…」


 咳き込むおりんの口から、大量に血が流れる。


「お前は、友臣の命をその身を呈して守ったのだ!立派な行いであった!だから、もう口を開くな!助かるものも、助からんぞ!」


「いい、のです…友臣様が、無事なら…私は、もう…」


 おりんは、自分の腹を両手で摩った。


「この子が…この、子が…あの方との、ややこで、あった、なら…どんなに、良かったか…」


 その言葉に、皆は顔を見合せた。


「おりん、お前…」


 切なげに眉を顰める頼乃輔に、おりんは微笑んだ。


「帯の、鈴、を…」


 廉太郎は、慌てて帯の鈴を外した。


「お()っつぁんの代わ、り、に…黒、蜘蛛に…殺され、た…おっ()さんの、形見…です…これを、ど、どうか…友、臣様、に…」


「わ、分かった!必ず…必ず、渡す!」


 廉太郎は、血に染まった赤い鈴を握り締めた。


「私…生まれて、初めて…人を、愛し、ました…生まれ、変わった、ら…私を…友、臣…さ、ま…っ」


 おりんの体から、力が抜ける。


 廉太郎はおりんの目をそっと撫で、閉じさせてやった。


 溜息をつきながら、朔也が呟く。


「仕方が無かったとは言え、友臣を騙してた事は許せねえ…でも…気持ちが本物だったってんなら、ちっとは…救いが、あったのかね…」


「だから、色恋沙汰は面倒臭えんだよ…」


 欣司は、権太夫を睨みつけた。


 黒蜘蛛一家は準備万端、臨戦態勢でこちらを睨みつけている。


「俺達の仕事は、お涙頂戴ごっこじゃねえ…この糞みてえな外道共を、粉々に叩っ斬る事なんだよ!」


「おお、怖っ!」


 目を血走らせる欣司を見て、身を竦める朔也。


「では、参りますか?」


 嗣之進も、刀を構える。


「こちらはお任せ下さい、旦那方」


 既に側で待機していたおもよが、呟く。


 千郎太も頷いて、友臣の体を軽々と肩に担いだ。


「頼んだぞ、おもよ、千郎太」


 廉太郎もそう言って、刀を引き抜いた。


「黒蜘蛛一家…覚悟!」


 頼乃輔の合図で、五人は一斉に斬り掛かって行った。


 黒蜘蛛一家は砂浜の砂に足を取られながらも、必死に応戦する。


 しかし、五人の刀の切れ味に敵う者はいなかった。


 次から次へと腕や足、首が血飛沫と共に砂浜を飛び交い、真っ赤に染まって行く。


「そう言やあ、人数数えてねえけど?」


 相手の攻撃を躱しながら、朔也が言う。


 呆れた顔で、嗣之進が答える。


「おい、気が抜ける事を言うな…兎も角、大神さんの機嫌を損ねる事だけは、するなよ?」


「そうだな…友臣の事もあるし、一度殺しただけでは気が済まんが…それは恐らく、俺達だけじゃない。欣司も、同じ気持ちだろう」


 止めを刺した刀を抜きながら頼乃輔がそう言うと、朔也は驚いた顔をした。


「えーっ?欣ちゃんも、同じぃーっ?」


「余所見すんじゃねえよ!」


 そう言って、朔也の相手は拳を振り上げて来る。


 途端に顔付きを変えた朔也は、その腕を斬り飛ばした。


「おい…誰に向かって、口利いてんだよ…」


「ぐわぁーーーっ!」


 腕から血を噴き出した相手の心の蔵を、容赦無く貫く朔也。


「ったく…俺も、舐められたもんだぜ」


 頼乃輔と嗣之進はそんな朔也を見て顔を見合わせ、肩を竦めた。


「さて…残るは、お前だけだな…権太夫」


 その廉太郎の言葉に、皆が振り返る。


 最後の一人になった権太夫は、ごくりと唾を飲み込んだ。


「よくも…よくも、俺の大事な(せがれ)()ってくれたな!そして…黒蜘蛛一家まで!」


「言いたい事は、それだけか」


 刀に付いた血を振り散らしながら、じりじりと歩み寄る欣司。


 他の四人は、呑気に自分の刀の血を拭いている。


 権太夫もじりじりと後退り、片足が海水に浸かった。


 欣司は、笑いを堪えながら言う。


「可哀想な、黒蜘蛛一家…最後に、貴様の言葉を特別に聞いてやろう」


「ほんとに、そう思ってんの?」


 朔也が、耳打ちする。


 嗣之進は、首を傾げた。


「さあな…」


 権太夫は、ゆっくりと口を開いた。


「がはっ!」


 その口の中に、欣司が刀を突き刺す。


 引き抜いた途端、権太夫は跪いて血を吐いた。


「何だ…早く、言えよ!」


 欣司は、笑顔を浮かべている。


「やれやれ…また、欣司の悪い癖が出たな…」


 困った顔の廉太郎に、頼乃輔も溜息をつく。


「こうなった欣司は、誰も止められんよ…」


 権太夫は苦しそうに咳き込みながら、海水の中に倒れ込んだ。


「何だ、天下の黒蜘蛛一家の最期の言葉をこの俺が聞いてやろうと言うのに、何もねえのか…ちっ、つまらねえ!」


 そう言って欣司は刀を振り下ろし、権太夫の首を斬り落とした。


 海水が血で染まり、権太夫の首と体が波に打たれて砂浜を行ったり来たりする。


 刀をしまった欣司は、黙って松ノ林の方へと歩いて行った。


 其処へ、全身黒尽くめのお三音、風佑、飛朗が走って来た。


「三人とも…御苦労だったな」


 廉太郎がそう言うと、お三音が悲しげな顔でおりんの死体を見つめた。


 降り続く雨に、すっかり髪も着物も濡れてしまっている。


「おりんちゃん…もしだったら、明門寺まで運びましょうか?」


 頼乃輔が、頷いて言う。


「それが、いいだろう…和尚に言って、無縁仏と共に弔ってもらおう」


「可哀想な娘さんでしたね…」


 風佑の言葉に、飛朗も同意する。


「せめてあの世で、ゆっくり休んで欲しいもんだ…」


「じゃあ、おりんはお三音達に任せて…俺らも、帰りましょうや。特に今回は、父上に見つかると少々具合が悪いんでね…」


 肩を竦める嗣之進に、朔也はにやにやしながら言う。


「あれぇ?流石の嗣ちゃんも、親父殿には頭が上がらんかねえ?」


「煩えよ」


 嗣之進に頭を叩かれ、大袈裟に摩る朔也。


 二人を見ながら一頻り笑った後、皆は日ノ出海岸を後にした。





 数日後。


 世見道場に、役人が訪れた。


「済まなかった!」


 練習前の、誰もいない道場。


 床の上で、白雲奉行所筆頭同心の若村臣匡が土下座をしている。


 その後ろには居た堪れない顔をした臣匡の息子、友臣の兄である靖臣。


 その横で、靖臣の同僚である与力の天城(あまぎ)右門(うもん)が溜息をついている。


 廉太郎は、引きつった笑みを浮かべた。


「その…どうか若村殿、頭を上げて下さい」


「そう言う訳には、行かん!」


 臣匡は、手を付いたまま顔を上げる。


「大切な若村家の次男、友臣の命の恩人である其方達に礼を言うのは、当然の道理!どう、この恩を返したら良いか…っ」


「靖さん…何とか、して下さいよ」


 頼乃輔に話を振られ、靖臣は肩を竦める。


「俺に、振るんじゃねえや…まあ、今回は父上のたっての願いで礼に来たんだ、聞いてやってくんな」


 困った顔の、頼乃輔。


「んじゃあ、青空城の殿様が食ってる御膳でも奢ってもらっちゃう?それか、この道場の古い所の修理代を全部賄ってもらうか…それとも…」


 指折り数えながら、朔也は何をしてもらおうかと考えている。


「そんな事より、若村様…友臣様の御様子は、どうなんです?」


 嗣之進に訊かれ、臣匡は答えた。


「ああ、御陰様で順調に回復した。北条先生が、付きっ切りで看病して下さってね…いやあ、先生の所にも礼に伺わねばならんのだ!」


「兎にも角にも、友臣殿の元服式に無事間に合って良かった」


 その右門の言葉に、廉太郎は大きく頷いた。


「ああ、そうか…いやあ、あの友臣が元服とはなあ…」


「感慨深いな、廉さん」


 頼乃輔にそう言われ、廉太郎は道場に入ったばかりの小さな友臣を思い出していた。


「んで?友臣の奴、これからどうするって?」


 朔也が訊くと、靖臣は腕を組んで静かに言った。


「それがな…他藩へ赴き、医療で有名な先生がいらっしゃるとかで、其処へ弟子入りして医者になると言い出しやがった」


『えぇーっ?』


 皆が、一斉に声を上げる。


 臣匡は言う。


「若村家にはこの靖臣がおるし、お恥ずかしい限りだが…歳行ってから生まれた友臣が、私も女房も可愛ゆうて仕方が無いのだ…よって、やりたい事は何でもさせてやりたくなってな…」


「で、許可なさったので?」


 嗣之進に訊かれて、臣匡は頷いた。


「まあ、友臣の事だ…あいつなりに、色々と思う所があったのだろう」


 そう言って、頼乃輔も腕を組んだ。


「そのような訳で…この度の一件は、黒蜘蛛一家全滅と友臣様救出に免じて、不問に処すよう取り計らった。以上だ」


 右門はそう言って、臣匡の隣に膝をついた。


「さあ、若村様…そろそろ、参りましょう」


 臣匡は立ち上がると、深々と頭を下げた。


「師範殿…友臣が…友臣が、大変世話になった!幼き頃より、剣を見て下さった事も含めて、心より御礼申し上げる!誠に、誠に…っ!」


「ま、まあまあ、若村様…」


 廉太郎は、臣匡の肩に手を置く。


 臣匡は、右門に支えられながら道場を出た。


「靖さん」


 頼乃輔は、靖臣に訊いた。


「友臣には、おりんの事は…」


 靖臣は、静かに口を開いた。


「あの鈴をお前に託して、旅に出たと伝えた」


「弟君は、何と?」


 嗣之進が訊くと、靖臣は首を傾げた。


「霧谷神社まで一緒に歩んでくれと言われてな、二人で行ったのよ。そうしたら友臣の奴、紫陽花の花手水の前に立ってな、あの娘との思い出の場所だとか言って、手水の真ん中に据えられている小さな地蔵の首に、その赤い鈴を掛けたんだよ」


 皆は、顔を見合わせる。


「あいつ、感付いていやがるのかもしれん…鈴の紐は水で漱いだんだが、血が染みて赤茶けてしまっていてな…もう、あの娘はいないのだと分かったのかもしれねえ」


 俯く、廉太郎。


 すると。


「無駄話は、それくらいにしろ」


 今まで黙っていた欣司が、突然口を開いた。


 立ち上がって朝練習の準備を始める欣司を、皆が見つめる。


「欣の字」


 靖臣が呼ぶ。


 欣司は、振り向かない。


「弟が、世話んなったな…」


 一瞬手を止めたかのように思えたが、欣司は決して振り向かなかった。


 皆は、黙って靖臣を見送った。





 翌日。


 元服式を終えてすっかり見違えた友臣は、旅装束姿で街道に立っていた。


「鞍さん、亙さん…本当に、御世話になりました」


 深々と頭を下げる、友臣。


 鞍吾は、込み上げる涙をぐっと堪えて言う。


「友臣…本気、なんだな?」


 友臣は、静かに微笑んだ。


「もう、決めた事です…武士に、二言はありませぬ」


「友臣がそう決めたのなら、我々は黙って送り出すのみだ!なあ、鞍ちゃん?」


 亙にそう言われて、鞍吾は渋々頷いた。


 友臣は、鞍吾の肩に手を置く。


「鞍さん、我々の間で湿っぽいやり取りは無しですよ!三人で道場を駆け回っていた頃のように、笑顔でお別れ致しましょう!」


「また…また、戻って来るのだろう?」


 鞍吾に訊かれ、友臣は考えながら言った。


「どう、でしょうか…私は、助けて頂いた北条先生のようになるまでは、戻らないと決めております故…」


「では、すぐだな!お前は剣術だけではなく、読み書き算盤も優秀であったからな!」


 亙は、なるべく明るく努めて居る。


 微笑んだ友臣は、笠を被って紐を結わえた。


「それでは、御二人とも…達者で、御暮し下さいませ」


 頭を下げた友臣は、ゆっくりと歩き始めた。


「友臣!」


 鞍吾が叫ぶ。


「体には、気を付けるのだぞ!」


「友臣!待ってるからな!」


 亙も叫ぶ。


 二人は、いつまでも友臣の後ろ姿を見つめていた。





 壽美屋。


 今日は休みを取って、いつもの面子で宴会を開いた。


 鞍吾、亙、お由奈、お璃乃の若者は店先に、他は奥の座敷にそれぞれ席を設ける。


「さあさあ、たんと食べておくれよ?」


 お壽美は、機嫌良く料理を運んでいる。


「女将さん、本当に久しぶりに旦那様と二人で密偵の仕事だったから、すっかり御機嫌ね!」


 お三音がそう言うと、飛朗も頷いた。


「御陰で女将さん、俺達にも優しくてねえ!」


「ちょいと、飛…それって、あたしが普段は優しくないとでも言いたいのかい?」


「え?いや、その…っ」


 低い声を出すお壽美に、焦る飛朗。


「余計な事を言うな、飛…」


 風佑が、そっと呟く。


「今回、親分さんと女将さん達は御役人様達に、仕事を頼まれていたんですよねえ?」


 おもよに訊かれて、鬼一は頷いた。


「何せあの黒蜘蛛が出て来るってんで、御役人達は思った以上に焦っていたようでね…あっしの所に依頼が届いた時、お壽美と話し合って久々に一緒にやろうって話になったんですよ」


「そりゃあ、二人が組めば怖い物無しよねえ?何てったって、私達の憧れのその名を轟かす夫婦忍者ですもの!」


 まるで、自分の事のようにお三音が自慢気に言う。


「いやあ、全くその通りだな!だからこそ、我々も親分達を信頼して任せられるってもんだ」


 廉太郎も、そう言って頷く。


「で、新しい黒蜘蛛の根城を真っ先に突き止めたのが、親分達だって話じゃねえですかい」


 酒を啜りながら、嗣之進が訊く。


「そうなんですよ!」


 おもよが、手を叩いて言った。


「あたしらが旦那方に頼まれて突き止めるのより早く、女将さん達が動いているのを見掛けましてね?小狡い手とは思いましたけど、自分で動くよりこれは女将さん達を追った方が、早いんじゃないかって千郎太と…」


 そう言って、おもよが千郎太を見る。


 千郎太は、困ったような顔で肩を竦めた。


 お壽美は、大笑いする。


「当然、あたし達も気付いてたけどねえ…旦那方も同じ情報を知りたいだろうに、あたし達はそっちに加勢する事が出来ないだろう?だからせめて、おもよちゃん達が後を追って来るのを、黙認してやろうじゃないかって…ねえ、お前さん?」


 酒を飲み干しながら、鬼一も笑う。


「それがせめてもの、旦那方への奉公だってな…」


「いやあ…それは済まなかったな、親分、お壽美」


 頭を下げる頼乃輔に、鬼一は慌てて言う。


「頭を上げて下せえ、見須奈の旦那!お三音達を使って下さり、ただでさえいつも有り難えと思っているのに持って来て、今回は大事な門下生の友臣さんも関わっているとあっちゃあ、こっちも黙ってる訳には行きませんや」


「しっかしよお、友臣の奴…まさか、医者になる為に青空藩を出ちまうとはなあ…」


 お壽美特製炊き込み御飯の飯粒を口元に付けたまま、朔也が呟く。


「そうだな…あいつも、変に真面目な所があったから…」


 嗣之進も、溜息をつく。


「まあ、人生色々あるわよ!きっと、友臣さんも一回りも二回りも大きくなって、帰って来るに決まってるわ!」


 お三音が明るく言うと、風佑も微笑みながら頷いた。


「お優しい友臣さんですから、将来は立派な医者になる事は、まず間違いないでしょう」


「全く、その通りだ!よし!俺も、何だかやる気が出て来たぞ!」


 そう言って張り切る飛朗に、お壽美がぴしゃりと釘を刺す。


「だったら、飛…あんたには、店の廊下と厠と勝手口と、雨で湿っちまった障子の張替えでもやってもらおうかねえ?」


 飛朗は、途端に嫌そうな顔をした。


「えーっ?女将さん、そりゃあないっすよぉーっ!」


 お三音も、同意する。


「そうよ、女将さん!飛さんなんか、自分の部屋の掃除もろくに出来ないんだもの。まずは、其処からしてもらわなくっちゃ!」


「あら…それも、そうね?」


 納得する、お壽美。


「何だよ、お三音まで!」


 三人のやり取りに、皆が笑う。


「雨が…上がったな…」


 窓の外を見ながら、一人静かに飲んでいた欣司が呟いた。


 朝から降り続いていた雨は、いつの間にが上がっている。


 窓の外の瑞々しい紫陽花から滴り落ちた雫が、晴れ間の日の光に照らされている。


 暑い夏が、すぐ其処まで来ていた。


                                  ― 完 ―

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ