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27.どうして今になって

 泣きじゃくるシェリーに呼ばれてエレーナが駆け付けたとき、彼女の夫はホテルの入り口近くの石畳に倒れていた。仰向けに、左足を少し曲げる格好だ。左胸に突き立てられた刃物は深々と柄まで刺さり、円盤状に溢れた血がやがて床の格子状の溝に流れて、根を張っているように見えた。


 少し遅れて、医者がやってきた。シェリーがエレーナを呼びに行くよりも先にフロントに連絡していたのだ。

 ナイフは心臓を外れ、ルートはまだ息をしていた。だが顔は夜のとばりに溶け込みそうなほど真っ青になっている。このままだと失血死する、と医者は判断した。


 シェリーがどうしよう、どうしよう、と繰り返す中、エレーナは自分が不思議と落ち着いているのが分かった。

 まだ現実味がないのもある。

 だが、まだやれることをやり切っていない。

 諦める段階にはまだほど遠いと分かっていた。


「シェリーさん、ルートは倒れる前に何と言ってましたか?」


「ひっぐ、……え……えと、すん、確か……なんだっけ……」


「私を呼んでくる以外に、何か言ってませんでしたか?」


 この状況下にあっても、エレーナの問いかける口調は一緒に夕食をとった時と寸分も違わないかった。そんな彼女がシェリーには末恐ろしく見え、その恐ろしさから涙は止まり、落ち着いて考える隙間が生まれた。


「そ、そうだ! 確か右のポケット、って言いかけてました」


 それを聞き出すや否やエレーナは医者に「すみません、どいて!」と叫び、ルートに駆け寄った。

 彼の右のポケットを探る。

 上着……何もない。

 ズボン……、ない。

 シャツの右ポケット……あった。赤い液体で満ちた小瓶と、小瓶のラベル代わりに包んでいる長く細い用紙。

 その用紙の表には一言『彼に飲ませて』と書かれてあった。

 小瓶を医者に突き付けると、「回復ポーションです、それも上級の。だがラベルが違います、正規品じゃないかも……」


 もはや悩んでいる時間はなかった。

 エレーナは神への祈りを小声でつぶやきながら、小瓶を開けて、その中身をルートの口に注いでいく。

 途中で口の端からこぼれてしまったので、残り半分は口移しで余さず飲ませた。


 しばらく様子を見るが、変化はない。


「ルート」


 エレーナは耐えきれずに彼の手を握った。


「ルート、ルート」


 両手で握った彼の右手を額に当てる。自分の熱、生命力がわずかでも伝播してくれれば。そんな想いで。


 やがて、変化が起きた。


 刺さっていた刃物が痙攣しはじめ、じわじわと傷口から離れ始める。やがてカラン、と外れて地面に落ちた。まもなく血の流出が止まった。青ざめていた顔には、徐々に血色が戻ってきている。




 医者に他言無用といくばくかの謝礼を払ったのち、フロントの力を借りてルートを宿泊している部屋まで運んだ。


「ど、どうしましょぅ…」


 落ち着きを取り戻したものの、シェリーの表情は暗い。


「……何も変わりありません。シェリーさん、あなたは引き続き新製品の開発を」


 眠るルートから目を反らさずにエレーナは言った。


「わ、わかりました。……実は、ぼすから鎧とは別にもう一件、試作のお願いをされていたんですが、そっちも進めて大丈夫でしょうか?」


「もう一件?」


 エレーナはシェリーに向き直った。貴族令嬢は人差し指同士をつんつんと付けたり話したりしながら、視線をあちこちにやる。


「はぃ……。『セブン・ペガサスが実力行使に打って出てきたときの保険だ』って言ってました」


「――なら、それを最優先で進めてください。鎧なんてどうでもいい。ルートをこんな目に遭わせて……もう誰かを憎むことはないと思っていたけれど、私も人間ですね」


 ルートの一件があったので、シェリーはその晩ホテルに泊まっていった。三人でキングサイズのベッドに川の字になって寝た。


 翌朝、シェリーが床にぶちまけたパスタのような寝ぐせのまま帰ると、エレーナは窓を開けた。早朝の穏やかな風がベッドのシーツを少し波立たせた。濡れたタオルを用意して、ルートの体を拭いてやった。

 傷口はすっかりふさがって、その痕も見つけられなかった。


「あのポーション、本当にすごい代物ね」


 使い切った茶色の瓶を取り出すと、窓から差し込む朝日をキラキラと照り返した。


「……! これは……」


 朝日にかざしたことで初めて分かったのだが、瓶のラベル代わりに張られていた『彼に飲ませて』の文字の裏には、さらに長く小さい文が書いてあるらしかった。

 糊付けを丁寧に剥がし、手のひらの上に広げてみる。

 そこにこう書いてあった。


『本当はずっとあなたといたかった ヴァルダルはあなたを殺すつもりです 王都から逃げて、二度と戻らないで 本当にごめんなさい 何もかも ローザ』


 手紙をエレーナは三度は読み返した。

 ようやく内容を頭の中で整理すると、大きく肩を落としながら、深く息を吐いた。

 外へぼうっと視線を傾ける。小鳥の遠いさえずりが窓枠を通って、部屋の片隅に消えていった。


「――エレーナ?」


 とっさにエレーナは拳を握った。


「ルート! 目が覚めたんだね」


「頭くらくらする。ホテルのモーニングってもう終わった?」と呑気に言う彼に思わず彼女は破顔した。


 手紙は手の中で押しつぶされた。目覚めたばかりの彼が朝日に顔をしかめたとき、それは彼女の懐に素早くしまい込まれた。


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