011 手術の後は①
意識が戻った私に、看護師さんが呼びかける。
「手術、無事に終わりましたからねー。今、鼻に通しているチューブ抜きます」
そう言われた瞬間、鼻からチューブが勢いよく抜かれる。「うわあああああ」と、心の中で叫ぶ私。だって、若干痛いし鼻の奥がツンとする。もっとゆっくり抜けないのかと、ちょっと驚いた。
そんな私のことはお構いなく進む術後の後始末。チューブを抜かれた後は、手術台から病室のベッドへ移された。
その時、よくテレビで見る「1、2、3、はい」みたいな連携プレーを実体験。わー、これよく医療ドラマで見るやつだって呑気な私。
でも、意識があったのはここまでで、まだ完全に麻酔が抜けきってないから目が重たくて重たくて開いていられない。
ベッドに移されたことだけ覚えていたけれど、次に意識がはっきりしたのは私が入院している病室だった。
看護師さんが横で何やら、テキパキと片づけをしている。
「履いていたパンツは棚の中に入れておきますねー。スマホは金庫の中ですか? 鍵は、ナースステーションかなー?」
まだ、ぐったりしている私は看護師さんの言葉を聞いてハッとする。
「鍵かけてないです。引き出しに入ってます」
術後、初めて声を出す。めちゃくちゃしゃべりずらかったけれど、何とか声が出た。
「あっ、本当だ、ありました。では、ご家族の方に連絡してあげて下さいね。術後、三時間は動けないのでゆっくり休んで下さい」
スマホを私の手に握らせて、看護師さんは立ちさっていく。私は、手術の記憶は全くないのだけど明らかに体はぐったりしている。動かそうとすれば手足は動くけれど、体が重い。
暫く、目をつぶって休憩する。でも、頭の中では主人にだけはメールをしなければと億劫ながらも眠気に抗う。
意を決してスマホを手に持ち、メールを打つ。簡単に「無事に手術終わりました」と何とか送信する。そのままスマホを、体の脇に置いて目を閉じる。まだ眠気が残っていて、ストンと意識がなくなった。
次に目が覚めたのは、看護師さんが点滴の様子を見に来てくれた時。
「点滴、大丈夫そうですね。あと一時間くらいしたら動けますから。また、その頃に伺います」
それだけ言って戻っていく看護師さん。スマホから、ティコンと着信音が鳴る。その音は、今は聞きたくない音だった。
仕事用のGメールの着信音。恐る恐る、メールを確かめると思った通り仕事のメール。昨日来たばっかりだから、今月はもう特に何もないと思っていたのに……。このタイミングって……。
とりあえず、中を確認するとスマホじゃ見られない書式。締め切りは週明け。締め切りに余裕はあるけれど、いつも次の日の朝までには返すからそのつもりでいたらまずいかなと、重い体を動かして必死でメールを打つ。
『メール受け取りました。今、入院してて手術が終わったところなのですぐの返信は無理です。よろしくお願いします』
すぐに返信が戻って来た。
『了解です。土日挟むのでゆっくり見てもらって、週明けに返して頂ければ大丈夫なので』
私は大丈夫じゃないんだが……って思いながら、とりあえずまだ日にちがあるから後で考えようとスマホは一旦脇に置く。
やっと、自分の置かれている状態をゆっくりと確認できるくらいには回復した。手術中に、必要があれば尿道カテーテルをさすって言っていたけれどそれは大丈夫だったみたい。
点滴は、黄色い液体がポツッポツッとゆっくり落ちてきている。なんとなーく、針を刺している腕が痛い気がするけど許容範囲。着ている服は、手術前に自分で着た手術着のままだった。ただ、履いているパンツが紙製のものに変わっていた。
看護師さんが履かせてくれたのかなと思うと、ちょっと気まずい。しかも履いていたパンツも見られたのか……。綺麗なパンツで良かった……。そもそも裸にされるなんて想定外だったから、衝撃が大きい。
看護されるのなんて初めてだから、今まで感じたことのない感情がじわじわっと胸に広がる。
それでも、そこまで確認できて「無事手術終わったんだな」ってやっとホッとできた。口の中は、舌を動かすと痛い。しゃべれないことはないけれど、舌を動かしづらくて舌足らずなしゃべり方になってしまう。
今年最大のイベントっていうか、人生で最大のイベントが終わったと大きな安堵が落ちて来た。
そのまま、ベッドに横になってゆっくりしていたのだけど無性にトイレに行きたくなってしまう。動けるのは、あと一時間って言っていたしどうしようとめちゃくちゃ焦る。とにかく、我慢できるところまで頑張ろうと他のことを考え出した。
ここで麻酔について説明しましょう。
――――麻酔と睡眠の眠りは全く別もの。全身麻酔には、三要素と言われるものがあり、意識がなくなること・痛みを感じないこと・筋肉をゆるめることの三つがある。
睡眠の眠りは感覚が残っているが、麻酔での眠りは感覚が残らない。だから、全身麻酔中の記憶はない。
麻酔がかかっている間は、自分で呼吸をする力が弱くなる。だから、口から気管まで呼吸を助けるためのチューブを入れ、それを通して呼吸を補助する。
手術中は麻酔科医が、様々なモニターを用いて患者さんの状態を監視し、手術の進行に合わせた適切な麻酔深度を保つ。
麻酔を使えば上記の効果があることは知られているが、なぜそのように脳に作用するのかはまだ知られていないのだそう。私たちが知っているのは、麻酔が何らかの形で効いていて、それが比較的安全だということ。
科学者たちは、今でもさまざまな異なる麻酔がどのようにして脳の機能をオフにするのか、解明に力を注いでいるのだとか。
トイレを精一杯我慢していたけれど、もう限界だった。こんなことで、ナースコールを押すのも嫌だったけれど仕方なく枕もとのそれを押す。
すぐに看護師さんがやってきて「今、ナースコール押した方ー」って、病室に向かって叫ぶ。
「はい!」
勢いよく返事をする私。だって、もう我慢できなかったんだもん涙
シャッとカーテンが開いて、看護師さんが顔を出す。
「どうしましたー?」
「あの、トイレに行きたくて……」
「手術終わった後は、動いちゃいけないんですよ。尿瓶で対応になりますけどいいですか?」
嫌だーって心の中で叫ぶ。でも、本当に耐えられそうになくて泣く泣くいいですと答える。来てくれた看護師さんが、一度戻って行く。するとすぐに、担当の看護師さんが来てくれた。
「朝日さん、後三十分したらトイレ行けるけどどうする? 尿瓶つかう?」
さっささささ三十分……。もうさんざん、我慢してのナースコールだったんだけどそう言われたら頑張るしかない。というか、頑張りたい。
「わかりました。頑張ります……」
そっからの三十分が、長かった。手術後に何やってんだろ私って自分に呆れたよね……。ちなみに看護師さんは、私ができればトイレに行きたいだろうと思ってわざわざ言いに来てくれただけなので。病室でさせるのが嫌とかじゃないから、あしからず。
何とか耐えきった私のもとに、「ちょっと早めに来たよー」と看護師さんが来てくれた。
「ついでに、手術着からパジャマにも着替えちゃいましょうね」
物凄いスピーディーに、点滴を一度止めてくれて管を取ってくれた。
「トイレに付き添わなくて大丈夫ですか?」
手術後、初めての歩行だったので心配して看護師さんが聞いてくれる。でも私は、すっかり覚醒していて問題なかった。とにかく、早くトイレに行きたいそれしかない。
「大丈夫です」
「わかりました。では、戻った頃にまた伺いまーす」
自由になった私は、走りたい気持ちを抑えてゆっくりとトイレに向かう。間に合った私は、あー良かったってホッと一息。
尿道カテーテル入れられるのも嫌だったけど、こんな弊害があるだなんて……。ままならないもんだ。
すっきりした私は、着替えのパジャマを取って病室に戻ったのだった。そして、自分で手術着からパジャマへと着替える。
手術したばかりとはいえ、口の中だったこともあり体は至って普通に動かせる。そのことが、本当に幸せだったって後で知ることになる。
次回、手術の後は②に続く




