第4話 巻き肩を治すマッサージ
――マッサージとは、筋肉との対話である。
それは俺が何年間もマッサージの事を学んで実感した事だった。
マッサージで痛みを取るならば、しっかりと「どこが凝り固まっているのか」を把握する必要がある。
ただひたすら筋肉を揉みほぐしても意味はない。
巷に溢れているマッサージ機なんていうのは、気持ちが良いだけで、実のところ肩こりや腰痛の改善には役立たないのだ。
――これが俺の持論だった。
だから俺はフィオナに対しても、まずは筋肉の状態を見る事から始めた。
ベッドの上で俺に背を向けて女の子座りしているフィオナの肩周りを触っていく。
見たところかなりの『巻き肩』だった。
「どうしてこんなに巻き肩なんだろう? まだ若いよね?」
「巻き方? 髪のですか?」
フィオナの天然まるだしの回答に、思わず吹き出してしまう。
そうか。子どもが『巻き肩』なんて言葉を知っている筈がなかった。
「いや、肩のことだよ。肩が丸まっている状態のことを巻き肩っていうんだ。前傾姿勢……えっと、前かがみになる事が多いと巻き肩になりやすいんだ。だから普通なるのは大人なんだけどね」
「あぁ、そういう事ですか。んー、何ででしょう。普段魔法の勉強をしている時の姿勢が悪いんでしょうか」
「なるほど。いつもどんな姿勢で勉強しているの?」
俺の質問に対して、フィオナは「こうです」と動作で答えた。
その姿勢を見た瞬間、俺は合点がいって「なるほど」と声を出してしまう。
フィオナは典型的な『巻き肩になる姿勢』をしていた。
背中が丸まっていて、頭が前に出すぎている。恐らく長時間の勉強のせいで肩周りが悪くなっているだろう事は、容易に想像できた。
――面白い。俺はフィオナの肩の状態を見て、思わず笑みをこぼしてしまった。
もしフィオナに顔を見られていたら「気持ち悪いですっ」と罵られていただろう。
元来マッサージ好きな俺は、いつかは人に整体を施してみたいと思っていた。
しかし哀しいかな、なかなか気軽に「整体させて!」と言えるような関係性の人はいない。
けどこの状況なら、自然に他人にマッサージを施せる。
整体ヲタクの腕の見せどころだ――俺は自分の肩を鳴らして気合を入れた。
「じゃあ、早速マッサージをしていこうか。『痛気持ちいい』ぐらいがちょうどいいから、もし痛すぎたりしたら言ってね」
「わかりましたっ。お願いします!」
フィオナが元気な声で頭を下げた。
しかしその声の大きさと反して、身体は小さく震えていた。もしかするとマッサージが初めてだから、緊張しているのかも知れない。
さっきは緊急事態とはいえ急にツボを押してしまったから、今度は慎重に、リラックスさせながらやらないと。
俺はまずフィオナの肩周りを手のひらで擦り始めた。
こうすることで皮膚が温まって、血流が良くなる。血流が良くなれば副交感神経が優位になって、リラックスできるのだ。
肩周りをマッサージしてから数分が経った頃、フィオナの首がカクンと揺れた。そしてすぐに俺の方に首を曲げる。
「……ちょっと、寝ちゃってたかもです」
フィオナの顔に視線を向けると、少しとろんとした表情を浮かべていた。
これだけで眠たくなるなんて、よっぽど疲れが溜まっていたようだ。もしかしたらこの世界は、小学生ぐらいの子どもでもキッチリ働いているのかもしれない。
こんな小さな町に学校があるとも思えないし。そういや、図書館に行く時に学校のことについても聞いてみよう。忘れないようにしなくっては。
「全然、気持ちよかったら寝ててもいいよ」
俺はフィオナに優しく語りかけた。
寝ててもマッサージには影響ないし、何より俺の施術で眠くなるなんて、整体ヲタクの冥利に尽きるってものだ。
「いえっ、起きてますっ。何だか申し訳ないのでっ」
フィオナはそう言って手のひらで両目をゴシゴシと擦った。
そんな動作が可愛らしくって、思わず「フフッ」という笑みがこぼれてしまう。
フィオナの緊張が十分に解れてきたので、いよいよ巻き肩を治すマッサージに移る。
もともと俺自身も巻き肩だったから、どこを解せば良いのかは大体覚えている。俺はひとまず肩外兪を刺激しながら、巻き肩を治す方法を脳内から呼び覚ました。
そもそも巻き肩とは、肩や胸の筋肉が縮こまってしまうのが原因だ。
筋肉が縮こまると、自然と肩が前に出て猫背になる。常に背中が丸まってしまうもんだから、さらに筋肉が縮こまるという悪循環に陥る。
しかし縮こまった筋肉を解して正常に戻してあげれば良いだけなので、比較的治すのは簡単な症状だ。
多分素人の俺にもできるだろう。もっとも、ある程度の時間と日数は要するかも知れないけど。
肩外兪を刺激し終えると、次は腕にある『手五里』というツボを探し始める。
手五里は肘の関節から指四本分上にあるツボだ。ここを刺激することで、巻き肩が良くなる。
ローブが長袖だから手五里を見つけるのに苦労したけど、ようやく見つけた俺は少し弱めに親指でツボを押した。
その瞬間、フィオナが「んっ」と小さく声を漏らす。
「何かそこ、すっごく痛いです……」
頭を少し前に垂らしたまま、フィオナは眠そうに言った。
俺は「そうだろうね」と頷く。
「ここは巻き肩に効く『手五里』っていうツボがあるんだ。奥に響くような痛みがない?」
俺は親指の腹で手五里を強く押す。五秒ほど押してから離して、また押すのを繰り返した。
「はい……何だかジーンっていう感じがします……。巻き肩なのに、腕が原因なんですか?」
「うん。腕が捻れていると、肩にも負担がかかるんだ。だから実は肩が痛い時って、腕をマッサージするのも大事なんだよ」
「へぇぇ……マッサージって奥が深いんですねぇ」
フィオナは欠伸混じりに、感心するように言った。
さっきから俺は「痛気持ちいい」をモットーにマッサージをしているから、それが功を奏して既にかなり眠たいんだろう。
「次は鎖骨の方をマッサージするから、ビックリしないでね」
そう忠告してから両肩に手を置く。
そしてゆっくりと鎖骨に向かって手を這わせた。いきなり鎖骨に触れないのは、驚かせるのを防ぐためだ。
ちょうど鎖骨に手が届いたところで「年頃の女の子の鎖骨を触るのってさすがにヤバいかなぁ」という思いが頭の中を巡った。
しかし既に鎖骨を触っているのに、フィオナはまったく抵抗していない。恐らく俺が考え過ぎなんだろう。
――まぁこれもマッサージの一環だし、気にする事ないか。
そう思い直して、俺は鎖骨の窪みから指一本分下にある『中府』というツボを中指でグッと押した。
フィオナの呼吸に合わせて、息を吐いた時に中指で刺激していく。
巻き肩の場合は胸の筋肉が縮こまっているから、中府を押すのが何よりも効果的だ。
よっぽど気持ちよかったのか、フィオナも「じゅるり」と涎を啜る音を立てている。誤魔化すようにすぐに咳払いをしていたが、俺の耳は聞き逃さなかった。
「どうかな? 結構マッサージしたんだけど」
俺はフィオナの身体から手を離すと、そう呼びかけた。
そして「肩を回してみて」とお願いする。両肩をぐるんっと回したフィオナは、驚いたように座ったままその場で飛び跳ねた。
「すっごいです! さっきよりも格段に肩が動くようになりました! ……ちょっと、杖を取って貰えますか?!」
フィオナに言われて、棚の上に置いてある杖を持っていく。
杖を受け取ったフィオナは、ベッドに座ったままの体勢でそれを振り始めた。
左に、右に、下に、上に。どうやら自由自在に杖を振れるようになったらしいフィオナを見て、ホッと胸を撫で下ろす。
そして自分の胸の中に不思議な感覚が湧き上がっているのを感じて、ハッとした。
――何だろうな、この感覚。
久しく感じたことのない感情が胸を埋め尽くして、思わず戸惑ってしまう。
――昔は、よくこの感覚を味わっていた気がするけど。
果たして、何の感覚なんだろうか。
「……ハルカワさん?」
フィオナの声で現実に呼び戻される。
フィオナは杖を持ったまま、俺の方を見て小首を傾げていた。どうやらさっきから呼びかけてくれていたらしい。
「あぁ、ごめんごめん。もう肩周りは大丈夫かな?」
「はい、大丈夫ですっ! これならケルベロスが何匹襲ってこようと、全部退治できます!」
フィオナは杖を勢いよく振り下ろすモーションをして見せた。
「ははっ。できればケルベロスとはあんまり遭遇したくないもんだなぁ」
軽口を返してから、フィオナに近づく。パッと見た感じ、さっきよりも姿勢は良くなっているようだ。
少しマッサージをしただけだからすぐに元に戻るかも知れないけど、まぁ隣町に行くまでは保ってくれるだろう。
「よし、じゃあ最後に軽くストレッチをしよっか。もう一回あっちを向いてくれる? あぁ、杖は俺がもとに戻しておくよ」
フィオナから杖を受け取って、棚に戻す。
そして俺に背を向けているフィオナの後ろに立った。
「まずは肘を曲げたまま、両手を横に上げてもらえる?」
俺の指示に、フィオナは少し戸惑ったような反応を見せてから従ってくれた。
ちょうど小さくバンザイをしているような姿勢になる。
「そしてそのまま、胸を張って。肩甲骨が引き締まるのをよく感じてほしい」
「肩甲骨……って、どこですか?」
その問いかけに、俺はフィオナの肩甲骨を触ってから「ここだよ」と答えた。
肩甲骨は背中にある、肩の付け根の骨のことだ。
逆三角形の骨で、正常であれば背中から少し出っ張っている。
逆に肩甲骨が背中に埋もれている場合は、どこかの筋肉が硬くなっている証拠だ。これでは肩が凝ってしまう。
もちろんフィオナもご多分に漏れず、肩甲骨が背中に埋もれていた。
「こう……ですか?」
フィオナが胸を張ると、埋もれていた肩甲骨が少し浮かび上がる。
俺は「その調子」と言ってから、フィオナの両手首をゆっくりと掴んだ。
「そのまま後ろに腕を伸ばしてみよっか。倒れても俺が支えてるから大丈夫だよ」
優しく言うと、フィオナはゆっくりと腕を後ろに伸ばした。
俺はその腕を支えつつ、さらに後ろに引っ張る。
フィオナは「ん~~~~っ」という気持ちよさそうな声を隠そうともしていなかった。
肩甲骨を伸ばすのはそれだけ気持ちいい。俺はオフィスで肩甲骨伸ばしをした時、何度か変な声を出しては白い目で見られていた。
「あとはこれを十回ぐらい繰り返そうっか。それじゃ姿勢を戻して?」
フィオナに指示をして、肩甲骨伸ばしを十回繰り返す。
十分にストレッチが終わった後、フィオナは「はぁぁぁ」と大きく息を吐いた。
「これ……すっごいですね。何だかよく眠れそうです……」
「今は寝たら困るけどさ、マッサージやストレッチは自分でもできるから、これからは定期的にやるといいよ」
俺はそう言ってから、素早く棚の上にある杖を持ち上げた。
このままのんびりしていたら、本当にフィオナが眠ってしまいそうな雰囲気があったからだ。
「それじゃあ、行こうか。――クラデシュへ」
フィオナに杖を手渡す。
フィオナはがっちりと杖を握り込むと、ゆっくりと頷いてみせた。