第1話 草原と少女とケルベロス
冷たくひんやりとした風が、俺の頬を撫でる。
寒さに身震いしながら目を開けると、パッと目の前に満天の青空が広がった。
「……んん?」
さっきまで暗闇の中にいたのに、どうして次はこんな絶景が見えるのだろうか。
もしかしたら目が疲れて幻覚が見えているのかも知れない。
俺は人差し指と親指で、目頭の間にある『睛明』というツボを押した。
ここを押すことで、目がスッキリとする。
数十秒ほど睛明を刺激してから、もう一度目を開ける。
しかし相も変わらず、そこには青く澄み渡った空が広がっているだけだった。
「何なんだ、一体……」
呟きながら周りを見ようとした時、自分が地面に横たわっている事に気付く。
どうやら草原の上にいるらしい。みずみずしい色をした短い草が、俺の肌に絡みついていた。
起き上がって周囲を見渡すと、あたり一面には草しか見えない平野が続いていた。
全くもって事態が飲み込めない。しかしこのまま立ち尽くしていても何も始まらないだろう。しばらく歩いてみるか。
もしかしたらどこかに閻魔様でもいるかも知れないし。そういえばさっき聞こえた声は、閻魔様のものかも知れないな。
そんな風に思いながら歩き出そうとした時、突然背後から「あのっ!」と声をかけられた。
驚いて振り向く。そこには銀髪の少女が立っていた。髪とは対象的に真っ黒なローブを身にまとい、手には長い杖のような物を持っている。
ひと目見て「コスプレか何かしているのかな?」と思った。ゲームのキャラクターのような見た目だったからだ。
「あっ、すみません……何か用ですか?」
そんな普通の受け答えをしてしまい、俺は内心で笑ってしまった。
ここは間違いなくあの世なのに、何を悠長に会話をしようとしているのか。
「ここで何をしてたんですか? 寝っ転がってたみたいですけど」
まん丸い瞳で、少女が俺の事をジーッと見つめてくる。どうやら随分と前から見られていたらしい。
周りを見る時に後ろを振り返っていなかったから気付かなかったようだ。
「いや……別に。キミこそ、こんなところで何をしているの?」
「私はマホウの練習をする為に来ました」
「マホウ? それって魔法のこと?」
「えっ? そ、そうですけど……あのっ。あなたはどこの町の人間ですか?」
少女の俺を見る目が、どんどんと険しくなってくる。
しかしそれは俺も同じだった。言葉は通じ合っているのに、全くもって意思疎通ができていないような感触がある。
ええっと、こういう時はどうすれば良いんだったかな。
取引先と全く会話が成立しない時に、先輩から教えてもらったテクニックを必死に思い出す。
あぁ、そうだ。こういう時は前提を確認するべきなんだ。
話が成立しない時は、だいたい前提のすり合わせができてないせいだと先輩が言っていた。
「あの……さ。ここってどこなのかな。実はさっきまで寝てて、気付いたらここにいたから場所が分からなくって」
「ここですか? ダグリエル草原ですけど……もしかして、どこか調子が悪いんですか? いまお医者さんを呼んできますけどっ」
少女が青色の綺麗な瞳をぱちくりとさせながら、上目遣いで聞いてくる。
そんな少女を「大丈夫」と制してから、俺はまた思考を巡らせた。
ダグリエル草原。それは聞いたことのない地名だった。
しかしどうやら、ここは死後の世界ではなさそうだ。死後の世界にも医者がいるなんて、さすがに馬鹿げている気がする。
でも死後の世界でないとしたら、ここはどこなのか。
会社のオフィスで倒れた俺が、どうしてこんな草原にいるのか。
色々と考えるが、思考がまとまらない。
また少女に質問を投げかけようとした時、突然どこかから獣のような雄叫びが聞こえた。
思わず雄叫びのした方向に顔を向ける。そこには一匹の犬がいた。黒くて大きい、ドーベルマンみたいな犬だ。
犬がいるって事は、ますます死後の世界って事はなさそうだ。
だとしたら――。
「下がっていてくださいっ! 私が相手しますっ!」
突然。少女が俺の前に飛び出してきた。そして杖を犬に向ける。
「えっ、ちょ、ちょっ。何してるの? あれは犬だよ? 杖でも投げるつもり?」
「静かにしていてくださいっ! 集中力が途切れたら失敗するかもしれませんっ! ――ファイアボール!」
そう叫ぶなり、少女は犬に向かって杖を振りかざした。
いや。振りかざしたように見えた。
ドサッという鈍い音を立てながら、少女の持っていた杖が地面に落ちる。
しばし呆然としてから、少女が「杖を振りかざそうとして落とした」事に気付いた。
「――またやっちゃった……!」
少女が悲鳴にも似た声を上げながら、その場にしゃがみ込んで杖を拾おうとした。
しかし。それよりも早く、犬が少女めがけて飛びかかってきた。
「うおっ、危ない!」
咄嗟に少女を抱きかかえると、そのまま右横に跳躍した。
そして背中から地面に着地する。ドシン、とした衝撃が背中を走った。
しかし少女が軽くて地面が土だったから、思ったよりもダメージはなさそうで一安心する。
「ドーベルマンって、あんな気性荒かったっけ?」
少女を抱きかかえたままの姿勢で、俺は呟くように言った。
少女は俺の言葉を聞いて「何を言ってるんですっ」と首を左右に振った。少女の頭頂部が俺の顎下を何回も擦ってこそばゆい。それに少し良い匂いもした。
「あれは『ケルベロス』ですっ! もし噛みつかれたら、大怪我じゃ済みませんよ!」
「ケルベロス? それってあの、番犬的な?」
少女に言われて、犬――もといケルベロスの事を凝視する。
長い尻尾に、鋭利な爪。そして「グルルゥ」と低く呻きながら俺たちの事を威嚇するその仕草。
「あれっ、もしかして狙われてる……?」
「だから、そう言ってるじゃないですかっ」
少女が俺の腕の中でジタバタともがく。
しかしこのまま離していいものか判断ができず、俺は少女を抱きかかえる腕に力を入れた。
「離してくださいっ。あなたは剣を持ってないみたいですし、魔法を使わないと倒せないですよっ」
「剣? 魔法?」
普段は耳にしないような単語の連続で、思考が追いつかない。
何故にこの少女は、剣や魔法があるのが当たり前みたいな口ぶりなのだろうか。
「早く離し――」
少女が言うより早く、ケルベロスが咆哮をあげながら突進してきた。
少女を抱きかかえたまま、地面を転がるようにして逃げる。
なんとか回避するも、ケルベロスはすぐに俺たちに向き直った。
地面に寝転がった状態では、あまり距離は稼げない。早く対策を練らなければ――。
「……あのさ。あの杖があったら、魔法使えるってこと?」
ふと、さっき少女が言っていたことを思い出す。
ケルベロスのあの脚力から逃げ切るのは現実的ではない。なら撃退するのがベストな策だろうと思った。
もし少女が本当に魔法なんて物を使えるのであれば、まだ打開策はある。
「さっきからそう言ってるじゃないですかっ」
「でもさっき『またやっちゃった』って言ってたよね。本当に魔法、使えるの?」
「使えますっ! たださっきは、その……魔法を出す時に杖を落としちゃっただけでっ」
「じゃあ杖を持ってきたら、あのケルベロスを退治できるかな?」
俺は落ちている杖を見た。転がって逃げたせいで杖から十メートルぐらい離れてしまったけど、ダッシュすれば何とか回収できるだろう。
ケルベロスの動きは早いけど、突進は直線的だ。横っ飛びすれば、避けられない事もない。
「できると思いますけど……杖を持って来られるんですか? 丸腰ですよね?」
心配そうに問いかけてくる少女を地面に下ろすと、俺はゆっくりと立ち上がった。
そしてケルベロスと向かい合う。
激しく口で呼吸をしながら涎を垂らしているケルベロスは、俺のことを一心に見つめていた。
ケルベロスの後ろ足が何度も地面を蹴っている。どうやら突進のモーションに入ったようだ。
突進された時に少女を巻き込まないために、ケルベロスから視線を外さずにジリジリと横に移動する。
刹那。ケルベロスが後ろ足を大きく蹴り上げて、俺に目掛けて突進してきた。
直前まで引き寄せてから横っ飛びで突進を回避すると、杖に向かって全速力で走り出す。
「よしっ、回収した! 後は頼んだぞ!」
俺は杖を拾い上げると、少女の目の前に放り投げた。
我ながら上出来な放物線を描いて、杖が少女の前にドサッと落ちる。
少女は膝立ちで近づいて杖を拾うと、両手で強く握った。
これでケルベロスを倒せる――と思ったのも束の間。
少女が魔法を使わずに呆然としている姿を見て、俺は首を傾げた。
「どうしたんだ? やっぱり魔法使えないのか?」
少女に聞こえるように大きな声で話しかける。少女は頭を左右に振ると「違うんですっ」と叫んだ。
「魔法は使えるんですっ。でも……肩が痛くって、杖を振れないんですっ」
「杖を振れないって……そんな事――うおっ!」
ケルベロスが俺に向かって突撃してくる。紙一重で躱して、少女に視線を戻す。
少女は左手で右肩を押さえていた。苦悶の表情を浮かべているところを見ると、どうやら本当に肩が痛いらしい。
「……肩の痛みが取れたら、杖は振れるのか?!」
「それはもちろんですっ。ただずっと痛くて治らないんです。ここは逃げるしかないんじゃないでしょうか……!」
「いや、逃げるのは危険だ。あの速さだとすぐに追いつかれる。――今そっちに行くから、ちょっと待っててくれ!」
少女に言葉を投げかけてから、ケルベロスに向き直る。
ケルベロスの足の速さはかなりのものだけど、すぐに止まったり方向転換はできないようだ。つまり攻撃の直後には隙がある。
次にケルベロスが攻撃してきた時、俺はその隙を逃さなかった。
急いで少女のもとに駆け寄ると、背後に回った。
「ちょっと、じっとしてくれっ」
吐き捨てるように言ってから、少女の肩に手を回す。
肌に触れた瞬間、少女の筋肉がピクンッと波打つ。
「ひゃっ?! なっ、何するんですかこんな時に!」
少女が抵抗しようとする。
俺は少女の華奢な両肩をガッチリと両手で掴んで、身動きを制した。
「これから肩周りの筋肉を解す。もし杖を振れるようになったら、すぐに攻撃してくれっ」
少女の肌の上で両手を滑らせ、肩甲骨の上にある『肩外兪』というツボを見つけると、俺は両手で力強く押した。
「あっ……ん、んっ」
少女が喘ぐように吐息を漏らした。触った感じ、かなり肩周りの筋肉が硬い。押されるとかなり痛いだろう。
しかし俺は動きを止めることなく、肩外兪を刺激し続けた。
肩外兪を刺激する事で肩の動きがスムーズになるから、これできっと杖を振れるようになる筈だ。
「よぅし、これでオーケーだ。ちょっと杖を振ってみてくれっ」
少女の両肩から手を離す。
少女は首を後ろに反らして、俺を見上げてきた。少し不安げな表情を浮かべている。
「あの……さっきのは一体なんなんですか?」
「言ったろ。肩の筋肉を解したんだ。キミぐらいの年齢で肩が痛いって事は、多分筋肉が固まっちゃってるんだ。それを柔らかくしたから、きっともう大丈夫」
俺はお墨付きとばかりに、少女の右肩をポンと叩いた。
「それより、早く攻撃しないと。またケルベロスが襲ってくる」
少女にマッサージをしている間、ケルベロスはずっと遠くで俺たちの事を注視していた。
恐らく何かしらの攻撃をされると警戒していたのだろう。見た目や攻撃の仕方に反して、意外と知能は高いようだ。
「そうですけど……。本当にこんなんで――」
少女が杖を空高く掲げる。
思ったよりも腕が高く上がって驚いたのか、少女はそのままの体勢で動きを止めた。
「いい感じに筋肉が解れたようだ。これなら腕を振っても痛くないぞ」
少女に話しかける。少女は大きく見開いた目で俺を見つめた後、小さく頷いた。そして。
「――ファイアボールッ!」
杖を振りかざすと同時に、魔法名のようなものを叫んだ。
その瞬間。杖から火の玉が放たれる。それは一直線にケルベロスに襲いかかった。
火の玉が直撃したケルベロスが、甲高い悲鳴をあげながらその場に倒れる。そして起き上がるなり俺たちを一瞥すると、そそくさと走り去ってしまった。
どうやらケルベロスを倒すには至らなかったものの、撃退する事には成功したらしい。
ホッとした俺は、安堵からその場に座り込んでしまった。
「――魔法が使えるって、本当だったんだ」
ポツリと、本心が漏れる。
少女は俺に振り返ると「えっへん」と、ないに等しい小さな胸を張った。
「だから言ったじゃないですかっ。これでも私、街で一番の魔法使いなんですよ。……それにしても」
少女が杖を持っていない方の腕をぐるぐると回す。
少女の顔からは笑みがこぼれていた。
「こんなに肩が軽快に動くのは久しぶりですっ。一体何をしたんですか?」
「さっき言った通りだよ。もしかしてマッサージって知らない?」
「聞いた事ないです。そういう魔法か何かですか?」
うーむ。いまいち会話が噛み合っていない。
とはいえこの少女は十代前半ぐらいの年頃だ。それならマッサージという言葉を知らなくても無理はないかもしれない。
マッサージの良さを知るのは、大抵は社会人になってからだろうし。
「まぁその話は一旦置いといて。……近くに安全な場所ってあるかな? ここにいると、またいつケルベロスが襲ってこないか心配で」
言いながら、俺はサッと周囲を見渡す。今度は背後もしっかりとチェックした。
今のところケルベロスの姿は見えないけど、あの素早さなら、いつ近づいてくるか分かったものではない。なるべく早く立ち去りたかった。
「それならひとまず街に戻りましょう。傷の手当もできますし」
少女は俺の右肘を見ながら言った。
どうやらさっき転げ回っている最中に、擦りむいてしまったようだ。
血は出ていないけど、赤く腫れてしまっている。
「あぁ、ありがとう。確かに言われるとちょっと痛い――」
そこまで口にして、俺はある事に気付いた。
――どうして俺は、半袖なんだ?
俺は仕事をする時、いつもスーツを着る。
内勤のメンバーは私服オーケーだが、着る服を選ぶのが面倒な俺は毎日スーツだった。
なのにどうして俺は今、半袖なんか着ているのか。
慌てて下半身も確認すると、まるで少年が履くような短パンを身に着けていた。
……訳がわからない。思えばケルベロスのせいで考える暇がなかったけど、俺がここにいる事自体がおかしいのだ。
「――どうかしました?」
顎に手を当てて思考に耽る俺を、少女が心配そうに見つめてくる。
俺はすぐに表情を崩して笑顔を作った。
「いや、何でもないよ。とりあえず街まで案内してほしいな」
何はともあれ、今は人気の多いところに行くのが先決だ。
どういう状況に陥っているのかは、それからゆっくりと考えていけばいい。
「分かりましたっ。それじゃあ行きましょうか。……そういえば、あなたのお名前はなんて言うんですか?」
「あぁ、そう言えば自己紹介がまだだった。俺は春川秋吾。キミは?」
「私はフィオナ・ソニャールです。ハルカワシュウゴ……なんだか不思議なお名前ですねぇ」
フィオナは俺の名前を復唱して、不思議そうに首を傾げた。
しかしそれを言うなら俺も首を傾げたかった。フィオナ・ソニャールなんて、確実に日本人の名前ではない。
もしかしてここは異国なのだろうか。どうして会社にいた俺が、いきなり異国に飛ばされているのか。
「――どうしたんですか? 早く行きましょうっ」
フィオナの声によって俺の思考が途切れる。
顔を上げると、既にフィオナは十メートルぐらい先を歩いていた。
――まぁ、後でゆっくりと考えるか。
そう思い直した俺は、軽く右手を上げてからフィオナの元に駆け寄った。