第8話 ブロンドヘアの美女と、ストレッチ
棚から持ってきたナイフをカウンターに置くと、そのまま店員と二人で中に入る。
カウンターの中は狭かったが、二人なら十分入るスペースがあった。俺は店員を椅子に座らせると、カウンター内をウロウロしながらどうやって治そうか考え込んだ。
さすがに女性の身体に触れると殴られるだろうから、ストレッチにするのは確定だ。
その上で首と肩の痛みを治すのであれば――まぁこれとこれが妥当かな。
考えがまとめ終わったので、店員と向き合う。
俺はまずストレッチの概要を説明した。ストレッチとは筋肉を伸ばし、柔軟性を高める行為であること。そしてそれをすれば、首と肩の痛みが良くなること。
説明を聞き終わった後、店員は不思議そうに首を傾げた。
「それだけで痛みが取れるのですか……?」
「えぇ、そうです。そのストレッチの効果を、私の魔法で強化します。――では、早速始めましょうか」
説得する際に勢いで「魔法」という言葉を使ってしまっただけに、ここを深く突っ込まれると面倒臭い。
店員に考える暇を与えないために、俺は早くストレッチを始める事にした。
――それにしても、やっぱりこの世界の住人は、ストレッチという概念を知らないらしい。
ということは、当然マッサージについても知らない訳だ。マッサージってかなり昔からあるって聞いた事があるけど、やっぱり文化レベルが違うのが原因なのかな。
そんな事を考えつつ、まずは首周りのストレッチから始める。
「まずは首を回しましょう。ゆっくりと、首全体の筋肉が伸びるのを感じながら、三回転するまで回します。終わったら反対の方からも回してみてください」
そう言いながら、俺も店員の前で首を回し始める。
店員は俺の動きを見てから、見様見真似で首のストレッチを始めた。
「……何だかゴキッという音がしたのですが、平気なのですか?」
「それは大丈夫です。筋肉が硬いと、骨と擦れてゴリゴリと鳴るんですよ。やっぱり早めに治療した方がいいですね」
言いながら、今度は右手を頭の左側に持っていく。そのまま腕を引いて、頭を右に倒した。
「今度は首を伸ばしましょう。私のやり方を真似してください。首の左側が伸びるのを感じますか?」
「……はい、感じます。何だか痛いというか、気持ちいいというか」
「首が痛いのであれば、正常な反応です。あんまり強く倒しすぎても痛くなるので、痛気持ちいいぐらいで止めておいてくださいね」
「痛気持ちいい……」
店員は呟くように言った。右側に三十秒倒してから、反対側でも同じことを行う。
この時にはもう既に店員はストレッチの魅力に取り憑かれていたようで、目を閉じながら気持ちよさそうな顔をしていた。
眉が太めで犬っぽい顔をしているから、昔実家で飼っていた犬の寝顔を彷彿とさせる。思わず懐かしくなってしまった。
左側のストレッチも終えると、次は両手を後頭部に持っていって、そのまま前に倒す。
「これは首と頭を繋げる筋肉を伸ばすストレッチです。また三十秒キープしましょう」
この体勢だと下を向いているから店員の動きは見えないけど、衣擦れの音からするにちゃんと真似してやってくれているようだ。
「次は両の手のひらを合わせて、指先で顎を上に持ち上げます。首の前の筋肉が伸びるのを感じてください。これも三十秒伸ばします」
ストレッチは伸びる筋肉を具体的に感じることで、より効果を実感できると言われている。
だから出来るだけ丁寧に「どこを伸ばすストレッチなのか」を具体的に言うようにしていた。
――なんだ。俺って実は、整体師とかセラピストとか、そっちの方が向いていたんじゃないかな。
即興で他人にストレッチを教えることのできる自分の才覚に驚いていた。
――もっと早めに、転職すれば良かったのかもしれない。
ふと、そんな事を思う。
もし過労死するまでにマッサージ系の職種に転職しておけば、死ぬことはなかったかも知れないのに。
「――あのっ。先生?」
その言葉でハッとする。とうの昔に三十秒は経っていて、次の動きを店員に催促されているのだ。
いけないいけない。今は目の前の店員に集中しないと。
「……失礼しました。あと、私は先生ではありませんので」
顔を上げながら、ぶっきらぼうに言う。実際は「先生」と呼ばれることには縁のない人生を送ってきたので、嬉しくて仕方なかったけど。
「あら、そうなんですか。こんなに素晴らしい魔法を使える方なので、何かしらの先生かと思いました」
店員はブロンドヘアをかき上げながら、フフッと微笑んだ。
……魔法を使えるって言ったの、ちょっと失敗だったかなぁ。この世界では「魔法の普及率がどれぐらいなのか」が分からなくて、思わず嘘をついちゃったけど。話がややこしくなっている気がする。
「とんでもないです。……さっきので首周りのストレッチは終わったのですが、どうですか? 効果の方は」
「とても良くなりました。まるで新しい首に取り替えたみたい」
「ははっ。面白いことを言いますね。じゃあ次は肩周りのストレッチをしていきましょうか」
ストレッチをするために、両肘を外側に向けながら手を肩に乗せる。そうして肩をグルンっと一回転させた。
「これも三十秒続けましょう。肩周りの筋肉が解れていくのを感じると思います」
俺の言葉に続いて、店員も肩を回し始める。このストレッチは、肘が下を向いた時が一番筋肉が伸びる。
だから店員も、肘が下を向いたときには気持ちよさそうに顔を歪めていた。
「次は両肩を上にあげて、筋肉を伸ばしてください。肩をすぼめるイメージです」
言いながら、両肩を大きくすぼめる。すぼめ過ぎて、肩が耳に当たるほどだ。しかしこのストレッチは、これぐらいしないと意味がない。
「そのまま五秒キープして、その後に一気に脱力させます。力を抜くんです。……三、四、五――脱力です」
両肩をストン、と落とす。この脱力のときに、一気に気持ちよさが身体を襲うのだ。
これを三回繰り返してから、今度は肩甲骨のストレッチに移る。フィオナにもした、腕を後ろに伸ばすやつだ。
すべてのストレッチを終えた後、店員は満足げに「ふぅ」と吐息を漏らした。
「……不思議な魔法ですね。ただこれだけで、こんなに肩や首が良くなるなんて」
店員は首や肩を回しながら、感心するように言う。俺は「そうでしょう?」と嬉しそうに笑みを作った。
「まぁこんなところです。――では、もし満足いただけたなら、ぜひナイフをお譲りいただきたいのですが」
カウンターに置いていたナイフを手に取って、店員に見せる。
店員は「もちろん構いません」と笑顔で答えてくれた。
「こんな風に身体の不調を取り除いていただいたのですから、お返しをいない訳にはいきません。代金として、そちらのナイフをお持ち帰りください」
「ありがとうございます。では、また。――あぁ。さっきのストレッチは、ひとりでやってもある程度効果は見込めるので、ぜひお試しください」
俺は最後にアドバイスをする。まぁここを立ち去ったあとであれば、ストレッチが魔法じゃないとバレても問題ないだろう。
「承知しました。……また、いつかお会いできますか?」
店員は二十代後半ぐらいにも関わらず、しおらしく言う。
俺は少し考え込むようにしてから「もちろん」とだけ返すと、そのまま颯爽と武器屋を後にした。