プロローグ
深夜二時。俺はコンビニで買ってきたアイスコーヒーを飲みつつ、黙々とキーボードを叩き続ける。
とっくに在来線の終電が過ぎているので他の社員は全員帰っているが、残業するために会社から徒歩三分の家に引っ越した俺に抜かりはなかった。
「クッソ……何でこの部分、上手くいかないんだ……」
モニターを睨み付けながら、ひとりで唸る。今週中に新しいWebサイトを立ち上げないといけないのに、サーバーの設定が上手くいかない。普段なら社内のエンジニアに丸投げするところだが、今回ばかりはスケジュールの都合で俺がやるしかなかった。
しかし俺の専門はWebサイト制作のディレクションだ。サーバーなどという意味不明なシステムを相手に仕事をするのは慣れていない。
必然的に作業は難航し、こんな時間まで仕事をしているというのに、進捗は芳しくなかった。
もしこのまま今週中にサイトの立ち上げが完了しなければ、また上司から激しく叱責されてしまう。ここ最近上司の怒りはますます燃え盛っており、仕事で疲弊している俺はその叱責を受け流すだけの気力がなかった。何としてでも、今週は怒られずに週末を迎えたい。
「あーっ……肩がいてぇ……」
長時間モニターに向かって作業をしていたので、肩が凝りに凝っている。
オフィスに誰もいないのを良いことに、俺は大きなため息をつくと、カバンの中から木製の指圧棒を取り出した。
そして首の根元近くで凝り固まっている筋肉をググッと強く刺激した。
その瞬間、痛気持ちいい刺激が肩全体に広がる。俺は思わず「ほぅ……」と恍惚の声を出してしまった。
肩の筋肉を何度も何度も強く刺激する。硬くなった筋肉がほぐれていき、血が巡っていく。
肩が凝った時は少しツボを押すだけですぐ良くなるから不思議だ。
もっとも、ちょっとマッサージしたぐらいではすぐに硬くなってしまうけど。
左側をマッサージし終わった後は、すぐに右側に取り掛かる。
――やっぱり、マッサージはいいなぁ。疲れが取れるし、何より気持ちいい。
日々死にそうなぐらい激務な俺にとって、マッサージは唯一の癒やしだった。
この快感のために生きている、と言っても過言ではない。
右側の筋肉もほぐすと、俺は指圧棒をデスクに置いて両肩を回した。
うん、問題なく動く。すこぶる快適だ。
仕事が終わるまでは保ちそうだから、家に帰ったら本格的なマッサージをしよう。
そう思いながら、再びモニターに向き直る。
モニターにはサーバーの管理画面が表示されていた。ここに書いてある『SSL設定』だの『DNSレコード設定』だのの専門用語を解読しない事には、きっと先に進めないだろう。
気合を入れ直すためにアイスコーヒーを啜るが、ズズっと嫌な音を立てるだけで何も吸い込めない。カップを見ると、既に中身が空になっていた。
――仕方ない。気分転換も兼ねて、コンビニに行くか。
そう思って立ち上がった時、目の前がくらりと揺れた。その直後、右腕に鈍い痛みが走る。
自分がその場に倒れ込んでしまったと気付いたのは、それから数十秒してからだった。
「いってぇ……何なんだ、いったい……」
呻きながら立ち上がろうとするも、思うように力が入らない。次第に目の前が真っ暗になり、ザザーッというノイズ音が加速していく。
ここから動けないと諦めた俺は、そのまま床に頭を付けた。頬から、タイルカーペットのザラザラとした肌触りを感じる。目が見えなくて耳も聞こえないというのに、触感だけは生きているんだな、凄いなぁと妙な部分に感心する。
――あれっ。もしかして俺、ここで死ぬのかなぁ。
死を意識したというのに、俺の心は落ち着いていた。「死にたくない」という気持ちは一切なかった。
それよりも「ようやく楽になれる」という気持ちの方が強かった。
ここで死ねば、もう激務に追われる事はない。上司から厳しい叱責を受ける事もない。
――なんだ。死ぬって、救済だったんだなぁ……。
こんな簡単なことに、今になって気付いた。もっと早くに気付いていれば、これだけ苦労せずに済んだものを。
意識が徐々に薄れていき、ポカポカとした温かいぬくもりを感じる。
それがタイルカーペットによるものなのか、死を間際にしているからなのかは分からない。
しかし救われる気持ちのまま、俺は深い眠りについた。
◇
気が付くと、フワフワとした浮遊感が俺の身体を包み込んでいた。
目を開けても何も見えない。ただひたすら闇が続いている。光さえ差し込んでいないようだった。
一体何が起きたのか、ボーっとした頭で必死に考える。
そうだ、俺は死んだのだ。残業中に会社で倒れて、床で死んでしまったのだ。
――ということは、ここが"あの世"なのだろうか。
死後の世界なんてないと聞いていたけど、どうやらそれは嘘だったらしい。
俺はこれから、きっと天国か地獄に逝くのだろう。あれだけ頑張って働いたんだから、せめて天国に逝きたい。
「……それで、今回はどうなんだ。……の人間か。……えるのか」
どこかから、かすかに声が聞こえる。声の主はかなり遠くにいるみたいだから、内容までは完全に理解できない。
――はて。死ぬ前には耳が聞こえなくなっていたハズなのに。
声が聞こえて一瞬そう思ったが、すぐに首を振った。
死後の世界なんだから、きっと生前の傷や病なんて全て治っているのだろう。
「……えないのか。であれば……だな。……に捨てれば、勝手に死ぬだろう」
その声が聞こえた瞬間、突然視界が眩しく光る。
まるで目の前でフラッシュでも焚かれたような閃光だった。
まぶたを閉じてもなお視界一面に広がる光に耐えきれず、俺はそこで気を失ってしまった。