後編
「側妃様、ご懐妊でございます。」
「そうか。」
眠れぬ夜と、気を失ったように眠る夜を繰り返し続けて2か月が過ぎた頃、側妃の体調不良を診察した侍医が笑顔でそう告げたのを、私は殿下の横で聞かされた。
「おめでとうございます、殿下。」
私はにっこりと微笑みながら、ゆっくり頭下げてお祝いの言葉を申し上げた。
「……めでたい……そうか、めでたい、のだな。」
殿下は私の言葉に一瞬、視線を宙に彷徨わせてから、力なくそうつぶやいた後、侍医にいろいろと王太子として確認を入れていた。
私はただ、その隣でニコニコと笑って聞いていた。
夏に生まれてくる予定である事、今の側妃は妊娠初期のため、心も体も不安定になりがちなので穏やかに過ごしてもらえる環境が必要であることなど、侍医も詳しくそれに答えていた。
「では、キャスリン様に何か滋養の良いものを用意するように手配をして差し上げてくださいませ。」
殿下に私がそう言うと、彼は少し、目を細めた。
それは私にだけわかる、彼が傷ついたというサイン。
だが、彼はそのまま頷いて、私の背に手を当ててくれた。
「わかった。 陛下たちに報告をしてほしい。 それから、しばらく私たちを二人にしてほしい。」
殿下の言葉に侍医たちは国王陛下の元へ向かい、侍女侍従は部屋から出された。
ただの二人きりになった部屋で、私は改めて頭を下げた。
「殿下、改めておめでとうございます……お父上に、なられるのですね。 王子、王女、どちらでも、健康にお生まれになるのを楽しみにしましょう。」
そう言って微笑んだ私を、殿下は抱き絞められた。
「違う、私が欲しいのは、私とリジーの子だけだ。 生まれてくる子も、そうだ。」
耳元で言われた言葉に、私の心がどこがで。
クシャッ
と、つぶれた音が聞こえた。
「いいえ、いいえっ!」
気が付くと、私は殿下の胸に両手を押し当て、体を引き離していた。
「殿下と私の子ではございません。 殿下と、キャスリン様の御子ですわ。」
「違う、リジーの事だけを考えて作った子だ。」
殿下は私の手を掴み、項垂れるように頭を下げた。
「側妃の子ではない。 ……私が欲しかったのは、私と、リジーの子供、だ……。」
絞り出すような声が、私の耳に届く。
「側妃の子などいらぬ……私が欲しいのは、リジーの子だけだ……。」
「それは。」
私はゆっくりと首を振った。
「それは、王家のために側妃になってくださったキャスリン様に対してあんまりですわ……。」
「……わかっている。 だが……だが、私には無理なのだ……。」
「そのようなことをおっしゃってはいけません。 キャスリン様がお可哀想ですわ、殿下。」
「……リジー。」
弱弱しくそう言った殿下は、ふと、顔を上げて私を見た。
「いつも通り呼んではくれないのか……?」
とっさに顔を背けようとした私の手を、殿下が掴んだ。
「アルと、そう呼んでくれないのか?」
「……。」
顔を背けたまま首を振ろうとして……その時、私はあの日以来ようやくまともに彼の顔を見た。
ひどく憔悴したその顔に、私は目を見張る。
「殿下。」
握られていた両の手で、私はその人の頬に触れた。
以前よりも確実にやせてしまったと、触れて実感する。
「どうなさったのですか? お加減が、お悪かったのですか……!?」
柔らかに微笑む彼の顔の、青い瞳の周りが一層くぼんで見えて、私は首を振った。
「いつからですか? どうして……。」
そう言う私の頬を包むように、殿下の両手が触れた。
「……あぁ、やっと、君と目が合った。」
「……目……?」
そう言われて、私ははっとした。
綺麗に整えられた金の髪には白いものが交じり、綺麗なサファイアブルーの瞳は赤く充血し、目の下には刻み込まれたような隈、頬もこけて見える。
私はいったいいつから、彼の顔をまともに見ていなかったのか。
それがいつからなのか……いや、最後にお顔を本当に正面から見たのは、何時だったのか。
考えを巡らせ、それが側妃の話が初めて出た日ではなかったかと、自分が目をそらしていたものに気が付いた。
同時に、正妃として正しくあるべきと心を押し殺し続け、伴侶である殿下にすらその身の内を吐きだせずに只一人自分だけが苦しいのだと決めつけ、動揺に苦しんでいるではないか、と、相手の気持ちを慮り、問いかける事すらできなかった自分の浅はかさとその結果に平手打ちを食らったような衝撃を受けた。
「名前では、もう呼んでくれないのか……。 側妃を娶ったら私には、以前のように、君と語り合う事すら、許してもらえないのだろうか……リジー?」
いつの間にか流れ出していた私の涙を拭うように、殿下は親指を動かしながら、彼は静かに私と目を合わせた。
「アル、様……。」
「うん、その声だ、呼び方だ……。」
ほっとしたような顔をした殿下は、静かに私を抱きしめた。
「初めて側妃の話が出たあの日から、君と目が合わなくなっていた事が気になっていた。 だが私も、それに踏み込む勇気が今日までなかった。 ……私も、国のためとはいえ、貴族院で決まったこととはいえ……君を裏切った自分が許せず、君と目を合わせようとしなかったからだ。 すまない。」
そう言って、ゆっくりと殿下は私のきつく結い上げた髪を手で撫でながらつぶやくように言う。
「こんな時でも、リジーは私の事をそうして心配してくれている……けれど、君だって、同じだ。 私とおそろいの金の髪にこんなに白いものを増やして……青い瞳を赤く染めて執務を行っていた……私たちはあの日以降も、共にいたというのに、本当に言葉が足りなかったんだ。」
そう言う殿下の瞳に映る私は、化粧をしているのにもかかわらず、確かに頬がこけ、顔色も悪い事が分かった。
きつく結い上げた髪も、白いものを目立たせないように侍女たちが髪を結ってごまかしてくれていた。
それに、殿下は気付いていてなお、口にしないでいたのだろう。
私一人が裏切られたような気持になり、静かにどろどろとした黒い感情の沼に落ちてしまった私を、どうやって救い上げるか思案しながら。
「申し訳、ございません。」
「いや、私が悪かったのだ……我が身可愛さに君を傷つけた私が。 本当にすまない……私たちには本当に言葉が足りなかった。 もう一度、言葉を交わすことから始めよう。」
ゆっくり静かに抱きしめあった私たちは、そっと、口づけを交わした。
「子の名前は、シャーロットに決めようと思うんだ。」
「それは、かわいらしく素敵なお名前でございますね。」
私は今日も、殿下とお茶をいただく。
側妃であるキャスリン様の産んだ子は、栗色の髪に緑の瞳の、とても可愛らしい女の子であった。
殿下は母親となった側妃と新しく生まれた王女のために側妃宮の養育環境を整え、その子に良い名を贈られた。
「この子には、どんな名前を贈ろうか」
そっと、殿下が私の腹をそっと撫でた。
「まだ、どちらが生まれるかもわかりませんもの……でも、シャーロット姫と仲良く育つと、嬉しいですわ。」
そう告げた私は、次の春を待ち詫びる庭を見ながら、ゆっくりと微笑んだ。